ブログより転載(2010年1月)

 



時代



ドラえもんが現れましたのは、私が小学校2年生の頃でございました。

のびた君の机の引き出しの中から現れた青くてまん丸頭のドラえもんはユニークで面白くて、

それまでオバQの方を向いておりました少年少女が一斉にドラえもんに視点を変えたのですね。

それはもう本当に目から鱗のような、

楽しいことなど余りない暗い時代、暗い瞳の少年少女の瞳が一斉に輝いた瞬間でございました。

のらくろ、鉄人28号、鉄腕アトム、オバQ、ドラえもん、

時代の流れは確実に明るい方向へ、広い視野へ、と移り変わって参りました。

今はエバンゲリオンですか、まあそこまで行きますとおっさんも付いてはいけないのでありますけど、


ところでデジタル画像でディズニーアニメなどを拝見しておりますと、

これはもうカラフルで、お子様方の脳も半端ない程に活性化されるのではないかな、と感じます。

おっさんの頃は白黒でしたからね。

おはよう子供ショーにしましても、おっさんの幼少期は白黒でありましたわけで、

そりゃ今のお子様方の方が頭が良いに決まっているのですね。

それで心も開発されて下さいますと、もっともっと素晴らしい人生を送ることができると思うのですけど、

どうもそれが人生のどこかで環境に洗脳されてしまって心というものを見失う。

幾ら賢くても、聡くなければ、

幾ら知性があっても、理性が未発達では、

どうしようもないと思うのです。


百人一首なんてものもやりましたね。

何が楽しいのかその頃は分からなかったのですけど、

平安時代?か鎌倉時代?の人の作った和歌をカルタにして取り合う。

おっさんは意味なんて全く分からなかったのですけど、

家族がしているものですから、門前の小僧で覚えてしまう。

まつとしきかば 今かえりこむ

これをある時おっさんの頭は、

マット、敷きカバー 今返りこむ

と解釈するに至った訳です。

それが最近では、その和歌を聞く度に、ユッケ、生レバーを食べたくなる。



知識欲あってこその百人一首だと思いますね。


でね、ここまでアニメ技術とかが進歩して、インターネットなんてものが現れて、

パソコンでも簡単にアニメのようなものが作れてしまうようにもなりまして、

で、何気なくおっさんGIMPなんて画像処理のフリーソフトなどを試しに触ってみたり、

色んな事象を眺めたりしておりまして、気付きました。

いえ、以前からそれは分かっていたことなのですけど、

人の心を掴むものには、必ず「光」が関係しておりますわけでございまして、

アニメの製作者さんはそのことを知ってか知らずか、光の神理をアニメ製作に取り入れている。

光の魔法を使ってアニメを製作していたのですね。


まあ、アニメは当然の如く明るい方向に向かうわけですね。



夢日記



その時、私たちは幽界におりました。

ここも地獄化しておりまして、何度も何度も車を建物にぶつけている人がおりました。


交差点を渡る時に私の履いていたスリッパの片方が飛んで行ってしまいまして、

靴を探さなくてはいけなくなりました。

そうしますと、小さなお店がありまして、ウィンドウの中には様々なものが詰め込まれておりました。

そこに靴が一足だけありましてその靴をお願いしましたら、幾ら持っているか?と訊くのですね。

私は3千円しか持っておりませんでしたから、それを渡しますと、

本当は4千円なんだけど、あなたには3千円で譲ります、と仰られるのです。

きっとこの人は足元を見る人で、6千円持っている人には7千円だと言うのでしょう。

暫くしますと、その人は靴を袋に入れて歩いて行きます。

そうして近くの電信柱に引っ掛けるのですね。

その下には椅子がありまして、その様子を見ておりました人が私よりも早くその椅子に座ってしまいまして、

いえ、これは私の靴だよ、と追い払うのです。

そうして椅子に座っておりますと、靴を履かせて下さるのですね。

そうして何やら足に注射を打って下さる。

どうもそれはどこからか闇で仕入れてきたビタミン剤のようでございまして、

そこで目が覚めてしまったのです。

不思議な夢のお話でございました。



杉と若木の物語



大地に根を下ろしたばかりの一本の若木がありました。

若木は、まだ幼子でございました。

幼いが故に好き勝手な方向に枝を張り、

我を張り、我侭を云い生きておりました。


またここに何百年も生き続けております杉の老木がありました。

杉は高いところからこの若木の様子を眺めておりました。

杉は頂の上から云いました。

「幼子よ。見るがいい。今日の夕日はとても美しい。

私はもう何十万回この夕日を眺めて来たが、たった一つとして同じ夕日はない。

一日一日、一瞬一瞬で空はまた違った表情を見せる。

これこそ神の手による美しさではないか。

ところがこの世界は、強いものが多くを貪り弱い者が枯れて行く。

これは本当におぞましい姿で決して神の手によるものではない。

多くのものが手本とするべき神の現す美しき姿を知らぬが故である。

これは残念なことだ。

だがしかし、生き物も、時も、この世界のものは全て歩むということが定められている。

だから幼子よ、命を楽しめ。そしてまたこの神の現す美しい姿を楽しめ。

楽しみながら伸び伸びと育って行け。」


(続かない)



Puppy Linuxがええよぉ



ウィンドウズ2000のサポートが終了するとかしないとか、したとかちゅうお話でございまして、

そんな感じで数年後にはxpも簡単に終了してしまうのだろうな、と感じるのですけど、


日本橋で中古のパソコンを購入して参りましたのは数年前のことでございます。

日本橋は大阪の電気街で東京の秋葉原のようなところなのですけど、

メイド喫茶のような軟弱な店舗も数店存在するようなところなのですけど、

その電気街で購入して参りましたxpのパソコン。

xpが入っていて、ライセンスも付いているものですけど、

このライセンスが事故のあったライセンスであるよと、マイクロソフトさんは勝手なことを仰られる。

おっさんもそうですけど、そのようなトラブルは多いですね。

なんでか。

なんでそうなるのか。

それは勿論、マイクロソフトさんにライセンス認証の解除、とか、

ライセンスの下取りという智恵がないからでありまして、

要は、ビルゲイツは余程のアホボンでただのパソコンオタクでしかなかったと、

いうことが云えるのではないかと思うのです。


使い捨てのライセンスを数万円で売るアホボン。

勿論、事故ライセンスは当然の如く発生して参りますでしょう。

でもそれは、悪人がいたからではなくて、

間違ったライセンスの販売をしているからなのですね。

でもって、このライセンスが将来必ず使えなくなる。

そうなりますと次にマシンに導入するOSはどうなりますか?

また、新しくマイクロソフトの使い捨てライセンスを購入しますか?

と言うお話でございまして、

それでおっさんはLinux系のOSを探していたのですけど、


先日パソコン雑誌を読んでおりましたら、

PuppyLinuxはええよ、という記事が掲載されておりまして、

おっさんも使ってみた。

これはええですね。

他のディストリビュータのものはどこか必ず問題がある。

RedHatLinuxは導入に数時間掛かってしまうし、バージョンごとにコマンドが異なるし、

有料だし、

Ubuntuはバージョンアップすればエラーが出るし、回復できないし、重いし、

そんなこんなで、おっさんサブのパソコンにはPuppyLinuxを採用しようと、

考えておりますところででございます。


ただ、CDで起動してネットにつなげて色々使ってみて、また元に戻してウインドウズを立ち上げたら、

どうも何かの設定が変ってしまったようでLANに繋がらなくなっちゃったのですけどね。

それを調べなくてはいけない。


まあ、しょーもないお話でございました。



金印は贈られた



聖徳太子が遣隋使に小野妹子を派遣して、

漢の倭のなの国の国王なんて金印を貰ってきた。

日本史で一番最初に躓くところですね。

それに何の意味があるんや、と誰しもわけが分からなくなったのではないかと思うのです。

日本人は良いように考える民族でございまして、

それは髄の皇帝が大和国を対等な一国として認めたからや、

と解釈されているのでございますが、

ちょっとこれを例にたとえて考えてみようではありませんか。


とある街には商店街がありまして、

店主で構成される商店会といいます組合のような組織がございます。

ある時、その商店街から凡そ50メートルほど外れたところに小さな魚屋が営業を始めました。

その魚屋は、商店会の会長を訪ねてこのように挨拶しました。

「わたしとこは小さいし商店街からも外れておりますきに、組合には参加しませんけど、

何かと迷惑を掛けることもあるかもしれませんで、以後よろしゅうに。」

会長はこう考えます。

組合に入らんとは何を小癪な。

どんなに営業手腕があるんか知らんけど、無理にでも入らせることは何ぼでもできるんや。

ただ、50メートルも離れた小さな魚屋、どうでもいいっちゃあどうでもいい。

ここでいさかいを起こしてワシの立場が危うくなっては身も蓋もない。

今まで頑張って築き上げてきたワシの地位と利権も水の泡になってしまう。

何となればスーパーさんにも協力してもろうて追い出すこともできるやろ。

ここはひとまず開店祝いの花でも贈っといた方がええんやろな。


恐らくね、それと全く同じ理由で、金印は贈られたのだと

おっさんは思うのです。

果たして開店祝いの花感覚で金印は贈られたのでございます。



悪魔と心のかたち



人が、時にどうして悪魔になるのか、

それも幾度か書かせて戴いておりますことでございます。

この世界に悪魔が存在するといいますことはね、

死んでから悪魔になるのではなくて、

生きております間に、その心が悪魔になってしまうのです。

人が、天使としてこの世界に生まれてきて、

悪魔になる。

光と反対の方向に進んでしまう。

その一番大きな原因は、「欲」でございます。

現世的な幸せを求める余り、欲に溺れる。

次第に自分のことしか見えなくなり、自己中心になり、

欲を満たすために次第に強引な方法を取るようになる。

自らの考えを人に押し付け、

自らの望む通りに人を動かそうとするようになる。

それがストーカーという行為であり、

強要や略奪という行為でもございます。

それが原因で、心のなかに矛盾が生じます。

調和と秩序を理想とする心の中の心霊の意識と表面意識が矛盾するのですね。

そしてその矛盾は心の曇りを生み出します。

光が遮られて届かなくなるのですね。

それは自分のことしか見えていないから。

自らを顧みる、

それさえも客観的な高い視点に立たなくてはできないのですから。


欲もある程度は必要なものでございます。

高橋先生は心のかたちを次のように教えて下さいました。

理性と知性、それと欲が同じ大きさであってこそ心はまん丸の理想のかたちになります。

恋愛は理性と欲が大きく膨らみ知性を圧迫しますから、

心はハートの形になるのですね。

そうやって考えますと、悪魔は欲が大きく膨らみ、

理性と知性が圧迫されて小さくなっているのでしょうね。

ですから心がいびつな形になるのですね。


人との関わり合いもね、

互いに与え合い、思いやり合い、助け合い、協力し合い、

そこらへんのところが丁度良くて気持ち良いものです。

それが自己中心の心で人に強制し奪うようになりますと、

心は安らかではいられなくなります。

必ず苦しみが生じて来るのですね。

それは当然の理でありますように思いますね。



夢日記



いにしえの異国

私は劇作家でありまして、

大きな劇場で自分自身が演じる演劇を作ったのです。

この劇は、受け入れられるだろうか。

それは何か、大きな砂絵を描くというお話でございました。

演劇は受け入れられ大きな歓声に包まれました。


私は、どこか寮のようなところにおりました。

もう帰る時が近づいておりますようで、

仲間たちは慌ただしく荷物の整理をしておりました。

私だけ、まだ何も整理出来ていない。

それで焦っておりますところでございました。


そこには、二人の女性がおりました。

情熱の人と、信仰の人、

その信念の相違から、二人はずっと争っておりました。

互いに見えないから争うのだ。

そのように語り掛ける声が聞こえました。



お寂しくはありませんか?



冬の夜長は寂しいものでございます。

テレビを点けてみましても何も面白そうな番組がない、

それでまたスイッチを切る。

その途端にまた寂しさが襲って参ります。


いえ、おっさんは寂しくとも何ともないのですよ。

そういう季節ですね、というだけのお話です。


それで鍋でも作ろうかと考える。

一人鍋ですね。

白菜と、きのこ類と魚か肉、

まあ、それに練り物でもありますと御の字ですけどね。

味付けは何でも良いのです。

味噌とか醤油とかバターとか和風出汁とか鶏ガラ出汁とか中華スープとかカレーパウダーとか、

味醂とかお酒とか昨日のインスタントラーメンの余っているスープとか、

別にそれで美味しくなければポン酢に付けて食べれば良いだけなのです。


焼酎のお湯割りに養命酒を加えますと薬酒になります。

これはね、本当に身体中から汗が噴き出して来る。

それで身体を温めて、

体調を整えて、


関西に笑福亭鶴瓶という芸人がおりますね。

不思議なことに彼の周りでばかり可笑しな現象が生じるようでございまして、

彼は芸人ですから日本各地を飛び回ります。

交通手段に時には飛行機も使うのでしょう。

そうしますと、スチュワーデスさんは彼の前でだけ突拍子もない発言をするようです。

いえ、真偽の程は分かりませんけど、


スチュワーデスさんがおしぼりを配っておりまして、

「おしぼりでございます。」といって手渡している。

それが彼の前に参りますと、「おしぼりでござる。」となってしまうのですね。

それで彼は「かたじけない。」とそのおしぼりを受け取ったそうなのですけど、


またある時にはスチュワーデスさんが毛布を持って、

「お寒くはありませんか?」と乗客に訊いて回っている。

それが彼の前に参りますと、「おさびしくはありませんか?」となってしまうのですね。


不思議なこともあったものでございます。


寂しい夜には暖かい鍋と養命酒の薬種、

それと少々の感謝の気持ちがね、

心も身体もポッカポカにして下さいますよ。



自信というもの



自信にも中道といいますものがありますね。


例えばね、

誰かより自分の方が勝っている、という行き過ぎた自信は、

うぬぼれでしかありませんね。

誰にでも人より優れた部分と劣っている部分があるのですから、

誰にでも、素晴らしい一面が必ずあるのですから、

そういったうぬぼれは神霊の光に晒されますと脆くも崩れてしまいますね。


神霊の光の中で反省した時、

どんなに恥じ入ることになるのか、

どんなにいたたまれない気持ちになるのか、

勿論、深層心理の中でもそういった作用は生じておりますからね、

それは必ず表面意識や生活に不調和となって現れて参ります。


勿論、自信はある程度必要でございます。

これだけは誰にも負けないという自信、

自分に打ち勝つことができたという自信、

そのような自分の中だけでの自信、

ここまでが恐らく自信の限界点でありまして、

これが行き過ぎて自分の外に対して自信が向きますと、

これはうぬぼれ、行き過ぎた自信となって反作用を生じるのではないかと思いますね。


例えばね、おっさんはこんな風に考えます。

無限に存在する分野の中で、おっさんはIT分野がある程度得意な分野でございます。

日本人の中で、ネットをする人は恐らく6千万人程はおりますでしょうか。

その中でね、パソコンを所有してネットをしておられます方は4千万人程でしょうか。

で、ブログをしている人は2千万人、

ホームページを所有している人は8百万人、

自作でホームページを作っちゃう人は2百万人、

プログラムを作っちゃう人は50万人、

いえ、数字は感覚ですけど、


そんな風に考えますと、

この分野では、おっさんは50万本の指に入るつわものだってことになるではありませんか。

いえ、50万本も指はありませんけど、

あったら怖いですけど、

千手観音ならぬ50万本指おっさんですけど、

それが自信というものではないかと思うのですね。


皆様は皆様の得意分野で、

何本かの指に入れば良いのです。

でもね、決してそれは人間として、魂として、

誰かよりも優れている、ということではないのです。


うぬぼれはね、

神のシステムの中では虚しいものでございますよ。



男と女の恋愛事情



世の中広いもので、色んなお考えをお持ちの方がいらっしゃいます。

例えば、ものごとを恋愛でしか考えられない方、

男女間の友達関係といったものは存在せず、

あの人は恋愛対象にはならないなあ、とか、

あの人だったら一緒にやって行けそう、

なんて常にそういった視点で異性を見ていらっしゃる。

いえ、本当にいらっしゃるのですよ。

まあ、世の中殆どの映画やドラマ、小説に恋愛が紛れ込み、

歌謡曲でありましても恋愛の紛れ込まない歌を見付けるのに苦労する。

そのような現代の風潮がそういった人間を生み出しているとも考えられますけど、


おっさんは貧乏人でございます。

ところがどうも頑張っていらっしゃる人などを拝見しますと、励まして差し上げたくなる。

焼肉でも食べさせてあげたくなる。

でね、焼肉食べに行きませんか、ってお誘いするのですけど、

そういった恋愛絶対主義の人からしてみますと、

「どうせ下心あって誘っているのでしょう。だったらこっちも値踏みするわよ。」

ってなもんでね、

いきなりかけ引きとか嘘とかでおっさんを試しに掛かって来るのですね。

不誠実になって来るのです。

これはもう、たまりませんね。

力になって差し上げたいと思っても、

その人が恋愛目線でしか見て下さらないのでしたら、

おっさんも呆れて嫌気がさしてしまうのですね。


まあ、最近は焼肉も余り美味しいとは感じなくなってしまいましたけど。


ところで話は変りますけど、

結婚を前提としたお付き合い、

そんな婚活用語がございます。

結婚を目的としたお付き合い、のことですね。

結婚をゴール地点として、そのために付き合ってみてお互いの品定めをするのですね。

結婚するために、ちょっと一緒に結婚というゴールを目指してみませんか?

といった付き合いですね。


でもね、多くの男は、結婚を前提というよりも、

性交渉を前提にしてお付き合いしているのですね。

結婚を前提としたお付き合い、と女性が幾らそう考えておりましても、

男性は性交渉を前提としてお付き合いしている。

で、それが暗黙のうちの了解事になってしまっておりますようなケースも見受けられまして、

案外それが上手く行っている。


恋愛事情といいますものは全く複雑なものでございます。

おっさんのような異世界の住人にはもうわけが分からないのですね。

また、恋愛ばかりに目が向いておりましても、

人生余り楽しく生きることはできないのではないかな、

とおっさんは思うのでございます。

まあ、おっさんも若かりし頃はそうだったのですけどね。



田舎のお好み焼きはデカイ



先日のお好み焼きのことなのですけど、

本当に巨大なものでございました。

直径30センチ、高さ5センチほどもありましたでしょうか。

豚玉が5百円。

焼きそばの乗ったモダン焼きが6百円。

豚玉のモダン焼きを頼みますと、そこのおばちゃんは、まず冷蔵庫を開けてキャベツを取り出します。

ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ 
ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ ざくっ 

5分ほどもキャベツを切る音が続きます。

粉を溶いて、キャベツと混ぜ合わせまして、

じゅわぁーっと鉄板に流します。

また5分ほど、休憩。

その5分の間におばちゃんは何をしているかと云いますと、

テレビを見ながらお酒を飲んでおります。

で、冷蔵庫を開けて豚肉を取り出して鉄板に乗っけます。

してから、また冷蔵庫を開けて玉子を取り出します。

鉄板の豚肉の上に玉子を落として、

お好み焼き本体をひっくり返してその上に乗っけます。

で、5分休憩。

やおら冷蔵庫から焼きそばの麺一袋を取り出して鉄板で焼きます。

と、そこにおばちゃんの飲みかけの日本酒が注がれます。

んで、お好み焼きの上に焼きそば乗せてぇー♪

冷蔵庫から天かす(揚げ玉)を取り出して振り掛けます。

そんなこんなでソースを掛けてマヨネーズを掛けて青海苔とかつぶしを掛けて、


30分も掛かりましたでしょうか。

途中、不衛生な一面もありましたけど、

これこそ愛情と真心の篭ったお好み焼き。

それがふわっふわで美味しいの何のって。

それが6百円は安過ぎでおますな。

おばちゃん儲けありまへんがな。


と、そんなお好み焼き屋のお話でございました。



呪術とか、いろいろ



念と云いますものもエネルギーでございます。

念が蓄積されますと、そこに心が生じます。

そうして次第に意識を持った一つの魂になります。

その御魂は仏像のお姿に応じた心を持つようになりますね。

仏像の御魂入れなどはこの理論による呪術ですね。

自らに目的とし、励みとするための仏様のお姿を写し取った尊い像が、

他力本願を目的に、助けてもらうために御魂が入れられる。

神頼みで一生懸命真剣に祈り込めば、必ず仏像は仏様に変わります。


ただ、これはその念が神に通じた光ある正しいものであれば、のことでありましてね、

自我にまみれた強欲な低い次元の念でしたら、そこに悪いものが入り込んでしまうこともございます。

負のエネルギーとか云われますけど、

魔物は恐ろしく邪悪な気を発しますね。

魔物は常にエネルギーが欠乏しておりますわけですから、

周りからどんどんエネルギーを吸い取ってしまう。

ですから寒く感じますし、オーラの弱い人などは寝込んでしまいます。

それを考えますと、私なんてまだまだ全然暖かい方です。(笑)


また、強すぎる念も不調和を生じさせますね。

オーラの弱い人に影響が生じ易いですね。

あくまでも中道が大切でございます。


生臭坊主、なんてことが云われます。

坊主は肉や魚など生臭いものを食べてはいけない。

人間の決めたルールですね。

神様は決してそのようなことは仰られない。

神様でしたら、肉でも魚でも何でも食べて強い身体を作りなさいと仰られますでしょうね。

ところが、坊主は魂と対峙するのですから、自ずと真剣であることが求められます。

真心が要求されます。

まあ、そうではない坊さんもいらっしゃいますけど、

ですから、自らを律するために肉や魚を控えようとお考えになられますのは、

或いは当然のことでありますようにも思います。


でもね、行き過ぎはいけませんね。

その昔、桂枝雀さんという落語家さんも仰っておられましたけど、

緊張と緩和、

緊張があれば緩和もある。

常に緊張のしっ放しでは人間的な深みや広がりが生じませんし、

常に緩和した状態では、魂は軟弱になってしまいますでしょうね。

そこでもまた、中道と云いますことが大切になって参りますわけでございます。


ですからね、呪術ではなく真心が一番大切なのです。

不足したり、行き過ぎたりせず、中道で、

思い込みや慣習ではなくて、当たり前のあるべき姿がね、

一番大切なのだと、おっさんは思うのですね。



神の御技



小沢幹事長の髪型が毎年変っていた。

これを天下分け目の戦というのだそうでございまして、

そのようなどうでもいいような情報がテレビを賑わせております昨今でございます。

そういいましたら、おっさんの髪型も毎年変化しておりました時期がございます。

6:4から1:9へと、毎年大胆にも少しずつ変化しておりました。

今はもう、分け目なんて見る影もありませんけどね。(苦)


いえ、その髪のことではなくて、

神の御業(みわざ)のことなのですけど、


「ほんのからしだね程の信仰があれば、山を動かすことだってできる」

これはイエス様の御言葉でございます。

全てのものに心があるのですから、山にも勿論心があるのです。

そうして強い信念で、西へ一キロ動きなさい、と云えば山も必ず動いて下さる。

簡単なことなのです。

いえ、おっさんにはできませんけど、

その程度のことは神の御業とは云いませんね。

山を動かしたところで何になる。

真の神の御業とは、

人の心を正しき方向に変え得ること、

それだけが神の御業と呼ぶに相応しいことではないかと思うのです。


心の中の一番浅いところに四次元がございます。

いえ、この世界だって三次元だと思いきや、四次元であり、五次元でもあるのです。

四次元とは、幽界のことでございます。

幽界は、エネルギーの世界でございます。

全ての物質は、三次元の姿とは別に、その内側にエネルギーを内在させております。

ですから存在することができているのです。

四次元の四つ目の指標は、エネルギーですね。

幽霊も強いエネルギーを持つものは霊感がなくても見えますね。

でもこれが幽体を離れて成仏してしまいますと、見えなくなります。


この世界でもエネルギーを取り出すことはできますよね。

石油や石炭、ガスを縁として、炎や電磁力を取り出すことができる。

また重力や位置エネルギー、摩擦エネルギー、

人体におきましては運動エネルギーや食物エネルギー等が、

私たちの生活に大きな影響を与えております。

ですからね、目に見えております部分だけしか見ておりませんとこの世界は三次元なのですけど、

目に見えない世界に視点を向けましたら、

もっと高次元の世界に私たちが存在しておりますことが認識できますでしょう。


ただ、山を動かすのは、エネルギーではありませんね。

もっと高い次元の力の作用で山は動き出すのです。


その昔、人は火を見て「神」と怖れたこともありますでしょう。

電気の働きを見て、「悪魔の仕業」と恐れおののいたこともありますでしょう。

そして、やがて人は、山を動かす力の謎を解明するのかも知れない。

心の謎を解き明かすのかも知れない。


まだまだ先は永そうですけどね。



マザコン男とムスコンママ



さて、少しばかり更新をサボってしまっておりまして、

サボったリングでもできてしまいそうな今日この頃でございます。

昨日などはトータル19時間も眠りこけてしまいまして、

眠り姫ならぬ、眠りおっさんでございました。

睡眠時間が、バ、バカボンのパパよりも長い!!


ところで、世の中には、マザコン男という存在がありまして、

多くのケースでは、その影にムスコンママの存在が確認できるのでございます。

この、マザコン男とムスコンママの組み合わせは、いけませんね。

必ず社会に迷惑を掛ける。

今日はその実態を、骨川家を例に見ながら学んで行くことにしましょう。


骨川家の一人息子スネ夫とその母親は、相思相愛の仲でございます。

スネ夫おぼっちゃまは、毎日ママから可愛い可愛いと云われて育って参りました。

スネちゃまも、「ボク、ママのためならどんなことだってするよ」と云います。

そしてスネちゃまが次第に大きくなるにつれて、ママはスネちゃまにこのような話をするようになります。

いい?スネちゃま、

スネちゃまが大きくなって誰かママに似た女の人を好きになって結婚しても、

この家を出て行ったらだめよ。

一姫二太郎と言ってね、一番目に女の子、二番目に男の子の骨川家の血を引く赤ちゃんを生ませて、

必ず同居してママに孫を見せてちょうだい。

もしそれができないなら骨川家の嫁になる資格はありませんからね、

そんな嫁は放り出して別の嫁を探しなさい。

ママも一緒に探してあげるから。


うん、分かったよママ。


いいかい。文句を言うような嫁はだめよ。

骨川家のしきたりをしっかり守って、骨川家の味付けを覚えて、

家事全般、なんでもママとスネちゃまの云うことを素直に聞く嫁でなくちゃだめよ。

スネちゃまも亭主関白でしっかりと押さえ付けておかなくちゃいけませんよ。

お金のこともしっかりとスネちゃまが管理して、

小遣いなんて一銭も渡すことはありませんよ。


うん、そうするよ。ママ。


と、スネちゃまはこの時代錯誤の考え方を深く脳に刷り込まれ、洗脳されまして、

いよいよ結婚適齢期に突入するわけでございます。

ママにしてみますと、

スネちゃまを他の女の人に取られるのは嫌だけど、

孫のためにはそうせざるを得ないのですね。

だから嫁は孫を残す道具であって、散々こき使った挙句、どこかで捨ててしまえば良い。

まあ、スネちゃまはママの言いなりだから、そんなに難しいことじゃないし、

食べる以上に働かせれば損をすることもないだろう。

とそのように考えておりますことはまず間違いないのですね。


ところがね、スネちゃまがそのような間違った家庭観を抱えているから、

結婚相手は見付からない。

そりゃあ見付からないですよ。

誰だってそんな条件では結婚したいとは思いませんでしょう。

マザコンというだけで気持ち悪いのですし。

ところが、不思議なもので、希に騙されてしまう女性がいる。

まあ、その女性は結婚してから辛い現実を突き付けられるわけでございまして、

挙句の果てには寒空に無一文で放り出されてしまう。


全く、マザコン男とムスコンママの、鬼か魔物のような悪行でございますね。


嘘のような、本当のお話でございます。

しかも、多いのですよ。

人類は、この愚かな親子を、どぎゃんかせんといかん。


おっさんはそう感じるのでございます。



遠慮、を考える



昨日は千円の電車乗り放題初詣チケットで沢山の寺社を一日中回っておりましたおっさんでございます。

途中、百円の太閤焼きに目が止まったのですけど、

チャラい兄ちゃんが売っておりまして買うことが憚られたおっさんでございます。


遠慮といいますものは、するべきものか、はたまたせざるべきものか、

悩んで、悩んで、悩み続けてようやく糸口が見付かりましたおっさんでございます。

以前にも書かせて戴きましたことがございますが、

幼稚園の頃に工作で先生が「ハサミを取ってきて下さい。」とのたまわり、

園児が全員ハサミの入った箱を目掛けて吾も吾もとハサミを奪い合う光景を後ろの方で眺めて、

全員がハサミを獲得し終わりました頃にひとりのそのそとハサミを取りに動き出すという、

幼稚園児にして老人のような行動様式を持っておりましたおっさんでございます。


今の世の中、誰もが吾が吾が、と自分本位で先を争い、少しでも優位に立とうと争って生きております時代、

その中にありまして、慎ましく思い遣りと愛を持って生きる、

それがつまり遠慮といいますものの本質であるように思うのですけど、

その吾が吾がの中に一人だけ慎ましく生きている者がおりますと、

きっとその人は、殺されてしまう。

命を、奪われてしまう。

ですから、今の時代にありましては、遠慮してはいけないのですね。


でもね、私たちは、

誰もが吾が吾がと自分本位で先を争い争っておりますが故に現世が地獄になってしまっておりますことに、

目を向けなくてはいけませんね。

そうして、誰もが慎ましく愛と思い遣りを持って自らの力量と本分を弁えて生きるようになりますと、

現世は愛に溢れた調和社会となりますでしょう。

そうなってこそ、遠慮が美徳とされるようにもなるのですね。


吾が吾が、吾も吾も、

それは毎年初詣して大勢の人の中におりますと感じます。

周りが見えず、人よりもっと沢山の幸せを手に入れようとする人々の多いこと多いこと。

大勢いても一人一人の孤独なこと孤独なこと。

でも、それでは神様には願いは届かないでしょうけどね。



鶏ガラ99円也



今日は鶏ガラ198円の半額シールが貼られておりますのを目敏く見付けまして、

大量のお酒で二時間ほど煮込みつつ、

僅かな身をこそぎ落とし、

その出汁に和風出汁を加えて白菜を放り込んで、

夕食に戴きましたおっさんでございます。

鶏のガラの美味しさは、もう、たまりませんね。


出しガラの鶏ガラは冷凍庫に放り込んで、もう一度出汁を取るつもりです。

出汁は、まだまだ出るし、身はまだまだこそげるのです。


その昔、学生の頃、

おっさんは田舎に住む友人にこんな話を聞いたことがございます。

鶏を一羽、首に縄を付けてキャンプに連れて行きます。

勿論、この鶏は食材なのですね。

仲間とじゃんけんを致しまして、負けた一人がその鶏をキャンプ小屋の裏に連れて行きます。

暫くしますとその小屋の裏から首のない鶏が羽をバタつかせて逃げ出してくるのです。


命とは、奥深いものでございますね。


ギャー!


その鶏もね、

自らガラになって何時間も煮込まれてしまうとは、

夢にも思わない。


ですからその命を少しでも無駄にしてしまいますと、

折角の犠牲が勿体無い。

でも、感謝の気持ちで無駄なく使って差し上げますと、

鶏さんも生まれて来た甲斐があるというものでございます。

それが供養になるのですね。

自らの命を犠牲にして他を生かすのですから、

それは素晴らしい命の使い道であり、

神様もきっとその見返りを、鶏さんに与えて下さいますでしょう。


今日はyoutubeで、文七元結という落語を拝見しておりました。

これもまたエエ話ですわ。

涙が、ちょちょ切れますなあ。



新年年明けに想ふこと



人類は、精神的にまだまだ未熟な人類でございまして、

地球上のどこかで未だ戦争という殺し合いが繰り広げられております。

日本でありましても、二十世紀半ばまで、

国民が国家の指示の元に一致団結して戦争に参加していた国でございます。

軍国思想を徹底的に叩き込まれ、

戦争の悲惨な姿を気付かぬ内にもトラウマとして抱え続けている、

70歳代以上の方の殆どがそのような戦争の経験者でございましょう。

そしてまた、その偏った思想が子に継がれ、さらには孫にも伝わり、

未だ偏った思想、偏った考え方を正しいものとして信じて疑わない人がいる。

いえ、かなり多くの方がそうなのです。

それが2010年時点での日本人の意識なのです。

テレビを拝見しておりましても、

軍国思想の影響は至る所で見受けられるのですね。


男は、こうでなくてはいけない。

女は、こうでなくてはいけない。

結婚するということは、こういうことだ。

嫁は、こうでなくてはいけない。

親子の関係は、このようにあるべきだ。

そういた偏った考え方が親から子へ、子から孫に伝わり、

ティーンエイジャーにも今以て、戦争経験者の子供世代の方から、

偏った思想が暗黙のうちにも伝えられているのですね。

まあ、徐々には訂正されて来てはおりますけど、


その正誤を正しく見抜ける者は、

誰もおりませんね。

何故なら自らの洗脳を客観的に見付けて思想を修正できる人は絶対に洗脳されないのですから。

それにね、自らの過ちを素直に認めることは勇気の要ることです。

誰だって、強制されない以上はそんなことはやりたくない。

自分が一番可愛いんですもの。

誰だってそのような忌まわしく暗いことからは目を背けますでしょう。

増してや正しい在り方を知らない人には、もうそこまで考えるなんて無理なんです。

もう、どう考えたって無理。


ただね、その過ちを見抜く方法はあるのですね。

それが即ち正法的な視点なのです。

愛と感謝の調和の法でありますところの正法的基準なのです。


例えば皆様は、嫁と両親を秤に掛けて、どちらに重きを置くのか、

家庭と地域の風習を秤に掛けて、どちらを優先するのか、

主人は、働いてお金を稼いで来るだけで家庭での責任を果たしているのか、

主人と末っ子のどちらが家庭での地位が高いのか、


どのようなこともね、それを当たり前のこととはお考えになられず、

一から本当に正しい在り方はどうなのか、

考えてみて下さいますことではないかと思うのです。

それがね、過去から引き継がれている忌まわしい思想との決別となり、

強いては人類の幸せや調和社会の実現に繋がるのです。


人類は、めくらのままで良い訳はないのです。

自分達の未来を正しく切り拓いて行ける優れた民族にならなくてはいけないのです。

それで皆が幸せになれるのですから、

一度本気になって考えてみて下さいましたらと思うのですね。