ブログより転載(2010年2月)

 



ピッカピカの頃



これもまだおっさんがピッカピカの社会人でありました頃のお話でございます。

会社に参りますと周りの目が気になる。

上司の目が気になる。

おっさんは生れつき気が異常に小さかったものですから、

それはもう職場ではオドオドビクビク。

そんな状態ですから集中力の無いことこの上ない。

大量に覚えなくてはいけないキングファイル数冊の大量の資料もちーっとも覚えられない。

それはもう本当に困りました。


だから休日が嬉しい。

土曜日の夜ともなりますと、もう寝る間も惜しんで遊びまわりましたね。


土曜日の夜にハンバーガーショップで買ったハンバーガーをお弁当代わりにぶら下げまして、

神戸は三宮の町をうろついたり、

尼崎から海岸まで歩いたり、


あ、尼崎から海岸までは徒歩で2時間ほどで行けるのです。

真っ暗な倉庫街を抜けましてね、

岸壁に大きな貨物船が止まっている。

ある時その貨物船から歯を磨きながら現れました船員さんがおっさんを見つけまして、

驚いておりました。


そりゃそうですね。

街から遠く隔たった倉庫ばかりの真っ暗な岸壁を一般人が散歩しているのですからね。


お腹が空きますとハンバーガーに齧り付きましてね。

まあ、冷えたハンバーガーはちーっとも美味しくはありませんでしたけど、


おっさんはただ歩くのが好きでしたからね、

よく歩きましたね。

神戸の須磨海岸から明石に続く海沿いの国道二号線。

ここの海原景色がきらきらきらきらととても綺麗でね、

よく歩いたものでございます。


でね、それが日曜日の夜になりますと次第に憂鬱になるのですね。

テレビではサザエさんをやっているくらいの時刻ですね。

あの頃はどうしてあんに仕事が嫌いだったのかって思いますね。

本来、とても楽しいはずのお仕事が楽しくない。

まあ、それが所謂生れつきの嫌々病のせいだったのですけど、


人生、前向きではなかった頃のおっさんのお話でございました。

まあ、手前味噌でそんな話聞きたくもないわい、と思われました方も多いとは思いますが、

何卒お許し下さいませ。

ご清聴有り難うございました。



神理とは何ぞや



まあこのところ書くことも見つからないもので、

神理とは何ぞやというようなお話をさせて戴こうかしら、

と思うのでございます。


ここに、折り紙があるとします。

折り紙は真ん中で半分に折り曲げますと、向き合った辺と角が合わさります。

折り紙は半分の大きさになり、さらに新しい辺と角が現れて参ります。


人間社会にありますと、

対立し合った者同士が丁度真ん中で折り合いを付けますと意見がまとまりますね。

そうしてさらに新しい対立候補が現れて参ります。


このことから、人間社会にありましても、折り紙の科学でありましても、

同じ理論が根底にあって事象が生じておりますことが分かりますね。

この根底の絶対理論を神理と言うのです。


あ、折り紙の真ん中の折り曲げた線は中道ですね。


光に近づくと明るくなり、光から遠ざかれば暗くなる。

上昇するためにはエネルギーが必要であり、エネルギーがなくても下降できる。

高く上れば視野が広がり、低く下がれば視野が狭まる。

自らに終始すれば心は暗くなり人生は閉ざされ、

人のために生きれば心は軽く明るくなり、人生は開けて来る。

あ、最後のものはテコの原理ですね。


哲学や心の世界のみならず、科学にも人間関係にも、

全ての事象にこのような共通した理論が存在するのですね。

それを神理と言うのですね。


さて、この世界は、魂の世界とは異なりまして、その神理が現象となって現れているのですね。

ですからやはり、この世界は、身を以て神理を体験し学ぶ場所であるのでしょうね。



ルールの大切さ



「ルールの大切さ」

などと申しますと、

ハライチさんなどはまたひとつ小芝居でも打ってボケて下さるのではないかと思うのですけど、


おっさんが最初に就職した会社はコンピューターの会社でございました。

コンピューターと云いましても様々なものがございます。

パソコンでもウィンドウズが動くものからマッキントッシュ、ユニックス系、

とございまして、

更にはサーバー専用機、クライアント機、ノートPC、ディスクトップPC、

と色々とあるのですけど、

何もコンピューターはパソコンに限ったものではなくて、

パソコンなんぞはホンの一部分にしか過ぎないわけでございまして、

スーパーコンピューターから汎用機、オフィスコンピューター、CAD/CAM、POS、

といったものがまあ所謂代表的なものであるのですけど、

でもこれは全てデジタルコンピューターと呼ばれる部類のものでございまして、

アナログコンピューター、制御機などと言われますものも

世の中には無限種類存在するものでございます。


でもね、おっさんが「昔、コンピューターの会社で働いていました」って云いますと、

ほとんどの方が、ウィンドウズですか?インターネットですか?って訊いて下さるものですから、

もうおっさん、いささか説明するのに疲れまして、

「あ、まあそんなもんです」と適当に一応えておくわけです。

いえ、本当はそうではないのですけどね、

まあ、最初の会社では汎用機を触っておりました。

汎用機のシステムの開発ですね。


で、その職場に、おっさんより8歳程年上の主任さんがおられまして、

その主任さんは私たちが知らない間に、

毎週ディスクのバックアップを取って下さっていたのですね。

その当時バックアップと申しますと、

60メガの大きなディスクを2つガシャンガシャンとセットしまして、

コマンドを打ち込んでディスクの複製を取るのですけど、

そんなに早くは終わらない。

その当時の汎用機は今のパソコンよりもはるかに性能が劣っておりましたからね、

何時間もかかっちゃう。

それをその主任さんは毎週一回、

私たちが退社した後にバックアップを取るのだと自らにルールを強いて、

私たちにこっそり隠れて?遣って下さっておりましたわけでございます。


それがどうして私たちにばれちゃったか、

それはね、ある時その主任さんが出張することになりまして、

その間、ある先輩がコンピューターの管理をすることになったのです。

そうしますと、ある時にはAのディスクがセットされていて、そこでプログラミングをするのです。

ところが次の日にはBのディスクがセットされていて、折角打ち込んだプログラムが見当たらない。

そのようなことがありまして、真実が明らかになったのですね。


まあ、その主任さんは色々とご自身にルールを強いておりまして、

新人さんは一人ずつ寿司屋に誘って寿司をご馳走して下さったり、とか、

会議で困っております人に助け舟を出すことを決めていたり、と、

色々と自らに厳しくされておられましたね。


ルールはね、決して人に押し付けるものではないのですね。

おっさんはその主任さんを見て学ばせて戴きました。

ルールは自らの意思で定めて、或いは自分たちで定めて自らに課すものなのですね。

逆にこれが与えられたルールであったり、押し付けられたルールであったりますと、

必ず反感が生じますね。

自ら問題解決のためにルールを決める。

それは人間関係を良好に保つためのルールであったり、

職場環境を良くするためのルールであったり、

そうして家庭や職場といいますような組織や何らかのコミュニティーを運営管理するためには、

必ずそういったルールが必要になって来るのですけど、

皆でルールを決めて自らに課すことが大切なのですね。


だってあれでしょ。

勝手にルールを決めてそれを押し付けて来る人は余り人から好かれませんね。

そして自らにルールを課しておりますような人は必ず皆から愛されている。

それは観察しておりますと分かりますよ。

必ずそうなっているはずですから。


そうしてコンピューターの管理一つとりましても、

ルールがあるのとないのとでは使い勝手も違って参りますね。

特にウィンドウズのような困ったちゃんを相手にする時には、

きちんと問題解決のためのルールを定めておくに限りますね。


ですからね、ルールって大切なのですね。

それも民主主義的なルール運営が極めて大切なのでございますね。



日の丸飛行隊?



何故か、オリンピックでのスキージャンプの日本選手のことを、

日の丸飛行隊と呼ぶそうでございます。

ここまで書きますと、恐らく分かって下さる方にはおっさんが何を主張せんとしているのか、

分かって下さると思うのですけど、

彼らは、飛行しているわけでも、何らかの隊に所属しているわけでもないのです。

日の丸という陰のある言葉、

それに、飛行隊という、日本の戦争時代のゼロ戦部隊や神風特攻隊を彷彿とさせるような名称。

何故、そのような名称を付けたのか。

恐らくはそういった旧日本軍の飛行兵や飛行部隊を誇りとしている誰かが名付けたのではないかと思うのですけど、

少なくとも日本の軍事行為を罪深き暗い過去として捉えておられます方が

そういった名称を付けることはありませんでしょうし、

使うことも憚られますでしょう。

また、そういった言葉を平然と使い続ける限り、

日本は戦争という暗い過去から抜け出すことはできませんね。

同じ次元でいつまでも次の高い段階へ、平和へと駒を進ませることはできませんでしょう。


どうして今以てこのような暗い言葉が生じて来るのか、

おっさんはもう憂える限りでございますよ。



windows xpの使い方



昨日はパソコンシステムのリカバリをしておりまして、

夜中まで掛かって作業を致しておりました。

windows Xpを使っているのですけど、

windows Xpはほんまに使えません。

マイクロソフト以外のソフトを導入しますと信頼性が落ちる。

入れる度に信頼度が下がって、

最後にはプログラムが立ち上がらなくなってしまったり、

ハングアップしてしまったり。


それにね、リカバリするにも十時間以上掛かるのです。

システムファイルとシステムパラメータ、

ユーザープログラムとデータ、

それぞれ別にバックアップ、リカバリできるようになっておりましたら、

システムファイルだけ入れ直しましたら済む話なのですけど、

ほんの一時間程度で作業は終わってしまうはずなのですけど、

残念ながらそうはなっていないのです。

全部入れなおさなくてはいけない。


ですから、windows xp以降のシステムとは別に、必ずサブマシーンがなくてはいけないのですね。

メインのマシーンではメールと業務関係の処理オンリーで余計なことは絶対にしない。

バックアップも定期的に取って、

ウィンドウズアップデートとかも行わない。

でね、サブマシーンにwindows2000かMeを据えて、

勿論ブラウザはFirefox、

xpよりもね、その方が信頼性は絶対に高いのです。

ハングアップなど殆ど生じませんし、それに速いですからね。

いえ、メモリー16メガで動いておりましたwindows98の方が速かったのですけど、

ディスプレィドライバーがありませんから、

標準のデバイスドライバーでは画面の4分の1に小さくしか表示されませんから、

windows2000が最適でしょうね。

それなら昔のライセンスも余っておりますでしょうし。

それが適わなければPuppyLinuxを使えば良いのですよ。

まあ、少し勝手は違いますけどね。



神霊の想い



先程のシーシェパードのことにしましても、

命を護りたいと言いながらもちっとも命を護って下さろうとなさらない首相にしましても、

野良に餌付けをすることが悪とされる社会風習にしましてもそうなのですけど、

おっさんは伝えたいのです。

神様はきっとこのように想っていらっしゃる。


私は人を、そんなに冷たい存在に創造した覚えはない。

愛と慈悲に溢れる暖かな存在として創造したはずである。

弱いものを大切にし、自らの生活を犠牲にしてでもその命を護り、

その愛と慈悲を以って命を護り育てるものとして創造したはずである。

また、私は人を、調和を生み出すものとして創造したのだ。

人類が愛で繋がり、弱いものにはその慈悲を以って接する。

それが適う存在であるからこそ、私は人を大自然界の長としたのだ。


ってね。

命を護り育んでこその素晴らしい人、

調和を生み出してこその素晴らしい人、

ではないかと思うのです。

それができていないから人類は犬猫以下ではないかなと、

おっさんは思うのですね。

文明を築いたから偉いのではないのです。

心のない文明など、何の役にも立たないのです。

皆が幸せではない国家など、存在する必要はないのですよ。


アフリカの未開種族の中にも心ある社会を築いている素晴らしい人たちはいるのです。

私たちとその人たちのどちらが優れた種族か、

それは考えるまでもないことでありますように思います。

高学歴だから素晴らしい人格者だとか、

余りにも愚かな考え方とは思われませんでしょうか?

野蛮に少し毛が生えた程度の科学技術、医療、

宗教なんて全く未熟そのものではありませんか。


私たちは本当に心しなくてはいけませんね。

それも自分たちの、自分たちの子孫のことなんですから、

心して、もっともっと良くして行かなくてはいけませんね。

おっさんはそう思います。



シーシェパードは正しいのか



何日か前に、シーシェパードがまた何かをしでかしたそうで、

世間を賑わせておりました。

シーシェパードにしましても、グリーンピースにしましても、

その活動の過激さには恐ろしいものを感じます。


生き物を大切にするはずの彼らが鯨は大切にしても人は大切にしない、

そのような道理がどこにあるのでしょうかね。

調和を生み出す方法が暴力であってはいけませんね。

暴力からは調和は生まれないのです。


生き物を護ることに執着する余り盲目になって正しい判断ができなくなる。

心と言いますものを見失ってしまう。

その結果、不調和は生み出せても調和は生み出せない。

彼らに生き物を護るなんてことが本当にできるのでしょうか?


恐らくね、その怒りの念で大自然を怒らせているのは、

逆に彼らの方ではないかと思うのです。

彼らの業がどのような反作用を生じるのか、

きっと明かされる日が来るのではないかと思いますね。



バレンタインデイについて思うこと



バレンタインデイ

先日そのような行事がございまして、

恐らくその日は、

日本中のウブな若者たちが菓子業界の企てによって何らかの苦悩を強いられる日、

であるのですけど、


好きな人には気楽に何でもプレゼント渡しゃあええやんか。

貰う方も気楽に貰えばええやんか。

貰えない人も別段何を気にすることもないやんか。


と、おっさんはかように思うのでありますけど、

それが適わないのがウブな若者なのでありまして、、、


で、おっさんはその日こんなことを考えておりました。


あんさんが大切に想う人がおりますな。

それから、そのあんさんを大切に想う人がおりますな。

そうしてそのあんさんを大切に想う人を

大切に想う人もきっといるのですな。


同じように、誰かが大切に想う人がおりますな。

その誰かを大切に想う人もいるのです。

その誰かを大切に想う人を

大切に想う人がいてはります。


あんさんの大切に想う気持ちと、

誰かさんの大切に想う気持ちは、

これは人間なのですから、同じものです。

だから、誰かの誰かを想う気持ちは理解できるはずなんです。


で、その気持ちが理解できましたら、

皆が大切な存在であることが分かるはずなんです。


はてさて、おっさんはその大切な人たちの輪っかに入っているのやらいないのやら。

まあ、それだけが疑問な今日この頃でございますな。



人を知り、理を学ぶ



昨日は川中島の合戦のことがテレビで少しだけ明かされておりまして、

おっさんも目から鱗が少しだけ剥がれましたでございます。

1530年代、時は戦国時代の初期でございます。

各地に力のある諸大名が現れて、日本各地を征しておりました。

越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河には今川義元、

尾張には織田信長でござりますな。


越後って、新潟なんです。

新潟ですから美味しいお米や美味しいお酒、海の幸が沢山とれる。

「謙信様、お腹が空きましたでござりますぅ。」

「おお、そうか、米食え、酒飲め、魚食え。腹一杯食え。」ってなもんでね、

家来たちはたらふく美味しいものが戴けるわけですな。

そうしますと当然のことながら家来たちの意気が上がります。

林家こんぺいさんが大声だったことも頷けるのですね。


そこに甲斐の武田信玄が目をつけたのですね。

甲斐(山梨)から小さな豪族が蠢いておりました信濃(長野)を征服しに掛かって、

どんどん北に領土を広げてさて次の狙いは上杉謙信の越後(新潟)だ、

ってことでね、攻めかかった。

川中島を挟んで睨み合うこと三度四度、

沢山の家来が犠牲になって、それでも決着が付かなかった。


上杉謙信はね、毘沙門天を信仰しておりましたので旗には「毘」の文字ですね。

武田信玄は風林火山ですね。

動かざること山の如し、で時が満ちるまでただ只管にじっと待って、

速きこと風の如し、静かなること林の如しってんで、

闇夜にまぎれて音も立てずに数十キロを団体移動するのです。

今時の修学旅行生でもそのようにお行儀の良い学校なんてありませんけど、

上杉謙信が油断した隙に、霧が晴れてみればもう目の前に武田の軍勢がいるわけですね。

もう、謙信さんもこりゃあビックリ、ってなもので、


でも武田信玄はどうしても上杉謙信を蹴散らして海岸線まで領土を広げなくてはいけなかった。

それはね、山梨も長野も海に接していないのですから、塩がない。

料理の味付けもできやしない。

長野なんて言いましたらもう山ばかりで米だってそんなには取れないのです。

それで、打ちあわびとか、勝ち栗とか、よろ昆布とか、

縁起を担いでそういった味の薄いものばかりを食べていて、いい加減もうイヤ!

ってなもんで、ここは一つ新潟の一部分を貰っちゃえ、

そうしないともう死ぬまで腹一杯のご飯とか、味の付いた旨いもんが食えないぞ、

って思ったそうなのですね。


おっさんの近くには近江屋さんという和菓子屋さんがありまして、

そこでも勝ち栗という菓子が売られておりますけど、

これは饅頭に栗が入ったものですね。

でも武田信玄さんが食べていたのはただの栗なんです。

栗の仄かな甘さ。

いやもう塩っ辛いものが本当に食べたかったのでしょうね。


長野の北には上杉謙信、南には今川義元がにらみを利かせて対立しておりましたから、

ここはどうしても新潟の一部が欲しい。

それで武田信玄は何度も上杉謙信に攻めかかったのです。

いや、あんたに恨みはないんやけど、わても引くに引けないでおまへんか。

ってなことでね、互いに命を奪うところまでは行かなかったのですけど、

三度、四度と攻めかかった。

ところがやはり美味しいものを腹一杯食べて意気の上がった上杉謙信の軍勢には

さすがに腹ペコの武田軍は適わない。


ところがね、暫くしまして武田信玄に上杉謙信から陣中見舞いが届くのですね。

大量の塩。

これはもう武田信玄も嬉しいではありませんか。

時代が時代なら親友として酒を酌み交わしていたかも知れない二人の武将。

互いにライバルとして認め合っていたのかも知れませんね。


で武田信玄は越後侵略を諦めて、今度は徳川、織田の尾張を目指して攻め込んだのですけど、

塩の摂り過ぎで血管が硬くなっていたのかも知れませんね。

病に倒れて亡くなっちゃった。


そういったことが次第に見えてまいりましてね、

もうおっさんも目から鱗ですね。

地の理が分かってまいりますとその人の考え方や事象の背景が見えて参ります。

そうして人間理解が進み、次第に視野も広がって来る。

だから、勉強はせんとあきませんなあ。

学生の頃は余り好きではなかったのですけど、

今こうして色んなことを紐解いて、ばらばらにして、

目から鱗を落として気付きが増えてまいりますと、楽しいじゃあありませんか。

おっさんも学生の頃からこの楽しさを知っておりましたら、

どんなにかもっとまともな人生を送っていたことか、と思うのでございますな。



何を以って正しいとするのか



正しい、といいますことにも色々とございます。

ご自身のご家庭の安泰に基づいての正しさと、

社会の調和に基づいての正しさには相違がありますでしょう。

正しさの指標が全く正反対になることもありますでしょう。

社会の調和でありましても、

慈悲社会と無慈悲社会でもまた、正しさの指標はことごとく逆になりますでしょう。

それは、当然のことでございます。


自民党政権が日本社会の発展を前提に政策を行った結果、

裕福なものはさらに裕福になり、

そうでない者は貧困となり、自殺率や失業率が増大して社会不安が生じ少子化になった。

それも自民党の中では正しい政策であったのでしょう。


一つだけ言えますことは、視野の狭い正しさは自己中心なものでしかない、

ということですね。

争いは常に狭い視野での正義感の対立で生じるものでございます。

でもね、社会の視点、国の視点、地球の視点、さらには神の視点に立った時、

次第に、本来のあるべき姿が見えるようになって来るのではないかと思いますね。

そうして、死後反省させられるのは、神の視点に於いて、ですからね、

それはもう余程心して正しさを追求して参りませんと、悔いを残すことになってしまいますね。


私たちが日頃から正しいと信じて疑わない事象でも、

もう一度神の視点で考えてみる必要があるのではないかなと思いますね。



正義の味方、とは何であるか



世の中、色んな人間関係のトラブルがございます。

小さなトラブルから、ニュースに取り上げられますような大きなトラブルまで、

ございます。

互いの意思、信念がぶつかり合い、ぬかるみの中にどんどんはまって行く、

さりとて裁判などで正しい判決が申し渡されるとは限らず、

道理が力でねじ伏せられるような現象も、数限りなくございます。

でもね、どちらもが正義の剣を振り翳しております積りでも、

どちらかが正義の味方で、どちらかが極悪非道な大悪党なのでありまして、

どちらもが正義の味方なんてことは絶対にあり得ないのでございます。

どちらもが正義の味方でありましたら、争いなど生じないのですから、

そこは神理や道理に照らし合わせまして、どちらかの間違いを正さなくてはいけない。


その時に、ですね、

じゃあ、正義の味方の定義って何じゃらほい、

という極めて基本的な事柄の再確認がどうしても必要になって来るのです。

悪い者を力でねじ伏せることは正義であろうか?

この命題に関して、テーゼとアンチテーゼがどうのこうの、

といったようなややこしい議論はやめにしまして、

それでは親が悪い子を叩きのめすのは正義であろうか?

司法機関が暴力団を権力でねじ伏せるのは正義であろうか?

と、二つの質問をおっさんは皆様に投げ掛けたいと思うのでございます。

多くの人は前者は正義の味方ではなく極悪非道な大悪党であるとお考えになられますでしょう。

そしてまた、後者は紛れもなく正義であるとお考えになられますでしょう。

そうしますと、最初の、

悪い者を力でねじ伏せることは正義であろうか?

という命題が必ずしもそうとは限らず、

強い弱いという判断材料がそこに必要となって参りますことが分かりますね。


ですからね、

強くて悪いものを力で叩きのめすことは、正義

弱くて悪いものを力で叩きのめすことは、正義ではない

強くて正しいものを叩きのめすことは、悪

弱くて正しいものを叩きのめすことは、極悪非道の大悪党

ということが云えるのではないかと

おっさん、時代劇を見ながら考えておりました次第でございます。

で、そうやって人間関係のトラブルを見て参りますと、

どちらが正しいのか今まで判断が付かなかったことでもね、

次第に判断できるようになるのではないかと思います。


人が、どの道を進むべきか、もね。

見えて来るんじゃないかなあ。


追記:

勿論、調和のための方法は力であってはいけないと思いますし、

正義といいますものには必ず慈悲や愛といいますものがそこになくてはいけませんね。

そうであってこそ、それは神の意に沿った正義になるのではないかと思います。



加藤清正公の井戸



加藤清正公の井戸がどうの、という話題を最近頻繁に耳にするようになりまして、

なんだか明治神宮にそういった井戸が存在するそうでございまして、

そこがパワースポットだそうでございまして、

待ち受け画像にしておりますと良いそうでございます。


で、おっさん、加藤清正公なんて人、お名前しか存じ上げなかったのですけど、

画像を検索してデスクトップに貼ってみた。


水に木漏れ日が反射してキラキラ輝く井戸の画像。

それに清く正しいなんて素敵なお名前ですからね、

何の気なしに背景画像にしております。


いえ、今現在別段何もないのですけど、

その日の夜ですね、

夢の中に口髭を生やしたもの腰の低い素敵なジェントル爺さんが現れまして、

おっさんをトイレに案内して下さった。(笑)

そのトイレには穴が5個6個開いておりまして、

そこで用を足すようになっているのですね。


いえ、それだけのお話なのですけど、

おっさんはどうもその爺さんを徹底的にコケにしたようですね。

いえ、何だかそのような記憶があるのです。

それでもその爺さんは別段気に留める様子もなく、

おっさんをトイレに案内して下さった。

で、その爺さんは、そのトイレを覗いて、

「5個あります」と言い残して去って行かれました。


そのジェントル爺さんが誰だったのかは分からないのですけど、

加藤清正公の画像を検索してみますと、どうも口髭を生やしている。


うーん。謎です。


ほんま、謎です。



ショービジネス



日本で一番のショー芸人は誰か、

と、そのように訊かれましたら、おっさんはまず、「くまだまさし」さんを、

そのトップに位置付けたいと日々考えておりました。

ところが最近は2700というお笑いタレントコンビがまた好いショーを見せて下さる。

楽しい芸と、心地よい音楽、

それこそがアメリカナイズされたショーの醍醐味ではないかと思うのですけど、


オペラなんてものがございます。

これは昔々のショーの形だったのでしょう。

今ではそのストーリーも音楽も現代とは余りフィットしないものになっていると思うのですけど、

昔はそれで人々がストーリー展開を楽しみ、心地よい音楽に浸っていたのでしょうから、

昔の人に取りましては、オペラは、今の「くまだまさし」や2700に相当する、

楽しいショーであったのであろうと思います。


あ、2700、ご存知ですか?

どどどどどどど どんぶらこっこテーレ どんぶらこっこテーレレ

って感じの今風の桃太郎を音楽に乗せて演じて下さるお笑い芸人なんですけど、


「くまだまさし」さんもそうなのですけど、

楽しいと人は自然と音楽を口ずさむものでございます。

楽しい音楽が口から飛び出して来る、

全身で楽しさを表現する、

それを今まで多くの人が忘れていたのではないかいな、と

おっさんはそう思うのです。


人生、楽しめばいいじゃん。

たとえ明日、地球が滅びようとも、

食べるものがなくても、

皆で楽しんで楽しんで、楽しんで、

それが活力ってもんではないかい、と思うのです。

でね、それが根本にあってこそのショービジネスなんです。

それが人間。

それこそが真の人間の尊い姿。


どんぶらこっこテーレ、どんぶらこっこテーレレ

おばあさんの力ではこの大きな桃は持ち上げられない

どんぶらこっこテーレ、どんぶらこっこテーレレ



続くさ、終わらないさ



いえ、ゴキちゃんの話にはさらに奥深いところがありましてね、

ですから、もうゴキちゃんのことはどうしても読みたくないぞ!って方は飛ばして下さると良いと思うのですけど、


当時、おっさんが住んでおりましたところがね、

実家から逃げ出す目的で借りた月2万数千円程度のゴキ部屋でございまして、

職場周りでもゴキ、自宅に帰りましてもゴキ、でもう半分頭がどうにかなっちゃっていたのですね。

で、おっさんは、逃げ出したのです。

ゴキのいる日常から逃げ出したのです。

人生、逃亡生活を送るつもりで大きなカバンを幾つも持って一路名古屋へ、

逃避行でござりまするな。

名古屋駅の地下にメイチカという地下街がございまして、

大きくて重い荷物を抱えてそのメイチカをぐるぐるぐるぐる、

一体何周しましたことでしょうか。

疲れましたらまた駅に戻りまして、駅の待合室のベンチに座ってボケーっとするのです。


ところがね、

ところがなのです。

その名古屋駅も改装中でありまして、ゴキちゃんがゾロゾロ歩いている。


二、三日名古屋で過ごして、頭を冷やしまして、

ですから仕方なく大阪に戻って、転職したというわけです。

そうして転職して次の年に、

東京出張を命じられるのでございます。


東京といいましてもいささか広うござんす。

東京は渋谷の道玄坂の中腹にありますビルに職場を得まして、

ところがね、残念なことにそこにもいらっしゃったのですね。

同じ職場の仲間なのですけど、

考え方や話し方、立ち居振舞いがどう見ましてもゴキなんです。

いえ、蛇かなとも思いましたけど、やっぱり違うのです。

そのねちねちねばねばした話し方や考え方、

人の居場所に遠慮なく入り込んで来るその無遠慮さはね、

よく言えばパタリロ、悪く言えばゴキ、

まあ、どちらにしましてもゴキそのものなんです。


なんでおっさん、わざわざ東京くんだりまで来てゴキに会わにゃあならんのかと、

嘆きましたねえ。


ですからね、招いていたのだろうなと思うのです。

おっさんが無意識のうちに招いていた。

そうではないかと思うのです。

いえ、実際のところ、全然招いてなんかいなかったのですけどね。




如月こちゃごちゃ


二月に入りまして、

それにしましても今日の冷え込みは激しいもので、

空き地の水溜りに氷が張っていたりしております。

部屋に篭ったおっさんのカレー臭を外に追い出そうと、

ベランダと玄関の扉を開けて風を流すのですけど、

これがまた空気が流れない。

澱んでおりますような状態ですね。

もう空気清浄機などは朝から光センサーが澱んだ空気を検知致しまして、

もの凄い勢いで働いて下さっているのです。

西高東低の気圧配置、

寒い日はそうなのではないかと思うのですけど、

ですから、当然西から東へ風が流れて下さっても良いように思うのですけど、

どうもそうとは限らないようでございます。


さて、話は変るのですけど、

おっさんが社会に出まして、まず最初に就職しました会社は、

堂島川のほとりにあるビルの中にございました。

昭和59年のことでございます。

丁度その頃、堂島川は改修工事をしておりまして、

ゴキちゃんがあちらこちらに逃げ回っている。

そのような困った環境でございました。


ビルの地下に食堂があるのですけど、

饂飩を食べようとしますと揚げ玉と一緒にゴキちゃんが入っている。

別のお店では、コーヒーに添えられたティースプーンの裏にゴキちゃんの死骸があったり、

それはもう、どこのお店に参りましてもゴキちゃんがうごめいている。

それでおっさんはもう食べることができなくなってしまいまして、

一年半ほどで別の会社に移ったのですけど、


でも、今から思いますと、おっさんがゴキちゃんを招いていたのかもね、

と思うのです。

神様が、おまえの心は憎しみやら不満やらでこうなっているんだぞってね、

教えて下さっていたのではないかと思うのです。


なんかイヤーなお話でごめんちゃい。


ある時に、とある中華屋さんに参りまして、

おっさん、牛肉野菜炒めというのをお願いしました。

で、暫くして出て参りましたのは、普通の野菜炒めでございまして、

肉なんてどこにも入っていなかったのですね。

で、まあ、こんなもんかなとお会計を済ませて出て来たのですけど、

あとでそのお店のウインドウを見ておっさんは気付きましたね。

そこのアルバイトの女性は、牛肉野菜炒めの注文を受けて、

厨房に野菜炒めのオーダーを間違って入れてしまったのです。

で、会計の時にはしっかりと、牛肉野菜炒めの料金を払わせていたのですね。


その頃のおっさんは若かったですからね、

怒りましたね。

そのお店の看板に思いっきり蹴りを入れましたね。(笑)

その時から、おっさんの足の親指が腫れ上がりまして、

医者に参りますと、どうも骨にヒビが入っている。


作用と反作用の法則はものの見事におっさんに反作用を生じさせて下さったわけですね。

足の親指の骨にヒビが入ったのは、それはどう考えてもそのお店の責任じゃあないんです。

そのお店でのトラブルを因として心を患わせてそのお店の看板を蹴ったおっさんの責任なんです。

だってね、骨にヒビが入ったのはお前んとこが牛肉野菜炒めと野菜炒め間違えて損させたからや、

と主張してましても道理は通りませんでしょう。

それではチンピラさんと同じではないですか。

注文を間違えたお店はそれでおっさんからの信用を失った。

実行犯のアルバイトは首を切られてしまうリスクが増えた。

それぞれ間違いなく反作用が生じているのですね。


さて、またある時、おっさんは連れと焼肉屋さんに参りまして、

塩タンやらカルビやら、クッパやらを食しておりました。

おしゃれにウイスキーの水割りなどを戴いておりまして、

ところでね、塩タンには塩タンを入れてレモンを絞る小皿が付き物なのですけど、

その小皿で塩タンにレモンを絞って一切れ、二切れ戴きましたところで、

そのお店のアルバイトは、お下げしますと言ってその小皿を持って行こうとするのです。

いえ、まだ塩タンが網の上で焼かれているのにですよ。

恐らくそこのアルバイトはそれが塩タンを入れる小皿とは知らず、

何かを食した後の空き皿と勘違いしたのでしょうけど、

そのアルバイトは何としたことか、

今度は半分に減ったウイスキーのグラスに、

お注ぎしますといって冷えたお茶を注いで下さろうとするのです。

これはもう木村祐一さんことキム兄と同じように説教したくなりましたね。

おい、キクチ、ってね。


まあ、くだらない話ですけど、おっさん30歳頃の出来事でございました。



価値観の変化



デフレの時代でございます。

物の価値が下がり、

労働力に対する対価が下がり、

物質的な全ての物の価値が下がり、

そのような時代の中で、

知識や智恵、情報、権利と云いますものの価値が認められるようになって参りましたのは、

そんなに遠い昔の話ではないように思います。

そうして、物質的なものとは相反しまして、

そういった目に見えないものの価値は、

どんどん高額で取り引きされるようになって参りましたように感じます。


おっさんのサイトに、キャンデーハウスというどしようもなくくだらないページがございます。

くだらないのですけど、深い意味のありますページでございます。

http://gohu.ohuda.com/candyhouse.htm

なのですけど、

おっさんは何を思ってこのような少女趣味のくだらないページを作ったのか、


先日、ある方からサブリミナルの音楽テープを戴きました。

その方は、おっさんが購入履歴があることを知っていて、

オークションに出品しておりましたものを取り下げておっさんに送って下さったのです。

これは、嬉しいではありませんか。

中古のサブリミナルのミュジックテープはそんなに値が付くものではありません。

でもね、おっさんはこのお心遣いに対しては対価が発生してもいいと思うのです。

発生するべきだと思うのです。


心がお金になる時代。

これからはそういう時代になるのではないかな、

これからは物質的なものではなくてね、

心がお金になる。

で、そういったお心をお持ちの方が生き残って行ける時代になるのではないかな、

おっさんはそう思うのですね。



日々のこと



今日は一仕事終えまして、窓の向こうに広がる大空に目を遣りますと大きな龍神雲。

形も龍そのもので、わあ、龍だ、

って思わず口にしてしまいました。

おっさんは独り言が多いんです。

いえ、でも電車の中で一人でぶつぶつ言っている人とは違いますよ。


夜に暗い場所に参りますと身体の周りが輝いて見える。

オーラなんでしょうね。

行者さんなんかでは、身体の周りが白っぽいもので包まれておりますような人もおりますけど、

そのような霊障のようなものではなくてね、

光っているんです。

眩しいぐらいに光っているんです。


おっさんは、なんでかオーラが少しだけ見えますね。

気もオーラも見えるんです。

目が良いんでしょうね。

他の人は気は多少見えても、オーラは見えないようですね。

見方のコツを知らないのです。きっとね。

オーラ観察同好会でも作るべかな、と思うのですけど、

まあ、恐らく周りからはおっさんのたわごと、と奇異な目で見られてしまうのでしょうね。


過ち多きおっさんにも神仏は光を与えて下さっている。

いえ、皆さんにも同じように与えて下さっているのです。

先生は仰られます。

これが身体の悪いところは黒っぽい光で覆われています。

いえ、おっさんにはそこまでは見えませんけどね、

真っ黒い邪気が身体から立ち昇っていくところは何度も見たことがあるのです。

それは大きな観音様の前で祈る中年男性の身体から、

大量の黒っぽい煙のような気が、

立ち昇っておりました。


これは恐らく、その観音像にお力があるのではなくて、

その人の心が祈りによって神仏に通じたからなのでしょうね。

これが、金くれ、という祈りでしたらそうはならなかったでしょう。

感謝の祈り、懺悔の祈り、周りの人の幸せを願う調和の祈りでありましたからこそ、

邪気が抜けて身体が軽くなるのですね。


きっとその人はこれからの人生が上り調子に良くなって行くだろうなって、

そう思いましたね。