ブログより転載(2007年7月)

 

加害者の言い分

セクハラにしましても、ストーカーにしましても、
加害者の考え方は必ず、視野の狭い自己中心的なものでございます。

「愛があるから行為に及んだのだ。
愛は素晴らしいものであり、愛による行為は尊ばれるべきである。」
と多かれ少なかれこのように考えているものでございます。

ところが、ここに自己中心的な傲慢さがあることを見抜くことのできない方がいらっしゃる。
これは本当に恐ろしいことでございますね。

事件は、被害者と加害者の意識の食い違いから生じて参ります。
人は社会性のある生き物ですから、双方が意識の同調を図る努力を怠りますと、
そこには必ず事件が発生してしまうのです。

人の気持ちを察する努力を怠り、
或いは自己中心的な判断で相手を誤解し、
意識が同調せぬままに行動する。
自分がこうだから、相手も同じなのだろうと。

でもそれは相手を思い遣る心を失った自己中心的な狭い視野ではありませんか?

恐らく相手はこう云いますでしょう。

「私があなたの行為を認めた事実はない。」

そしてまた、周りの人々もこう云うのです。

「社会通念上、愛がすなわちセクハラやストーカーとはならない。」とね。


夢は枯野を

感動して、心が震えたことはありませんか?
愛しさに、両手を拡げて抱き締めたくなったことはありませんか?
全身で、愛を感じたことはありませんか?
心が、喜びに溢れたことはありませんか?
感動に、涙がとめどなく流れたことはありませんか?

命は、決してちっぽけなものではないのですよ。
歳を重ねることも、決して悲しいことではないのですよ。

子供以上に、愛を感じられる大人であって下さい。
子供以上に、夢を追い続ける大人であって下さい。
子供以上に、瞳をキラキラ輝かせた大人であって下さい。
子供以上に、純粋であって下さい。

子供以上に、


こぶし

こぶしは、種子が握り締めたコブシのようにも見えるのですね。
ああ、だから、こぶしなのですね。


愛しき樹よ、こぶしの樹よ。
私はあなたを抱き締めてみたい。
あなたの中にも、
神の大きな息吹を感るから。

私の魂が、あなたと一体となり、
その実の一つの粒となって
実ることができるなら、

やがて私は地に落ち、
大きな木になろう。
白い花を咲かせて、
沢山の実を付けよう。

そうしてこの大地に、
子を増やし、孫を増やし、
神様の足座を
白い花で着飾らせるのだ。

それは、素晴らしきことである。
それは、輝かしきことである。



藩主と農民

ある藩でこのようなことがございました。
農民が全て別の藩に移ってしまったのです。

藩主はその藩に農民が一人もいなくなってしまったので困ってしまい、
農民を訪ね歩き、こう云いました。
「義を忘れた者よ、仲良くしようではないか」と。

ところが、農民は逆にこう云い返したのです。
「あり得ないほどの高い税を搾取する殿様に一体誰が仕えるだろうか?
私達はあなたを憎んではいない。
でもあなたの藩にいることはできない。
仲良くしたいのなら、まずあなたが考え方を改めることだ。
私達は何度も、あなたに訴えたではないか。」と。

皆様はどう思われますでしょうか?
恐らく、この藩主が困った時に助けて下さる方は少ないでしょう。
国と国民、経営者と従業員、親と子、夫婦
どのような関係でも起こり得ることでございます。
ただ一つだけ云えますことは、

決してこの藩主のようにはならないことです。
決してこの藩主のようには・・・。



天孫降臨

あなたは、何を伝えるために降臨なされたのか?

愛を伝えるため

夢を伝えるため

真心を伝えるため

真理を伝えるため

喜びを伝えるため

智恵を伝えるため

感動を伝えるため

未来を伝えるため

暖かさを伝えるため

あなたが伝えるべきものを、間違いなくお伝え下さいますように。

そのためにあなたはこの世界に降臨して、今生きているのではありませんか。

間違えても地獄の波動などお伝えになられませんように。

おやすみなさい。


新潟中越沖地震

何故、繰り返し、繰り返し、このような大惨事が起きてしまうのでしょうか?

大量の雨が降れば地盤が圧迫されて震災が発生する、
それは過去の経験から分かっていたことではないのでしょうか?
政府も、自治体も、何も対策を考えて来なかったのでしょうか?

全く、可哀想なことでございます。

盆の終わりの日にこのような大惨事が発生した、
私はこれには何か意味があるように思います。

命を大切にすること、
小さな命も、大自然の命も、己の命も、人の命も、
全ての心あるものの命も、
大切にしなさいという警告であるように私には感じるのです。


命式(いのちしき)

お前達はいつもそうだ。
お金お金というて、
必要なものは神様がちゃんと与えて下さるのに、
それで盲目になりよって。

不調和な生き方をして、
多くの命を粗末にして、
不満やストレスで心身を患わせ、
心を煤で真っ黒に汚し、
愚かな生き方をして、
自ら望んで不幸になって行きよる。

これがお前達の命式である。

悔い改めて神の道を歩めよ。


気付けば今日は

お盆でございますだ。

業が深過ぎて、未だに心が届きはしませぬ。

私のことでお心を煩わされませぬよう、
赦してたもれ。

全ての魂が平穏でありますように。
全ての命に祝福がありますように。
世界が平穏であり、天と共にありますように。
神仏のお慈悲がありますように。

なーむー & アーメン


台風一過

まだ強い風の残る中、雲が吹きちぎれて一面の青空が広がりました。
公園では春に花をつけたこぶしの実が実って、それが昨夜の風で沢山落ちておりました。

豆のような、葡萄のような、桃のような、房を沢山付けた実。
始めて見ました。

実はね、この木、こぶしなのか木蓮なのか、良く分からないのですけど、
こぶしも木蓮科のようですから、どちらでも良いのでしょう。

朝顔も咲き始めて、
この時間にはもう萎んだあとなのですけど。

ここには榊の木もありましてね、
いえ、木の名称なんて分からないのです。
でも間違いなく榊の木なんです。

関東の榊ですね。
葉がギザギザになってますから。
関西の榊はもっと葉に厚みがあって、葉の周りにギザギザがないんです。

2百円ほどの榊が、ここだとタダなのですけど、
自分のために手折らなくてはいけないのなら買った方が良いですね。
命は大切にしなくてはいけませんからね。

人よりも命を、命よりも神を大切にすること。
人も神の子としての自覚を持ち、大自然の調和を心掛けた生き方をすること。
なにものにも執着せず、煩悩を抱え込まず、
自らのためではなく他を生かす生き方を心掛けること。

大自然は創造神の素晴らしい教えが顕されたものでございますね。



地に咲く花を

地に咲く花を、枯れさせてはならない。
命を守る者を、神は見捨てはしない。

小さな命にも、神は等しく恵んで下さる。
着飾ることをせぬその花でさえ、
神が美しく着飾らせて下さっている。

地に争いをもたらしてはいけない。
その小さな命を踏みにじる者は、
裁きの時に、その報いを受けるのだから。


悪魔の世界

悪魔の世界には信頼というもなのはない。
互いに探り合い、疑り合う。
だから彼らの心は常に不安と恐怖に怯えている。

悪魔の世界には赦しというものもない。
強いものが弱いものをその闇の力によって懲らしめるのである。

情け容赦のないもの、強いもの、悪知恵に勝れたものが上に立ち、
下のものをその力によって従わせるのだ。

想念はその容姿となって現れる。
天に居る心の美しい者達は美しい容姿をしているが、
悪魔は醜く汚らわしい容姿をしている。

地の底に暖かなものは何一つなく、
ただそこには飢えと渇きと怯える魔物の想念だけが渦巻いている。

だから、天に入るに相応しい者となることである。

どんなに小さな者でも、
穢れのない想念を持ち、
純粋な穢れのない眼で見て、
穢れのない言葉を話す者には、
主は天に安らぎの場所を準備して下さる。



正しい拳骨の作法

拳骨にも作法があるんですね。

最近は学校でも先生方の暴力は親御様方によって厳しく禁じられておりますようでございますが、
厳しい愛には拳骨も時として必要な時があるのではないかと思います。

拳骨はね、愛があるからこそなんです。
拳を、頭の上から真っ直ぐ下に、
これが拳骨なんです。

平手とかね、何か物を使ったり、足で蹴り上げたり、と、
これはね、愛のない暴力行為でございますよ。
その行為には憎しみが含まれているんです。
ですから、受ける側も憎しみがそこにあることを感じますし、
それが心に波紋を作ります。
たとえ憎しみがなくても、憎しみが伝わるのです。

その心の波紋は、積み重なりますと、
必ず大きな影響が生じるのです。

ですからね、人を叱る時には必ず拳骨でなくてはいけません。
愛を持って打ち下ろすのです。

でもね、やはり慈愛に満ちた言葉で教え導く、
これができますと一番良いのですけどね。
それでも分からない悪魔の心を持つ人には、
拳骨の一発や二発、
愛を持って打ち下ろして差し上げて下さいませ。

でも、逆切れして殺されかねないような人は、
つわものに任せて余り関わらない方が良いでしょうけどね。


無限の命

無限の存在の中に、現世での修行の時がございます。
ほんの一瞬、
それでも与えて下さった命は大切にしたいものでございます。

たかだか数十年でありましても、その中には様々な出来事があり、
様々な経験を人それぞれに積み重ねることができる。
成長の機会が与えられるわけでございます。

私は今生を、勿体無い生き方をしてしまっていおりますように思います。
もっと沢山のことを学んでおくことができておりましたら、
もっと可能性は広がっていただろうに、と思うのでございます。

それでも神理というものに出遭わせて戴くことができ、
私はそれでも本当に運が良かった、幸せであったと感じております。

神と接するお仕事というものは、現世でも沢山ございます。
仏教は、他力本願で間違ったものでありました。
その中で大悟りを得る者も殆どおらず、
お釈迦様の教えさえないがしろにされてしまっておりますような状態でございました。
神道には、感謝の心があり、有意義なものでございましたが、
やはりそこにも神理に基く教えは充分ではないように思いました。

神のための人間なのか、人のための神なのか、、、
どちらでもないのですね。
神も人も共に調和して、助け合って存在し続けなくてはいけないのですね。

神理というもの、
正法というもの、
単純で、当たり前のこと。
そうなんです。
大宇宙の法は人間に取りましても単純で当たり前のことであったのです。
でも、それがどんなに素晴らしいものであったか、
どんなに正しく、私達を幸せに導いて下さるものであったか、

皆様も神理を心の中で大切に護り、育てて行って下さいましたらと思います。

今生、これからの残された時間、
なにものも恐れず、感謝と報恩を忘れず、
命を、修行の機会を無駄にせず、
力一杯に生きて行きたいと考えております。


素直な疑問

子供は素直ですね。
素直ですから、分からないことには疑問を持ちます。
これが歳を重ねて参りますと、余り疑問というものを持たなくなって参りますね。

どうしてなんでしょう?

思いますに、これは、
不思議なことでも当たり前のこととして捉えてしまっているのではないかと思いますね。
その原因の一つに、洗脳というものがあるのでしょう。

でもね、問題意識を持って純粋なマナコで周りを眺めてみますと、
私達の周りにはまだまだ不思議なことや分からないことが沢山あるのです。

どうして重力があるのか、
どうして人は、心臓は80年も生き続けることができるのか、
記憶の仕組みはどうなっているのか、
運気とはどのようなものなのか、
手相は何のためにあるのか、
火は一体何なのか、
何のために日々を繰り返さなくてはいけないのか、
何故、立っているより座っている方が楽なのか、
何故、昼と夜があるのか、
人の正しい生き方はあるのか、

少し考えただけでも沢山出て参りますね。

疑問を持って、一つ一つ解決して行く。
成長して行くため、社会を良くして行くため、
それは必要なことでございますよ。

考えて、考えて、一つずつ疑問を解決して、
もうこれ以上疑問は何もないぞ、ってなりましたらね、
それは一つの悟りでございましょう。
そうなりますと、どうにでも社会を変えて行けるようになります。

だって、考えれば何だって分かっちゃうのですから。

どんなに分からないことでも、悩んでおりますと必ず閃きが生じます。
それは善霊が教えて下さっているのかも知れません。
考えておりますと、必ずどんなことでも分かるようになって参ります。

皆様も疑問を持って、考える習慣を持ってみて下さい。

ここに一つ、素晴らしい言葉を紹介しておきます。

悩んで悩んで悩み抜け。
それでも駄目ならパソコンや!



洗脳

過去世を覚えている子供が生まれて来ることがございます。
インドでは多いそうです。

生まれてすぐ、様々な洗脳にあって、そういった能力が失われてしまうのですね。
心が澄んでおりますから過去世も見えるのですけど、
心が濁ってしまいますから、すぐに見えなくなってしまうんです。

勿体無いことでございます。

週刊のマンガ雑誌がございます。
昔読んだことがありますけど、
少年向けのものも、少女向けのものも、かなり偏った思想で書かれております。

こういった気付きにくいところでも、人は簡単に洗脳されてしまうのですね。
そうして、洗脳は、時として人を化け物のようにしてしまうこともございます。

新聞では新聞社による擦り込み、
学校では間違った教育の擦り込み、
家庭にありましても、その家庭毎の間違った在り方の擦り込み、
逆に正しいものを見付けようとする方が難しいのです。

至難の極みですね。

だから、私達は過去世も分からない。
正しいことも分からない。

世の中を変える、そんな大それたことはできません。
神様に任せるしかない。
でも、正しい環境を、正しい場を作り出すことはできますよね。

正しい場を沢山作って、一人でも多くの方が正しい在り方を知って下さったら、
幸せな人も増えて下さいます。
皆が江原さんのようになりますと楽しいでしょうしね。


批判するということ

お気付きの方も多いと思いますが、
批判する、ということは決して正しい心の在り方ではありません。
権力者に対して、間違った在り方に対して批判する、
そうしますと、やはり幸せで平穏な心を維持することが難しくなって参ります。

批判は光の乏しい暗い想念ですからね、
私だって余り必要のないことまで批判なんてしたくはないんです。
幸せで、平穏な気持ちで、心を丸く豊かに光りある状態に保つ。
それができるのでしたらその方が余程幸せに恵まれます。

でもね、やはり私達は社会と関って生きて行かなくてはなりません。
弱者を助け、正しい在り方を示し、
意見を出し合って正しい方向を探し出し、社会を変えて行かなくてはいけません。
そのためにはね、間違っておりますことは間違っていると発言する必要があるのですね。

人間は社会性のある生き物ですからね、
社会の中で、自分のみならず万人の心を丸く豊かにしていかなくてはいけません。
社会の闇の部分には目を向けず、自分の心だけ、綺麗に着飾って、
或いは自分の心だけ丸く大きく豊かにしても意味がないのです。

それとね、決して弱者を批判してはいけません。
批判するのはね、強い者、権力を持つ者、間違った者、人や自然に対して害を及ぼすもの、
だけですね。
また、絶対に自己中心的な批判や好き嫌いで批判をしてはいけませんね。
必ず客観的な視点がなくてはいけません。
マスコミは実にここの部分で間違いが非常に多いように思います。

でもやはり運気を良くして幸せになるためには、
余り批判なんてことはしない方が良いですね。