癒しの世界全エッセイ集2004.11 6/7


地蔵菩薩

お地蔵様はね、神様方の中で一番慈悲深い神様でございます。
右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っておりまして、
この錫杖で地獄の囚人を救い上げるんですね。
そうしまして無言で先に立って歩いて下さる。
人の歩むべき道を教えて下さるんです。

地蔵和賛(じぞうわさん)という物語りがございます。
一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、
というフレーズで有名でございますが、

親を残して早死にした幼子が、
父母の居ぬ淋しさや例えようもない不安に慄きながら、
父母に会いたい余りに泣きじゃくりながら、
父母、兄弟の心の平穏と幸せを願いまして、
賽の河原で石を積む物語りでございます。

地獄の鬼が現れましてね、
子の生前の我侭を責め、親の不甲斐なさを責めまして、
折角積み上げました石を足蹴にして崩して行くんです。

そこにお地蔵様が現れまして、
地蔵様がその子の親代わりになり、救い上げるというお話でございます。

辛く悲しい物語りでございますが、お地蔵様の御登場に安堵しまして、
有り難さに涙がこぼれて参ります。
子供にもお優しくて、
本当に慈悲深い神様でございますね。

「帰命頂礼地蔵尊、これはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる、
賽の河原の物語り、聞くにつけても哀れなり。」
「哀れなるかな幼子が、立ち回るにも拝むにも、ただ父恋し母恋し、恋し恋しと泣く
声は、
この世の声とはこと変り、悲しさ哀れさ骨も身も、砕けて通るばかりなり。」

(親の声)
「残せし着物を見ては泣き、手遊び見ては思い出し、たっしゃな子供を見るにつけ、
なぜに我が子は死んだかと、嘆き悲しむ哀れさよ。」

「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母様と、さま幼(いとけ)なる手を合わ
せ、
礼拝回向ぞしおらしや、みっつ積んでは故里の、兄弟が身と回向する。」

(鬼の声)
「やい、子供、汝等は何をする、娑婆と思いて甘えるか、
汝等の父母は供養はすれど、ただ明け暮れに嘆くばかり、
親の嘆きは汝等が苦患を受くる種となる。
汝等罪なく思うかや、母の母乳が出ないとき、お前は泣く泣く無理を云い」

「峰の嵐を吹くときは、父が呼びしと起き上がり、
水の流れを聞くときは、母が呼ぶかと馳せ下り、
辺りを見れども母もなし、父を呼べども父も来ず、母を呼べども母とても、
知らぬが死出の山路なり、この苦しみを如何にせん、
こけつ転びつ憧れて、会いたや見たや恋しやと、もだえ嘆くぞ哀れなり。」

(講談社 「仏像は生きている」 田口汎著 より一部抜粋)


そう云いましたら、田植地蔵などという昔話もございました。

父と幼い娘の二人暮しでございましたが、
御父様が病の床に臥せりまして田植ができない。
貧しさ故に田植ができなければ食べて行くこともできません。

信心深い娘様が地蔵様に拝みましたところ、
次の日には田に水が張られ、苗が植え付けられていたんですね。
娘様が慌ててお地蔵様のもとに掛けつけますとね、
お地蔵様の下半身が泥だらけになっていたそうでございます。

本当に、無言で先に立って歩いて下さる、慈悲深い神様でございます。
でもね、本当は地蔵様は慈悲を備えた閻魔様のもうひとつのお姿であったりします。

昨年、ある方から地蔵饅頭というものを戴きました。
蓋取り開いてみまいらすれば、
なんと沢山の御地蔵様がいらっしゃる。
饅頭ひとつひとつにお地蔵様のお姿が浮び上がっているんですね。
ありがたやありがたや。
そんなことを呟きながらムシャムシャと食べちゃいましたけどね。

先日、その箱に印刷されておりましたお地蔵様を木に彫りまして版画を作らせて戴き
ました。
黄色いスタンプインクがございましたので、紫色の紙に写し取りまして、
拝ませて戴いております。
(ですから、左手の宝珠は実は饅頭かも知れません。)

本当に稚拙なものなんですが、
どなたか欲しいと仰られます方、いらっしゃいますでしょうか?
返信用の封筒を送って下さいましたら送らせて戴きますよ。
ガッカリなされるかもしれませんが。。。


児童虐待

最近、虐待で子供が死亡する事件が増えております。
本当に辛く悲しいことでございますね。
お地蔵様もきっとお心を痛めておられることと思います。

虐待しなければならない程に憎らしい子供でしたら、
親権を放棄して下さった方が、
その子や社会に取りましてもどれだけ迷惑を掛けずに済むか知れません。
そんな方は是非、保険所や児童相談所に御相談下さい。

御子様もね、
勇気をお持ち下さいまして、
教師や警察、周りの人に助けを求めて下さい。
周りの方も命を掛けてでもその御子様の命は守って差し上げて下さいませ。
もちろん私もその覚悟でございますよ。


地獄

先日は夢の中で地獄の一つを見て参りました。
ここはね、喫茶店とか遊園地があって一見楽しそうな場所でございました。

何人もの若い人達が集まって参りましてね、
遊園地に誘うんです。
誘われるままにゴンドラに乗りまして、
そのゴンドラが落下するんですね。
ごぼごぼごぼと水の中に落ちちゃうんです。

余り楽しくもない、ただほんの少しスリルを味わうだけの遊びでございます。
それをね、何度も何度も繰り返し飽きることなく続けるんですね。
全身がかぶれているような人やずっと眠り続けている人もおりました。

いい加減うんざりしましてね、別れましてそこを離れました。
少し休もうと喫茶店に入りまして、
でも、そこにまた彼らが待っているんです。
手を引っ張り、また遊びに連れて行こうとするんですね。

無理矢理そこを離れまして駅のような所に向かいますと、
誰かが待っていて、後ろからも誰かが追いかけて来るんです。
誰も逃さないぞって感じですね。

結局、彼等はこの世界から出られないことを悟っているんですね。
この世界から逃げられませんから、
無限に、永遠に、同じことを繰り返しているわけです。
新しいメンバーは決して逃さず仲間を増やそうとしているんです。

ここは地獄の中でもほんの初級の保育園レベルの地獄ですね。
自己中心の者ばかりが集まって造ってしまった地獄でございます。
なんだか争いや中傷ばかりしているどこかのサイトと雰囲気が似ております。

少しだけ真理に気付くことができましたら、
少しでも反省することに気付きましたら、
すぐにでも天に登れる場所なんですが、
御自身のことばかり考えていらっしゃる間は無限に同じことを繰り返すんでしょう
ね。

地獄はね、神様が御造りになられたものではなく、
罪のある亡者が集まって地の下に造ってしまった世界でございますね。
もっと深い場所の一部の地獄は閻魔様が入って管理しておられるんですが。

最近は恋愛にしましても、
御自身を相手に合わせるのではなく、
御自身に相手を合わさせようとする人が多いですね。
これは愛でもなんでもありませんよね。
愛を与えずに愛を求める。
自己中心であり、強引なものはまぎれもなくこの地獄と波長の合った意識でございま
す。

霊道というものがございます。
大きいものは天上界の幽界から、地底の幾つもの地獄にまで繋がっております。
丁度、大きな木と同じような構造になっておりますね。
根っこが地獄に繋がっておりますから、
魂の重みで落っこちちゃいますと地獄に直通でございます。
枝葉は現世のあちらこちらに繋がっておりますね。
どこに行ってしまうかは御心掛け次第でございます。

お気を付け下さいませ。

有り難いことに私の周りには神様の存在を確信して下さっておられる方が
沢山いらっしゃいます。
本当にお幸せな方々でございます。
勿論、そういったことはこの科学の時代にはそぐわないものだと
否定し切っていらっしゃる方も、
何となく信じておられて、
私と会って信じられなくなってしまった方もいらっしゃいます。(笑)

神様はね、忘れないでって仰られているんですよ。
それは神様の御意志に逆らって生きておられる方が如何に多いかを示しております。

一度神様の存在を確信するような出来事に遭遇しましたら、
否定する方が難しくなりますでしょう。

逆に低い意識と同調し続け、神の存在を否定し
或いはそれに等しい行為を続けていらっしゃる方は、
何も気付くことはありませんでしょうし、
神を目の当たりにすることもございませんでしょうね。

価値観の合わない者は悪口を云い、
悪友と愚痴を云い合い、嘲り合い、けなし合う。
そういった場に出入りしているだけでも同じでございますよ。
視野が本当に狭くなってしまうようでございます。
なんと悲しいことかと思います。

地獄の意識とおぼしき場所には近付かぬことでございます。
宜しくお願い申し上げます。


阿弥陀如来

阿弥陀様のことをお話しさせて戴きますね。

お釈迦様が法を説いておられます時に、
御弟子様の中にサーリプットラさんとアーナンダさんという御名前の方がいらっしゃ
いました。
サーリプットラさんは知恵に優れ、またアーナンダさんは理解力に優れておりまし
た。

お釈迦様がこの二人を呼びまして、こう仰られました。
「アーナンダよ、あなたはすぐに私を頼るが、私が死んだら一体どうするつもりなん
だね。
大自然に存在する法(真理)、万人の心の中に存在する法、
あなたがたはこれを燈明にして生きていかなければならない。
サーリプットラよ、この法はすなわちアミタ(知恵と慈悲)であるぞ。
この法は永遠に輝き、宇宙の遥か彼方まで照らし出すものです。」
とね。

さて御釈迦様が御入滅なされまして、
御弟子様方はこのアミタを永遠に忘れないためにそれを仏の姿に彫り上げまして、
アミタの象徴としておりました。
これがその阿弥陀様なんですね。


環境汚染

そろそろ桜の季節でございますね。
私の近くの桜も花をつけまして、春〜っていうような雰囲気を醸し出しております。
河岸に桜が咲いているような場所は良いですね。
薄桃色の花弁と青い空のコントラスト、
川面がキラキラ輝いていたりしまして、
そのような景色を見ながら歩いておりますと気持ちも和んでくるようでございます。

ところがですね、
実はどこの川も臭うんですね。
川辺に工場が立ち並びまして工業排水が流されているんでしょう。
なんだか少し気分が沈んで参ります。

そうしまして、その汚れた水が沢山の川から海に流れ込みます。
これが人の心でございます。
悲しいことでございますよね。

地球を守り、そこに素晴らしい社会を建設しなければならない人間が、
文明と云う大義の下に、
或いは個々人の儲けのために、
地球を破壊し、ゴミ溜めにしてしまおうとしているんです。

近年、新しい病原体が次々と産まれておりますね。
鯉ヘルペス、狂牛病、鳥インフルエンザ、
そしてまた、鯔の大量溯上などという異常現象もございました。
私は、これは自然の浄化作用ではないかと考えております。

20年程前になりますが、
風の谷のナウシカという映画が流行りましたね。
今でもテレビでたまに放映されますから多くの方も御存知だと思いますが、
ここの中で自然の浄化作用が美しいストーリーで語られておりました。

大自然にも免疫作用は存在します。
大自然も人同様に生きて活動しているんですからね。
悪い影響を与えるものは取り除いてしまうんです。

人間も、自然を病気にさせる病原菌として、
近い将来に取り除かれてしまうかも知れませんね。


中華料理店

先日は贅沢をしまして、近くの料理店で食事を戴きました。
餃子で有名な中華料理店なんですが、
ここの従業員さんは皆さん本当に良く働いていらっしゃるんです。

客を入り口まで迎えに行き、
厨房に戻って、
注文を取りに行き、
その注文を厨房に伝えに行き、
料理を運び、
厨房に戻り、
御帰りになられる方の清算にレジに行き、
テーブルの上を片付けて、
厨房に戻り、
水を注ぎに廻り、
厨房に戻り、
店の外に自転車を揃えに行き、
といった具合に、

一分間に3回くらい、
厨房と客席などを往復しているんです。
一時間ですと180回、
七時間労働ですと1,260回ですね。
お百度に換算しますと、
毎日12回以上お百度を踏んでいらっしゃるんですね。(笑)

客の動きを良く観察しておりますし、
それに次から次に良く気が付くものだと感心させられます。
皆さん仕事が好きで好きでたまらないといったような感じで楽しく働いていらっしゃ
るんですね。

ここまでしておりましたらね、
どのような店でも流行りますでしょう。
従業員さんの運気も悪くなることは絶対にありませんね。

それでもし人生が上手く行かないようなことでもありましたら、
神様も守護霊様も足蹴にして差し上げて下さいませ。
私も失礼ながら度々足蹴を食らわさせて戴いております。(笑)


人間

何故人は堕落しようとばかりするんでしょうかね?
食を貪り、大酒を食らい、人を傷つけ、欲に溺れ、自己中心で、
あたかも天国ではなく地獄を目指しているような生き方を好んでいるように見えま
す。
私も例外ではありませんけどね。
己を律し大自然の法則に則った秩序正しい生活を続けることが如何に難しいか、
幾度も挫けては立ち上がり、それを繰り返しては悩み苦しんでおります。

強い信念を持つ、正しい理念を持つ、
それだけではどうしようもない業が人間には刻み込まれているように思います。

大自然に森羅万象があるように、
四季の移ろいがあるように、
人の運勢にも森羅万象がございます。
そうして様々な運・不運に巡り合います。

良運には歓喜してうつつを抜かし、不運には泣き叫び自暴自棄になるんですね。
そうして目的や高い理念を見失い、努力することを止め、
流されて行くんでしょうね。

不運はね、
御自身の所業から来るものもございます。
偶発的なものもございます。
でもね、
私はこれは神様や大自然からのプレゼントであると考えます。
 
心を大切にし、縁を大切にし、
慈愛と慎みと真心と信念を持っておりましたら、
そうして互いに助け合い、支え合って生活しておりましたら、
どのような不運も乗り越えられるものだと思うのですが。
不運を乗り切ることができましたら一回り強くもなれますし。
でも、人は他人の不運をやたらと喜ぶばかりなんですね。

私たちが互いに支え合い万人が幸せに暮らすことのできる、
そんな社会を建設することは難しいことなんでしょうか?

きっとね、今の人の多くは心の中に神様が住んでいらっしゃらないんですね。
神様から遠く隔たったところにいらっしゃるんでしょうね。
私もね、ほんの数年前までは神様なんて見向きもしませんでしたからね。
それは良く解かります。
ですから私のような人間が、
愛だとか、義だとか、
社会への献身や平和を願う心を訴え、
問題意識を持って戴こうと考ても無駄なんでしょうね。

我だとか、楽だとか、
社会への依存心や自分さえ良ければ楽しければといった気持ち、
悪知恵や体裁意識ばかりを増長させるんでしょうね。
うーん、私も余りよろしくない気持ちを持ってしまうことがありますから。

やはりね、神様は大切でございます。
私も常に心の中に神様を抱いていたいと思っております。


瞳を大きく見開きましてね、
上目遣いで神様を想い深く呼吸するんです。
神様の気を吸い込むような気持ちで呼吸するんですね。
そうしますと、心が少し清らかになります。

そんなことをある方に申し述べました。
数日しましてメールを賜りました。
「全てのものが輝いて見えるんです。」
ってね。

お試し下さいませ。


輝き

にゃっぱり人は輝いていなければいけませんね。

好きなことを力一杯するんです。
くたくたになりまして、
へとへとになりまして、
でも力一杯に何かをしておりますと、凄い気が出るんです。
悪霊も近付けないんですよ。

力を加減をしておりますと、悪い考えも起きるというものです。
どんなことでも一心不乱に我武者羅にやってみるんですね。
そんな人は必ず輝きを放っております。

悪の意識にも負けず、
人生を謳歌しておりましたら、
悪霊もそれに感応して何かを悟って下さいます。

にゃはり人は光を放たなければいけません。
輝きを放出しなければなりません。
観音様のように心を輝かせ続ける。
きっと素晴らしい人生が歩めますよ。

生活が苦しいから、
身体が悪いから、
だから楽しくなれない。ってね、
そんなことはありませんよ。

まず輝いて周りを明るくして差し上げるんです。
そうしますと、自ずと病気も良くなります。
人生も良いように動き始めます。
人生が輝きに満ちまして、楽しくなって参ります。
人生全てが想い通りになって参ります。

暗い想念に包まれておりましたら、
なーんにも上手くは行きませんよ。


端午の節句

5月5日は端午の節句でございますね。

子供には強くて逞しくて暖かい父親が必要なんですが、
でもそんな御父様は少ないですね。
母子家庭でお育ちになられている御子様も少なくないように感じます。

御子様はね、
父親の安定感のある大きな後姿を見まして、
父親の力強い言動に触れまして、
父親の深く暖かな愛情に包まれまして、
大きな愛、強さ、逞しさを学んで行くものでございます。

休日にはキャッチボールやフィッシング等で父親と遊び、
家中では大黒柱のようにどっしりとあぐらをかいた父親に抱かれ、
何がありましても大丈夫、任せとけと笑っている父親を見まして、
安心感を覚え、尊敬し、目標とするものでございます。

ですが、
酒に酔い潰れ、愚痴を云い、母親の尻に轢かれ、
毎日せせこましく会社に出掛け、あれやこれやと思い悩み、
時には夫婦喧嘩をし、時には暴力を振い、態度だけは偉そうで、
そんな父親でしたら、御子様に取りましても良い影響はありませんでしょう。

どうか御父様方は、
大きくて暖かくて逞しくて力強くて、
御子様に取りましても安心し尊敬できる御人格を御目差し下さいますよう。
きっとその方が御家族の皆様もお幸せでございますでしょう。
母子家庭の御母様も理想の父親を見付けて下さいますように、
お願い申し上げます。


信仰

キリスト様がね、
こんなことを仰っておられました。
「ほんの芥子だね程の信仰があれば山を動かすことだってできる。」
ってね。

キリスト様の御弟子様のお一人がね、
聖書が手元になく詳細も覚えてはおりませんが、
キリスト様を通して神様を信仰していらっしゃいましたからね、
キリスト様が海の上にお立ちになられ、
「ここまで海の上を渡っていらっしゃい。」て仰られた時に、
易々とその海の上に立って歩くことができたんです。

でもね、
突然不安になられて神様を疑っちゃった。
そうしたら海の中に落っこちちゃったんです。

皆様は神様の存在を確信していらっしゃいますでしょうか?

私にも神様は見えませんが、
神様の存在を疑うようなことは決してありません。
神様に様々なことをお話しし、お願いを聞いて戴いております。
そうしましたら本当に不思議な現象が起こったりします。

神様のお心をお教え下さいとお願いしましてね、
先ほど易占いをしてみたんです。
地天泰(ちてんたい)という卦が出ました。
天地が強く交わっているという卦ですね。
大吉です。

あなたは神様を信じていらっしゃいますか?
なんてね、
道を歩いておりましたらよく声を掛けられますけど、

神様は間違い無くいらっしゃるんです。
信じる信じないのレベルではないんですね。

皆様、信仰して無駄なことは絶対にありませんよ。
宗教に入信することが信仰だと思っている人もいらっしゃるかも知れませんが、
皆様の心の内にいらっしゃられる神様、
皆様のすぐ身近にいらっしゃられる神様、
そんな神様方を生活の中に取り入れること、
それが本当の信仰というものではないかと思います。

宗教に入ることで信仰から離れてしまわれるケースも多いようでございます。

神様に感謝申し上げ、お願い申し上げ、
神様がいて下さるから一際強い力が出る。
そんな生活をしておりますとね、
病気も、困難も、艱難辛苦なんて簡単に乗り越えられるのではないかと思えて参りま
す。


散文

いつも御購読下さいまして有難うございます。
心より御礼申し上げます。

今日はカニカマボコを買って参りまして、
酢とごま油を1:2の割合で混ぜ合わせて塩こしょうを加えたフレンチドレッシング
をかけて戴きました。
どうしてこんなに美味しいんでしょうね。
ラジオからはハレルヤなんて音楽が流れております。
良いですねぇ。

クラシックも高い精神によって生み出されたものなんでしょうね。
聴いておりますと心身の調子が本当に良くなります。
偉大な音楽家様方もきっと素晴らしい御人格でいらっしゃられたことは想像に難くあ
りません。
こんなに素晴らしい作品を御残し下さいまして本当に有り難いことでございます。

次第に暑くなって参りました。
初夏の陽気とまでは行きませんが、風のない時などは本当に暑く感じます。
もうすぐ潮干狩りの時季でございますね。
冷たい海水に足をつけますと気持ち良いでしょうね。

食べ物ではシジミ汁なんてものも季節のものでございますね。
海女さんも未だ冷たい海に入りまして鮑を取って下さいます。
こうして考えてみますとこれからは貝類が旬なんでしょうね。

その昔、やまとびめ様に抱えられて伊勢に向われる途中の天照皇大神様の魂がね、
海女さんの獲る鮑の立派なことに感銘なされまして、
必ず伊勢神宮に鮑を毎年奉納しなさいと仰られたそうでございます。

贈り物にも熨斗(のし)を付けますよね。
この熨斗は、実はのし鮑のことでございます。
贈り物も神様に御供えするのと同じように鮑をつけるんです。
なんて粋な心の篭った贈り物なんでしょうね。

ちなみに鮑を贈り物にする場合には、熨斗は付けないそうでございますよ。


散文

ある雨の日、
朝7時頃からしこたま祝詞や御真言を唱えましてね、
バランダの戸を開けて外の景色を眺めておりました。
何だか別世界に引き込まれるようで新鮮でございましたよ。

幼稚園の時にも同じように雨の降る様子を眺めておりましたらね、
先生が、「雨がよく降るね。梅雨だからね。」
と教えて下さいました。
私が梅雨という言葉を覚えたのはその時でございました。

その時の先生ももうかなりの御歳なんでしょうね。

もうじき梅雨でございますね。
衣替えもしなくてはなりませんね。

また別の風の日には、
温かい蕎麦にキムチやらネギやらワカメやらを沢山入れまして、
ダシの利いた具沢山蕎麦を作りまして、
これもまたベランダの戸を開けて、
風に吹かれながら戴いておりました。

気持ちの良いものでございますよ。

丁度、北西に机を置いておりましてね、
いつもそこで何やかやと作業をしておりますが、
西向きのベランダに面しておりますので、
割と良い具合になっております。

ところで西北はね、一家の主の場所でございますからね。
一家の主は北西に構えているのが良いそうでございますよ。
逆に奥様が北西に陣取っておりましたら、
奥様の権力が強くなるようでございます。

菖蒲に空豆にえんどう豆、
茄子、トマトに瓜、ヘチマ、
田植え、紫陽花、カタツムリ、
と、これからの時季も豊かな恵みや美しいものが沢山ございますね。

昔の人でしたら、
蚊帳や簾や団扇、風鈴、ござに藤椅子、竹婦人
といったものの準備を始めている時季でございますね。
風流でございますね。

それに比べまして今の生活環境は、
本当に季節の移り変わりを感じなくなってしまいました。
おいたわしいことでございます。

6月は結婚式のシーズンでもございますね。
こんな唄がございました。


きんらんどんすの帯しめながら
花嫁御寮は何故泣くのだろ

文金島田の髪結いながら
花嫁御寮は何故泣くのだろ

姉さんごっこの花嫁人形は
赤い鹿の子の振袖着てる

泣けば鹿の子のたもとが切れる
涙で鹿の子の赤い紅にじむ

泣くに泣かれぬ花嫁人形は
赤い鹿の子の千代紙衣装


金襴緞子に文金高島田
高そうでございますね。


葬場祭詞

葬場祭詞は悲しいものでございますね。
先日、忌ごとがございまして、遠方より静かに奏上しておりました。
とても悲しいものでございましてね、
嗚咽が出て仕方がないような状態でございました。


汝命や御病重く悩給ひてより
(ながみことやみやまひおもくなやみたまひてより)

医師の術を頼み看護の方を尽ししかども
(くずしのわざをたのみみとりのすべをつくししかども)

定まれる御寿命の限にや有りけむ
(さだまれるみいのちのかぎりにやありけむ)

今日御病革まりて今年を一世の限りと身罷ましぬ
(けふみやまひあらたまりてことしをひとよのかぎりとみまかりましぬ)

惜しくとも惜しく哀しくとも哀しきことの極にぞ有りける
(おしくともおしくかなしくともかなしきことのきわみにぞありける)

阿波礼汝命は御心清く明く直く正しくましまして
(あはれながみことはみこころきよくあかくなほくただしくましまして)

世のため人のために思を凝らし力を尽し
(よのためひとのためにおもひをこらしちからをつくし)

御功績高く顕し給ひしかば
(みいさをたかくあらはしたまひしかば)

皆人、汝命こそ世の長人世の遠人と
(みなひと、ながみことこそよのながひとよのとほひとと)

千歳もかも万代もかもと思頼みて在りしを
(ちとせもかもよろずよもかもとおもひたのみてありしを)

阿波礼空蝉の世ばかり定めなきものは有らず
(あはれうつせみのよばかりさだめなきものはあらず)

人の齢ばかり頼難きものは無かりけり
(ひとのよわひばかりたのみがたきものはなかりけり)

今斯く幽りませる御上を嘆き悲しみ
(いまかくかくりませるみうえをなげきかなしみ)

惜しみ慕ふ事も限無ければ
(おしみしたふこともかぎりなければ)

人の世の習慣のまにまに今は葬儀仕奉らくと
(ひとのよのならはしのまにまにいまはみはふりのわざつかへまつらくと)

幣帛献奉り御食御酒海川山野の種々の物を
(みてぐらたてまつりみけみきうみかはやまぬのくさぐさのものを)

横山の如く置足はして
(よこやまのごとくおきたらはして)

親族家族を始め遠近より斎場も狭に
(うからやからをはじめおちこちよりゆにはもせに)

参来列並める会葬の人々が
(まゐきつらなめるみをくりのひとびとが)

最後の御別と進る玉串の榊葉の露の白玉に
(いやはてのみわかれとたてまつるたまぐしのさかきばのつゆのしらたまに)

涙も取添へて手向け奉る状を
(なみだもとりそへてたむけまつるさまを)

御心平穏に享給へと慎み敬ひも白す
(みこころおだひにうけたまへとつつしみうやまひもまをす)

(神社本庁例文より抜粋)

この世の御別れでございますね。
やはり故人の功績を偲んでおりますと
悲しみが込み上げて来るものでございます。

神様から、大自然から御借りしておりました身体をお返しし、
魂として一人立ちなされるんです。
でもそれも一時の別れでございますよ。
この世での修行を無事終えまして天に参りましたら、
必ず再会することができますからね。


うこん

うこんなるものを買って参りました。

すりおろしまして、お茶やスープに入れて戴くんです。
なんかね、青臭くて美味しくない。
脂肪を溶かし血液を浄化して下さるそうですから、
我慢して戴いておりました。

肝臓も健康になるようでございますよ。
年齢を重ねますと肝臓に脂肪がつきまして、
多くの人が気付かずに脂肪肝になっているように思いますが、
脂肪肝には最適の薬根でございますね。

だからね、反省しました。
美味しくないなんて云ったらダメですよね。

でも美味しくて健康に悪い物は感謝して美味しいって云えますけど、
健康に良くて口に合わないものは、
どうして感謝することを忘れてしまうんでしょうね。

美味しくないと感じるのはウコンが悪いんじゃなくて
人間の口が間違っているんですね。
一生懸命に恵みを与えて下さっているのにね。

いつのまにかマイナス思考になってしまっていたんですね。
これからは喜んで戴くようにします。


プラス思考

やはりプラス思考は大切でございますよ。
私も御酒が好きでよく戴きますが、
御酒を沢山飲みますと
気付かない間にマイナス思考になっちゃうんですね。

それとね、
やはり力一杯に生きておりませんと楽しくもなんともない。
私の場合は祝詞を力一杯に奏上しましてね、
そうしますと必ず前向きになれるんです。
体調も良くなりますしね。

愚痴を云ったり聞いたりしておりますと、
消極的な考え方が身に付いてしまいます。
後ろ向きの状態ですね。
そうしますと、
嫌なことからは逃げてしまいたくなります。
嫌なことから逃げてばかりおりますと、
どんどん消極的、後ろ向きになって行くんですね。

逃げることができないのに逃げ出したいと考えておりますと病気になります。

向って行かなきゃ。
向って行って、その障壁を乗り越える努力が必要であるように感じます。
その苦労を楽しさ、遣り甲斐と感じられる心のゆとりが必要であるように感じます。
そのためには力一杯に知恵と勇気を振り絞って生きなくてはなりません。

積極的で前向き、プラス思考で建設的な考え方が大切でございますよ。
マイナス思考が習慣になってしまっていらっしゃる方は、
ひとつひとつものごとを見つめ直し、思考を正して行かなくてはなりません。

どれだけプラス思考になれるか、
それも大切な開運の鍵でございますよ。
その積極的、前向きな考え方が、
人生を良いように変えて行くんです。


与え合う家族と奪い合う家族

世の中にはね、
命を掛けてでも子を幸せにしてやりたいと願う親御様や、
同居しているからと、賃料や食費、光熱費相当分を積極的に親に渡している学生さん、
家族全員が、毎月の収入を全額積極的に出し合って、
均等割している生活している御家族様、
御家族の病気の治療のために、
寝る間も惜しんで仕事に精をだしていらっしゃる方々もおられるのですが、

その反面、
親の遺産を目当てにしている方々や、
御成人なされましても、平気で親の脛をかじっている御子様、
子に同棲を強要なされたり、
子の結婚に反対なされたり、
子に嫌味を云い、子の人生を妨害なされたり、
ヨソはヨソ、ウチはウチなどと云って道理にそぐわぬ思想を押し付けたり、
そういった親御様もいらっしゃるようでございます。

与え合う家族と、奪い合う家族の相反する姿でございますね。
どちらが幸せな人間関係を築けるかは誰が見ましても明らかだと思います。

親御様はね、
御子様が御成人なされるまでは、
親権者として御子様の面倒を見、立派にお育てになられる義務がございます。
勿論御子様の人権は守らなくてはなりませんし、
社会的に道徳から外れることは強制してはなりません。
それができないのであれば、御子様はお儲けになるべきではないでしょう。

御子様もね、二十歳までは親権者の方針に従い、
万一、道徳を外れるようなことがありましたら、
周りの大人に御相談して解決して行く必要がございます。
御成人なされましたら、
今度は産み育てて下さった御恩に報いるために、
できるだけのことをして差し上げるんですね。
そうして子孫をお儲けになられまして、
今度は御自身が親の立場で立派に育てて差し上げる。

それが人としての務めであると私は考えます。

虐待を受けた子供が親になり自分の子供を虐待する。
親の子育て、人生感、考え方を子が真似るんです。
無意識のうちに潜在意識に組み込まれてしまうんですね。

ですからね、正しい真っ直ぐな生き方を常に心掛けなくてはなりません。

奪い合うのではなく互いに与え合い、何も強制することなく、
自分だけが裕福な暮らしをするのではなく、
困った時には自己を犠牲にしても助け合い、
未来に道を繋げて行くんです。

そういった御気持ちがありましたらね、
万人が幸せでございますよ。

親が亡くなりましても、しっかりとお心の篭った供養もせず、
遺産相続で争い合う、
そんな状態でしたらね、
親御様に恨まれてとり付かれるか、
子孫代々祟られましても自業自得というものでございますよ。


突然何を云い出すのやら

やはりね、
真っ直ぐに生きて下さらないと、困ります。
私も困りますし皆さんも困ります。
今は悪の勢力の方が強いんですから。

地上を堕落と混乱を招く地獄にしてはなりませんよ。
神の世界にしなくてはなりませんよ。

天の波動はとても細かな粒子で清々しく爽やかなものでございます。
逆に地獄の波動は粗く、粘りのあるものでございます。
地上に地獄の波動を満たしてはいけません。

楽しく、前向きに真っ直ぐに生きる。
それが地上を天の波動で満たす唯一の方法でございます。
いい加減、適当、放漫、悪知恵。
そういったものが地獄の波動の侵入を許してしまうんです。


行基(ぎょうき)様

毎年のことながら、もうじき霊に纏わる恐い話しがテレビなどを賑わするようになりますでしょう。
でもね、恐いものはいけませんよね。
御子様方のおねしょも増えますでしょうし、
苦しんでおられたりする霊を興味本位、或いは視聴率稼ぎにしてはいけませんよ。
さまよう霊は本当に悲しいものであり、
私達は皆、真剣に向き合って行かなければいけないと思います。

ですのでね、余り恐くはない行基様のお話をさせて戴きます。

奈良時代には行基様とおっしゃる高僧がいらっしゃいましてね、
この方も多くの方を集めて説法なさっておられました。

子連れの女性の方が参加しておりまして、
その御子様がもう10歳にもなりますのに、まだ乳をせがみ、
言葉を話さず、立って歩けず、
説法中にも頻繁に大声で泣き叫ぶ有り様でございました。

行基様がね、
その子を川に捨てなさいと命じまして、
御母様は仕方なく川に捨てたんですね。
そうしますと、その子は川の上に飛び上がりじだんだを踏んで、
「あと3年おまえを苦しませてやろうと思ったのに。」
と云ったそうでございます。

借財していたお相手の方がそれを恨み子孫にとり付いていたんですね。
金銭に絡むことはとかく恨みを生み未成仏霊を生み易いようでございます。

この時代には税金を逃れるために私度僧の姿をするものが多かったようでございます。
行基様のお弟子を勝手に名乗るものもいたようでございます。
今の時代も同じようなものかも知れませんが。。。


散文

冷たいものが美味しい季節になりました。
スーパーなどでも枝豆にトウモロコシ、キューリ、トマト、瓜などといった食材が、
お店の顔になりまして売り出されていたりします。
からだを冷やす食品でございますものね。

私の近くでは植木鉢の小さな西瓜が実っておりまして驚きました。
西瓜って、植木鉢でも栽培できるんですね。

先日は甘露門という御真言を4日程しこたま唱えましてね、
実はこれ地獄の亡者を供養するものなんですが、
昨日、何気なく神社に参詣しましたら、
戦没者の供養塔の石に雑草が1本生えておりまして、
黄色い花が咲いておりました。
あ、どなたかが喜んで成仏して下さったんだと感じました。

また別の日には、
祝詞や御真言を休憩を入れながら6時間半唱えました。
数年前までは2時間唱えるだけでもうヘトヘトになっておりましたが、
凄い進歩でございますよね。

ヘトヘトになりましても、もうあと30分、と頑張っておりましたら、
どんどん力が付いて来るものでございますね。

最近は鍋に少量の麦をたっぷりの水で炊きましてね、
味噌と鰹だしの粉末で味付けしまして、
味噌汁かなり多いめのぶっかけにゃんこご飯のようなものを作りまして、
少しずつ戴いております。
胃腸の調子が本当に良くなりますよ。
後は白菜の漬物なんかがあれば最高なんですが、
白菜の漬物って案外高価なんですよね。

最近はそんな生活をしております。

あ、先日書かせて戴きましたウコンはお茶に加えまして毎日戴いておりますよ。
また暑い日に水をかぶりますと気持ちの良いものでございます。