ブログより転載(2010年3月)

 



胸焼けのお話



どうもこのところ下らない記事ばかりが続いておりまして、

恐縮です。

何分、もう大方書き尽くしてしまったようで、

まあ、一人の頭ん中からは、そんなに大量に情報は溢れ出しては来ないのでありまして、

当然のことながら、内容の質も低下するのでございます。

明石家さんまさんなどは、

空っぽの引き出しを引き抜いて頭をどついたら何か出るやろ、と仰られるのですけど、

ほんまに何も出てこないのでございます。


で、まあ、しょーもないことでも書いておこうかなと思うのですけど、


胸焼けが何故生じるのか、

といいますことでもおっさんの拙い憶測のもとに、書かせて戴こうかなと思うのでございます。


人がメタボになる。

いえ、そうはならなくても内臓脂肪や皮下脂肪が付きますね。

これはもうどうしようもない。

人は、基本的に太るものではないかと思うのです。


でね、そうしますと腸の蠕動運動に負担が掛かりますね。

いえ、これは心臓だって負担が掛かるのですけど、

今回は腸ですね。

おまけに肉食、アルコール食でも肝臓に負担が掛かって、

タンニンを作り出す機能も弱まって、

さらに腸の蠕動運動が遅くなる。

便秘も大きな要因ですね。


そうしますと、長時間胃の中に食物が残るのですね。

胃の中に食物が長く居続けますとね、胃散が常に放出されるのです。

それで胃の中の胃散の濃度が高まって、酸が胃の壁やら食道やらを溶かしだしますね。

それで胸焼けも生じるて来るのではないかと思うのです。

まあ、一つのケースですけどね。


胸焼けも、食生活や腸の健康が影響しているのでございますな。


まあ、食物繊維の多い野菜とか、ガジュツとかでおっさんも注意して暮らしているのでございますけど、

最近、おっさんは大草薬品の延寿丸というお薬を飲み始めましてね、

いえ、和漢の便秘薬なんですけど、

夕方に飲みますと翌朝の便の出が良いのなんのってね。

もう本当に大量に、食べた量だけ出てきて下さるのです。(爆)


昼時に汚い話ですんません。

おっさん、何を話しておりますやら。



静香ちゃん発言



先日、突然に静香ちゃんがこんなことを言い出しました。

郵便貯金の限度額を一千万円から二千万円に引き上げるぞ!

ってね。

そうしますと、今度は鳩山さんが、

それは閣内で決まったことやおへん!

なんて言い出した。

何がどうなっているのかおっさんには分からないのですけど、

色んな人のお話を伺っておりますと、

それはやはり閣内で、正式な手続きを踏んで決まったことでありながら、

静香ちゃんがフライングしたことで鳩山さんの気が変わっちゃった。

と、それがどうも本当のところのようでございます。


でもね、おっさんは思うのですね。

郵便貯金の限度額が2千万円に引き上げられて喜ぶのは、

自分達を含めて、恐らく日本国民の一割程度でございましょう。

それに、そんなどうでもいい話を、今せんといかんのかいな。

ってね。

例えば5年後10年後でも全く問題は生じない、

社会がどうなるものでもないほどの些細なことではないかと思うのです。


そのようなことに無駄な時間を割いている余裕はないように思うのですけど、

どうなんでしょ。



おっさんのお仕事



おっさん、小学校一年の頃から凡そ2年間、

習字というものを習いに行っておりまして、

まあ、適当にやっておりましたものですから上達はしなかったのですけど、

押えと跳ねだけは先生に褒められておりましたね。


半紙に墨で書いたひらがなを先生が朱墨で、こう書くんだよ、

と正しく書き込んで下さるのですけど、

押えと跳ねだけは○を付けて下さっておりました。


ですからおっさん、字は下手だけれども、押えと跳ねだけは完璧なんです。


中学の頃でしょうか、

書店にはよく通っておりまして、

そこで目ざとく御護符の新書を見つけて買って参りました。

いえ、その頃おっさんの買う本と言いますと精神世界関係ばかりでしたけど、

そこで初めて御護符というものを知りまして、

こんなの書けたら人生楽勝やんか、と思いつつも、

やけに複雑で、その頃のおっさんには絶対に書けそうにないその文様の数々に憧れを抱きながら、

その御護符の本を秘蔵しておりました。


その本はね、蝋燭の炎が念の力で曲がったとか、少し偏った内容の、

何やらおどろおどろしい写真が掲載されておりますような本でございましたね。


不思議なことにおっさんは今導かれて?か自分の意思でか?

それは定かではありませんけど、御護符を書かせて戴きますようなお仕事をしております。

でもね、御護符も押えと跳ねは大切なんです。

それにおっさんは自らの意思で習字を習いに行ったのではありませんし、

習字を習って、御護符の本を見つけたのですから、

これは紛れもなくおっさんは御護符を書くために生まれて来たとしか考えられないのですね。

(笑うところです。ここで笑わないと・・・)

神様は書け書けと言っているのですから、

もうこれは書くっきゃない。


不思議なんですけど、今から考えますと、本当にそうなんです。


その後、おっさんはそろばんを習ったり剣道を習ったりしましたけど、

まあ、それも後々何の必要があって習ったのかも分かる時が来るのではないかな、

とおっさんはそう思うのですね。



人生という道



多くの人はね、

今一本の太い道を歩んでおります。

ただ、その先は霧か黄砂で道の先が見通せない。

そんな状態ではないかと思います。


ちょっと、道を変えてみようとか、

違った道を探してみようとか考えましても、

何も見えてこない。


それはね、誰だってそうなのですね。

ですからおっさんは本を読むことをお勧めしているのですね。

スキルの備わる本。

それはどんなに薄い本でも良いのです。

何とか入門、とか、

おサルにもできるなんちゃら、とか、

はじめての、ふにゃらら、とか、

そういった本を何でも良いから読んでみるのです。


一日10ページ。

それを一ヶ月、30日続けましたら300ページ読めるじゃあないですか。

300ページと言いますと、ぶっちょい本一冊ですよ。

何もあわてる必要もないのです。


で、その一冊分のスキルが身に備わりましたらね、

今歩いております太い道の横っちょに細い一本の道が現れますでしょう。

人生の選択肢がそれだけ増えたということになりませんか?


で、それを何度か続けるのです。

また、スキル本を読んで、

同じ分野のスキル本を読みましたら、細い道は少し太くなりますでしょうし、

違う分野のスキル本でしたら、また細い道が一本現れます。

そうしますとね、どんどん可能性が広がって来るのです。

今、どの道を進むべきか考えあぐねておりましても、

道が増え、広がるにつれて次第に進む方向もはっきりと認識できて来るようになりますでしょう。


一年、

毎日10ページずつ読み続けて12冊分のスキルが身に備わりましたら、

それはもうその分野のエキスパートですよ。

これとこれをこう組み合わせてこうやったら大儲けできるぞ、

なんてことも勝手に閃いて来るようになるのではないっすか?


まあ、殆どの日本人はストレスやら鬱々でその意欲も生じないかも知れませんけど、

そういった人はまず自らの生き方を省みて、中道に戻すこと、

良質な食事や時間、それと充分な睡眠を取ることでしょうね。



勉強嫌いの勉強法



学校でのテストなんてものはね、

ある程度の前向きな姿勢がありまして、

勉強にある程度の時間を費やしましたら、

ある程度は幾らでも高得点が取れるものでございます。


授業を全く聞かず、それでもテスト前に3時間程度で教科書ガイドを丸暗記する、

そのおっさんの勉強法でも当時はかなりの高得点を取っておりました。

(地理や歴史は暗記する時間がなくて捨てておりました。うわぁ)

ただ、短期記憶ですからテストが終わりますと頭からすっかり記憶が消えてなくなるのですけど。


それでもね、おっさんがおバカな頃にはそれが分からなかった。

毎回、40点取れるか取れないかの境界線をさまよっておりました。

そんな小学生の頃、

一冊の問題集がありましてね、

テスト形式になったその問題集をおっさんは最初の1ページだけ遊び感覚で解いてみたのです。

自分で答え合わせをしまして、丸を付けました。

30点ほどでしたでしょうか。


それから何日か経ちまして、

おっさんはふと思い出してまたその問題集の最初の1ページをやってみたのです。

そうしますとね、嬉しいことに70点台なんです。

そりゃあそうなんです。

自分で答えあわせをしたのですから、答えだってある程度は覚えている。


で、また何日かしまして、またその問題をやってみた。

そうしましたら、今度は90点取れたのですね。

まあ、百点じゃあないところが、おっさんのおバカの所以なのですけど、


でもね、これがあれですよ。

本番のテストで同じ問題がでましたらおっさんは必ず90%は解けるのですね。

それだけ力が付いているのです。


あの頃、おっさんはその問題集の1ページ目しか手を付けませんでしたけどね、

これがもし、全てのページを遣り遂げておりましたら、

どんなにおっさんは賢くなっておりましたことか知れませんね。


ですからね、勉強嫌いの学生さんもそのようなお勉強の方法はどうかな、と思うのです。

絶対に良いと思うのですね。



守護霊はん その2



ただの石ころのようにしか見えないダイヤモンドの鉱石と、

美味しそうな一皿のカレーライス。

守護霊はんは常に私たちにその選択を求めているのですね。

そうして今も常にその二つの選択を私たちの前に提示して下さっているのです。


今、何をするのか。

鉱石を磨くのか、カレーの皿に手を伸ばすのか。

おっさんはいつもカレーの皿に手を伸ばしていたのではないかと思うのです。(笑)

だからね、ずっと上手く行かなかった。


と、いうことはね、

これはもう勇気を持って選択を変えてみるしかないのですね。

カレーばかり食べて今まで駄目だったのだから、

今度は鉱石を選ぶしかない。

一瞬一瞬を、常に今までしたことのない選択をするように変えて行くしかない。


そうして全ての選択が今まで向いていたのとはまた異なる方向で選択できるようになった時、

それは当然人は変わりますでしょうね。

変わらいでかい、って思いますね。


おっさんは思うのです。

もう守護霊はんには甘えても無駄。ってね。

だってね、彼は天使なのですから。

悪魔ではなくて、天使なのです。

楽をしたい、良い思いをしたいと考えるあなたに鞭打つ天使なのです。

拾ったお金を決してあなたに自由にはさせない天使なのです。

使っちゃいなよ、という悪魔のささやきを妨害して押し付けがましく正論を申し述べる、

あの羽をつけた純白の天使なんです。


もうこれは甘えさせて下さるはずがないのですね。


でもね、私たちはさらに守護霊はんに鞭打てるようにならなくてはいけませんね。

守護霊はんに取りましてはそれがどんなに幸せなことか、

まあ、私たちに取りましては困ったことなんですけどね。



今日のテポドン



なんて、タイトルを思いっきりパクってみましたけれども、

今日は、業を解く鍵ということをお話させて戴きたいと思います。

のだのだ。


さて、業とは、どのようなものでありましたでしょうか?

そうですね。憎しみや呪いが連鎖して生じる中に、

業は姿を現すのでしたよね。


カルマ、と言います言葉にはね、

グルグル回るという意味があるそうなのですね。

グルグル回り廻って憎しみが発した者に戻って来る。

そういったものが業の本質であるのですね。


この業を解く鍵は、

ですから相互理解と赦し合うことなんです。

互いに相手の立場に立って客観的に考え、理解して赦し合う。

それしか業を解く方法はないのですね。

まあ、そこに人が業を積み重ね続ける由があるのですけど、


テポドンを発射すればそれが国際感情や経済制裁となって自分たちに返って来る。

経済制裁を強化すれば強化するだけ北朝鮮はテポドンや核の脅威を見せ付けて来る。

北朝鮮の業は、さらに深い深いところにあるのでしょう。


業って、そういうものですよ。

それが今生でどのような現れ方をしたか、を考えますと、

恐いものです。



おっさん的生き方の進め!



いえ、薦め、ではなくて、進め!なんです。

いえ、笑うところです。

ここで笑わないともう笑うところはありませんです。

くにおちゃん!

ゆきおちゃん!!

いえ、ただの勢いです。


この世界、決してしなくてはいけないということはありませんね。

したいことはすれば良いし、したくないことはしなくても良いのです。

前向きに、自分で決めたことならすれば良いし、

押し付けられて嫌々のことなら、別にしなくても構わない。

ただ、それで不利益を蒙ることはありますでしょうけど、

それは反作用が自分に返って来るだけで、

ご自身がしなくても誰かが代わりにして下さる。

まあ、自分で決めたことは意地になっても遣り遂げるべきでしょうけどね。


ヒマラヤほどの消しゴムひとつ作りたいのなら作れば良いのだし、

神様はそれを止めたりはしないのです。

それだけの工場と資産があればのお話ですけど。


好きな生き方をして楽しく生きるのも人生、

人の敷いたレールの上をロボットになって人の言いなりに動き続けるも人生、

ただ、信念と行動が伴っておりませんと、

あなたの中の光の主は、あなたにこうささやき続けますでしょう。

「何だ、そんなものか。」

「おまえ、本当にそれで楽しいのか?」

ってね。


人が命を授けられてこの世界に生まれて来て、

さて、どのように生きるのか、

それは、おっさんはどうでも良いと思っております。

対したことじゃあないのです。

ただね、ただ、

生まれて来たからには、沢山の素晴らしいものに触れ、

沢山の素晴らしい景色を見て、

沢山の素晴らしい音楽を聴いて、

沢山の美味しいものを食べて、

沢山のことを考えて、

沢山の経験を積んで、

魂をぶくぶくぶくぶく太らせて、

おっさんは、それだけで良いと思うのです。


勿論、辛い経験も有意義なものでございましょう。

ただ、度を越えた辛さ、苦しさは反対に作用してしまうことが多いです。

勿論、それも魂を鍛え上げる糧になるのかも知れませんけど、


昔々、おっさんが生まれた頃に、

植木等という芸人さんがいらっしゃいまして、

無責任男、なんて映画に出演されておられました。

映画の中の彼の生き方は魅力ですねぇ。

現代人も考え方という点で見習うべきところがあるのではないかと思いますね。

彼のように、全てのしがらみを捨て去って、ふっ切れて生きてみる。


そんなこともおっさんはお薦めしておきたいと考えるのでございます。



業を生じる境界線



スピリチュアル、というような言葉は余り好きではないのですけど、

スピリチュアル、つまり神霊の法の観点から見まして、

業を生じてしまう絶対にしてはあかんこと、と、

あかんくないことが、存在しております。

さて、その境界線はどこにあるんかいな、というお話でございますが、


私たちは修行のために生まれてきて、自由に生きることが許されているのですね。

それはどのような人生でも、そこに学びがあり、無意味なことなどこれっぽっちもないのですから、

たとえ、ギャンブルに溺れ、酒びたりの堕落した人生でありましても、

それはあかんことではなくて、あかんくないことなのですね。

勿論その反作用はご自身に返って参りますでしょうけど、

それはその人の選んだ人生なのですから、神霊は何も言わない。

おうおう、そうかそうか。まあ楽しんで帰ってこいや、って感じですね。


ところがね、それで意識を混濁させて人に迷惑を掛けようものなら、

自分の範疇を超えて人まで思い通りに利用し、強制し、人の人生を妨害し、自由を奪おうものなら、

それはそれで深い業が生じますね。


いえ、自分自身の内側のことでしたら、構わないのです。

内側に地獄を抱えておりましても良いのです。

勿論、自殺はいけませんけど、それ以外のことなら自由なんです。

そうしてその自由は人に対しても認めて差し上げなくてはなりませんね。

与え合わずとも構わないけれど、奪い合うようでしたらいけませんね。

ですから、話し合いを超える接触は同意がない以上は許されないのです。

話し合い、というコミュニケーションが大切になって来るのですね。


ですから、そうしております以上は、業を抱える心配はないのですね。

業を来世まで引き摺ったりする必要もなくて、

今生のことは今生の反省の中で、神様への懺悔と当人同士の謝罪と赦しの中で収束するものなのです。


それが、欲のために、自己保存や自分本位のために、人に求めてしまう。

互いに存在を認め、自由を認め合うことを忘れて、自分だけではなくて人にまで苦悩を強いてしまう。

そこから、業は現れて来るのですね。

業はね、来世に残した宿題ですね。

今生で全て清算するのか、

来世まで宿題を残して来世はマイナスのところから人生を始めるのか、


人類の業もね、深い深いのです。

ちょっとやそっとでは消せない業があるのだそうです。

そりゃ人きり包丁振り回していたのだから仕方ないのかも知れませんけど、

だから私たちは今苦しんでいる。


でも、もう同じ過ちは繰り返さないことだと思いますね。



ちびくろサンボ



おっさんは、自我が目覚めたのは中学に入った頃でございました。

どうも、それまではおっさんは殆ど意識なく生きておりましたようで、

実家の片隅に見慣れない絵本がある。

それはちびくろサンボという絵本で小学校のハンが押されていて、

背の部分がガムテープで修繕されておりました。

中学の頃でしょうか、その絵本を見つけまして、

何故そのような絵本があるのか、家族に聞き込みを行いました。


それは私が小学校2年の頃のことでございました。

私が学校の図書館から借りて、どうもそのまま返していなかったようなのですね。

勿論、学校側にも私が借りたという記録が残っておりますから、

先生方も早く返しなさいと矢の催促であったようなのですけど、

おっさんは決して返さなかったそうなのです。


まあ、それもそうなのでしょうね。

何しろその頃、おっさんには意識も自他の自覚もなかったのですから。


レインコート事件といいますものもありましたね。

小学校4年の頃でしょうか。

誰かが学校にレインコートを忘れている。

そのレインコートは一年間ずっとそのクラスに存在し続けて、

誰も持ち帰らない。

それで先生が調べてみますと、おっさんの名前が書かれている。

それでもおっさんには記憶がないのですから、知りません。僕のじゃないです。

と理不尽なことを言い続けたそうなのですね。


小学校6年になりまして、模試なんてものも希望者は受けれるようになっておりまして、

何でか分からないのですけど、おっさんも受けておりました。

ところがね、これが成績が悪いの何の。

殆ど最下位ですね。

ところがね、

今のおっさんでしたら、勉強していないのだから成績が悪いのは当たり前だと分かるのですけど、

その当時は、どうして成績が悪いのかも分からない。

学校での成績も殆ど最下位だったのですから、察しが付いても良さそうなものなのですけど、

そこは自我が目覚めていない者の強みで、

試験ができたのかできなかったのかも覚えてないものですから、

ひょっとすると、これは学年でトップかも知んないぞ、なんて考えているのです。(笑)


どうしてそこまで自我が目覚めなかったのか、はここでは書きませんけど、

ですからおっさんの精神年齢はきっと10歳程度は若いのですね。

おっさんの幼少期のお話でございました。



ジイさんなのかジェーソンなのか



小島の海岸に、切断された遺体が放置されていたり、

家族の頭に斧を振り下ろしたり、

背負っているリュックの中に赤ちゃんの腐った遺体が入っていたり、

老人ホームのジイさんが同居者をナイフで刺したり、


このところ、ジェーソンも真っ青な事件が日々発生しているのですね。


おっさんが二十歳くらいの頃は、

凶悪事件なんて3日に一度、

それでも酷い世の中になったものだなあと感じておりました。


それが毎日のように2件、3件と凶悪犯罪が発生するのはどうしたことか、

これはやはり人の心が地獄模様になっているのだと言うことではないかと思います。


十三日の金曜日にジェーソンは現れるのですね。

仮面を被ったジェーソンは、恐ろしかったものでございます。

でもこう毎日のように各地でジェーソンが現れておりますと、

ご本家ジェーソンも影が薄くなったものだと嘆いておりますでしょう。

現実社会のジェーソンの方が恐ろしいのですから。


愛というものの不理解、

心といいますものの不理解、

命といいますものの不理解、

そういったものがありまして、

環境に心を患わせてしまう人の弱さが顔を覗かせる。

その覗かせた顔が仮面を被ったジェーソンなのですね。


恐ろしいことでございます。



ネットでの選挙活動におっさんは反対です!



もう随分と前から、Yahooのサイトでは、

ネットでの選挙活動の解禁を求める署名活動が行われております。


でもね、おっさんは反対ですよ。

候補者は当選しますと高給を得るようになり、また政党助成金やら企業献金やら、利権やらで、

大枚を得るようになるのです。

それなら何もネットを利用して、ネットを汚して選挙活動などしなくても、

大金と、地道な努力で選挙活動を行えば良いのです。

どうせ候補者は間違いなく資産家なのですから。

逆に申しますと資産家か、政党の財力に頼るかしなくては立候補できないのですから。


それに、結果も全く出ていない。

それどころか、どんどん社会は悪くなって来ているのです。


これがね、お金を掛けずに誰でも立候補できる選挙制度、とか、

国会議員の給料が世間一般並みなのでしたら、

ネット解禁もやぶさかではないのですけど、


いえ、これからはネットを利用して国民全員が審議に参加できるようになっても、

全くおかしくはないと思うのです。

何も国会議員を選挙で決める必要もなく、

全国民が立法権を持てば良いのです。

政党なんぞもはやそこには必要ではないのです。

そういう時代になりましたらネット利用も大賛成なのですけど、


一部の人たちが適当に政治の真似事をして大枚を得るためにネットを利用する、なんてことはね、

おっさんは絶対に認めたくはないのでございますよ。



想像力の問題



たとえばね、あなたがカレーを食べたいとします。

その時あなたは、どれだけ具体的にその食べたいカレーを心に思い浮かべることができますでしょうか?

たとえば、それはキーマカレーですか?ドライカレーですか?

トッピングはどうしますか?

生卵を掛けますか?チーズを乗せますか?カツを乗せますか?クリームコロッケを乗せますか?

それともふわっふわのオムレツを乗せますか?

普通は考えるじゃないですか?

よし、今日はチャーハンにカレーをかけてみよう、とかね。

そうしないと、「なんだ、この程度か」って思われちゃう。


一体、自分自身の深層心理にある、一番食べるべきカレーはどんなカレーなんだろうか?

考えませんか?

おっさんは考えますよ。

そうしてそれが前向きな問題意識に繋がっているのだと、

おっさんは思うのですね。


あなたがもし、自分なりの幸せな人生に到達したいと考えるのでしたら、

まず、どんなカレーを食べたいのか、

自由な心で、自由な発想で描き出してみる。

それが大切ではないかなと思うのですね。



貧乏ゆすりに見る道理その2



では、どうして隣の席の人の貧乏ゆすりが気になってしまうのでしょうか?

そこには紛れもなく、隣人愛の欠如が見えて来るのですね。

愛の欠如から、全てのトラブルは生じているのです。

今の時代、社会がこのような状態になってしまっておりますことも、

人類の抱える業が要因として存在し、

深い深い道理から今このような社会になってしまっているのですから、

私たちはそれをよく心して意識的に自分自身の中に愛を育むことが大切でありますように思います。


現代人の考え方を見ておりますとね、

どうも「嫌いだからやっつけたい」「嫌いだから揚げ足を取って批判中傷して失脚させてやりたい」

と、そういう心の動きが見えて参ります。

マスコミにありましても些細なことを取り上げてそれがとんでもない悪事であるように報道する、

視聴者を洗脳しようとする。

そのような在り方が見受けられます。

或いは思想団体や宗教団体の関係者がその中に存在して細工しているのかも知れませんけど、

害があるのでしたら、勿論排除しなくてはいけません。

でも、害がないのなら、放っておけば良いのです。

嫌いだからやっつけたい、と、それは魔物の考え方ではありませんか。

そこには全く愛がないのですね。

どんなに嫌いな存在でも、根底には最低限の愛に裏づけされた優しさ、慈悲がなくてはいけませんね。

だって私たちは神様の子供で、仲間なんですから。


最近は騒音問題も多いですね。

隣人がうるさい。

でもね、隣人の話し声が聞こえるような壁の薄い安価な賃貸住宅では、

ある程度の騒音は我慢しなくてはいけませんね。

互いに騒音を出さないように、また、互いに辛抱し合うようにしなくては、

その意識がなくては決して騒音問題に解決を見ることはありませんでしょう。

勿論、その根底には隣人愛があるべきでありますことは当然のことでありましょう。

それが嫌なら防音設備の完備した高級マンションに引っ越すしかありませんね。


その前提で話し合い、お願いし合い、理解し合い、妥協し合い、譲り合う。

それをせずに怒鳴り合い、憎しみ合い、けなし合い、責任を押し付け合い、

それでは絶対にトラブルは解決しませんね。

それではトラブルメーカーですからね、

私たちは心しなくてはいけませんね。


責任の所在がどうにも分からないようでしたら、事象を分解して考えてみる。

欠けている要因を探し出す。

その手法が役に立って下さいますでしょう。

そう思います。



貧乏ゆすりに見る道理



おっさんは、若い頃、貧乏ゆすりの大家でございました。

貧乏ゆすりに関しては、誰にも負けない。(笑)

ところがおっさんも次第に気持ちに余裕が生じて参りまして、

最近は全くそのような現象が生じないのですね。


貧乏ゆすりがどのような原因で生じるのかは分かりません。

でも、環境に対応するためのものであったり、

精神を目の前の事象に対応させるために自然に生じる現象でありますことは、

察しが付きます。

また、全ての現象は、原因があって必然的に生じるものですから、

貧乏ゆすりを頭ごなしに悪癖と決め付けることは正しいことであるとは言えないのではないかと、

おっさんは思うのですね。


ところで先日、ネット上にこのような記事が掲載されておりました。

「職場の隣の席の人の貧乏ゆすりが気になってイライラするのですが、

注意して止めさせる良い方法はないでしょうか?」

これは一見、正しい考え方でありますように社会認識されているのかも知れません。

でもね、事象を分解して考えてみますとしますと、

これがチンピラさんと同じ部類の「因縁を付けている」のとなんら変わりのない考え方であることが分かるのです。


事象1.職場の隣の席の人が貧乏ゆすりをする。

事象2.イライラする。

事象3.注意して止めさせたい。


事象は一見これだけのように見受けられますけどね、

実は、事象1と事象2の間に、

自分自身の精神が過敏である。という事象が抜けてしまっているのですね。

その人の精神が過敏であるから、イライラするのです。

チンピラさんもね、肩がぶつかったから骨が折れたのではなくて、

チンピラさんに目的があって故意に肩をぶつけたのであり、

チンピラさんが過剰反応する必要があって、骨が折れたと主張しているのですね。


ですからね、やはり、

「職場の隣の席の人の貧乏ゆすりが気になってイライラするのですが、

注意して止めさせる良い方法はないでしょうか?」

は、チンピラさんと同じく、因縁を付けているのです。

それがもし、正しいとされるのでしたら、

「職場の隣の人のブサイクが気になっていらいらするのですが、

注意して整形させる良い方法はないでしょうか?」

という理論も正しいものになってしまいますでしょう。


ですからね、決して間違えてはいけないことは、

ご自身の精神や心の動きは全てご自身の中に責任があるのです。

それを周りの人の責任にして、行動や想念を規制したり強制したりすることは、

決して正しいことではないのですね。

まあ、お願い程度でしたら構わないとは思いますね。


「あの、私は精神が過敏であなたの貧乏ゆすりが気になって仕方がないのですけど、

私の精神の不調和を棚に上げてあなたにこんなことをお願いすることは

筋違いであることは分かっているのですけど、

もしできるようでしたら可能な範囲で貧乏ゆすりをしないようにして下されば嬉しいです。」

って感じですね。



魂の模型その3



人が不満や不調和な想念で光の器を空っぽにしてその魂が地獄に落ちてしまいますと、

いけませんね。

水晶球の表面、つまりこれが表面意識なのですけど、

この表面意識が想念のスモッグで曇るだけではなくて、そこに好ましくない霊が居座る、

なんてこともありますね。

そうしますと、その人は事件を起こしたりしますね。

しかも周りの環境がどんどん不調和になって来るのです。


ですから私たちは心を愛と感謝で心に光を溢れさせていなくてはいけないのですね。

反省して、水晶球の表面も磨いて、透明にして、

光が周りに溢れ出るようでなくてはいけないのです。

そうしますと四次元的な心の高さもどんどん高くなって、

そこには守護霊さんや天使さんが表面意識に居座って下さるようにもなりますね。


でも、水晶球の表面の表面意識が汚れたままでしたら、

高い次元の意識も脳には伝わりませんでしょうし、

人生を輝かせることもできませんね。


そうして今生を力一杯に正しく生き抜きました後には、

私たちは光のパイプから溢れ出す光の中へ戻って行くのですね。

ところがこれが魂が大地の下に落ちてしまっておりますと、

光のパイプから光は出て来ないのですね。


これはね、

「お客様は光の届かない場所におられるか、光のパイプが開いていません。」

的な状態なのですね。



魂の模型その2



さて、魂の入った水晶球は、転生の際に幽体に乗り込むのですけど、

生き物は全て肉体は別に幽体という幽界を自由に移動できる身体を持っておりますね。

この世界は3次元ですけど、幽界は4次元ですね。

その4次元の幽界を自由に移動できる幽体に魂の水晶球は乗り込むのですね。

この身体と幽体と水晶球は生きております限りは紐のようなもので繋がっておりますね。


幽体離脱なんていう現象がございます。

肉体から幽体が離脱して幽界をさ迷うのですね。

でもこれは誰もが寝ております間に幽体は肉体を離れて幽界をさ迷っているのですね。

夢を見ますでしょう?

人は時には夢の中で想像もしないような世界を垣間見ることがございます。

これはね、幽界の色んな場所を幽体が訪れているからなんです。


幽界は4次元ですからね、

この3次元の世界とはまた異なる、エネルギーの高さ、という座標がありますね。

エネルギーが高い魂は4次元座標の高い場所に居て、

エネルギーが低い魂は4次元座標の低い場所に居るのです。

エネルギーの高低は、つまり光の器の中に溜め込まれた光の量ですね。


人によって、魂によってエネルギーの高さが異なる。

でもね、高いビルも低いビルも真上から見ますと高さが分からなくなるのと同じように、

この3次元世界的な視野では、高さは分かりませんね。


幽界にも大地がありますよ。

地上は幽霊さん方のいらっしゃる世界ですね。

そして大地の下にあるのが地獄ですね。

光に飢えた魂が街や巣窟など、不調和な苦しみの世界を作って存在しておりますね。


ですからね、私たちが光を失ってしまいますと、魂の4次元的な高さがどんどん下がって来る。

そうしてそれが大地や、大地の下まで下がってしまいますと大変ですね。

幽霊や地獄霊が近づいて来ますから、すぐに不調和な現象が生じるようになりますね。

これがつまり、心が地獄に通じてしまう、という現象なんです。


大地は薄暗く、地下には光がない。

ですから地獄霊は常に光に飢えていて、光があれば吸い取ろうとしますね。

これが所謂、負のエネルギーなのですけど、

光を吸い取られますと人は誰でも心身に不調和を来たしますね。


それから、心が調和して参りますと、

今度は睡眠中に、幽体ではなくて、霊体、魂の水晶球が離脱することがありますね。

そうしてさらに高い次元を訪れるのですね。

感動するような夢、

鮮やかな色の付いた明るい夢がそうですね。

まあ、魂が記憶しておりますだけで脳には全くその記憶が残りませんから、

目覚めてしまいますと思い出せないのですけど、

極稀に、目覚める瞬間だけ覚えているようなこともありますでしょう。



魂の模型



さて、突然ですけど、魂といいますものの模型を考えてみましょう。

魂の本体は光を溜め込む器ですね。

そこに光を取り入れるパイプが繋がっている。

それから、過去世の記録が詰め込まれた大量のキングファイル。

このセットが一つの魂ですね。


この光を溜め込む器は、丼ばち程度の人もおり、

またお釈迦様などは宇宙よりも大きな器を持っているのですね。

転生の度にその器は少しずつ大きくなり、苦難を乗り越えるたびにまた大きくなり、

器の大きな人は魂に粘りがあって多少のことではへこたれない。


この魂が、転生の際にはキングファイルを取り上げられて水晶球のようなものの中に入るのですね。

その時点でも器の大きい赤ちゃんもおり、器の小さい赤ちゃんもおりますね。

そうしてまた一からキングファイルに書き込みを始めるのですね。

正しい行いは金の文字で、

間違った行いは赤い文字で、

そうやって日々の行動や想念を記録しながら成長して行くわけですね。

それから、この水晶球の表面は非常に曇り易くなっておりましてね、

怒りや恨み、妬みなどの不満がスモッグとなって水晶球の表面を曇らせてしまう。

それで器の中の光が外に出難くなって、病気とか様々な不調和を生じさせるのですね。


この水晶球の曇りを取り除く方法が、反省ですね。

反省して想念を正しますと水晶球は綺麗に磨かれまして、

さらにキングファイルに記録された赤文字の該当個所が金色に塗り替えられるのですね。


光のパイプを開いて光を取り込む方法は、愛と感謝の明るい想念ですね。

愛がなければ、感謝がなければ人は誰でも器の中が空っぽになってしまいますね。

そうしますと、人生が上手く行かない。

捻くれてしまったり、悪いことを考えるようになったりしますね。


この模型は覚えておかれまして損はないと思いますよ。

色々と説明もし易いですしね。



おっさん、遊んでおります



昨夜から、古いパソコンを引っ張り出して参りまして、

その昔流行りました「A列車で行こう」なんてゲームをしております。

線路を敷いて列車を走らせると街ができるのです。

ぽんぽんとビルがひとつずつ作られて参ります様子はね、

眺めておりまして楽しいものでございます。

久しぶりにやってみまして気付いたのですけど、

12月25日にはサンタさんがトナカイのソリに乗ってお空を横切るのですよ。


でも、おっさん、実のところ遊んでおります時間は余りないのです。

人がどのように生きるべきなのかをまとめてサイトに掲載しようと思うのです。

それと、パソコンのお仕事の方にも精を出さなくてはいけないのですね。

それにお昼だって戴かなくてはいけませんね。

まあ、時間はたっぷりありますからね、

焦らないでひとつずつ片付けて行こうかと思うのです。



タートルズ現る



仲春の春ぅー

ってことで、おっさんも散髪致しまして、

髪の毛を、鋏でちょきちょき。

いえ、そりゃもう自分で切るのですよ。

もうずっとそうなんです。

サラリーマンの頃もゴミ箱に捨てられたおっさんの髪の毛を見て皆が驚いておりましたよ。

で、少し調子付いてしまいまして、髪の毛全部ちょきちょきしてしまいました。


春風の心地よさ。


で、鏡を見てみましたら、

おっさんのタートルズにそっくりなことそっくりなこと。


頭は昔から小さかったのです。

中学の頃も皆が13号とか14号の帽子を被っている中、

おっさん一人9号の帽子がぶかぶかでしたから。

まあ、それでおっさんはこんなに アホ なのかも知れませんけど、


体がでかくて(メタボで)頭が小さい。

これはもう、カメでおますな。

おっさんはドジでのろまなカメなんです。

タートルズなんですな。

これで甲羅でも背負えば間違いなくタートルズで主役が張れるのです。


スパイダーマンやバットマンよろしく、タートルマンとして世界でも救うかな。(爆)



大切なこと



今、人類に何が欠けているのか、

って考えますと、それは問題意識ではないかな、

とおっさんは思うのですね。


人が今、何のために生きていて活動しているのか、

何のために地を耕し、子孫を増やし、額に汗して働き、日々を送っているのか、

まずそれを知って、

常に想念行為がその目的に沿っているかを問題意識を持って内省して修正する。

それがないから人類には次の一歩が見えて来ないのですね。


少なくとも人類が神霊や霊界と繋がっておりました頃は、

当然のように万人がそのような意識を持っておりましたでしょう。


おっさんは数日前にこのような夢を見ました。

米を食べて放射能に被爆するという夢です。

どこか大きな研究所では特殊な方法で放射能に汚染された米を洗う作業が行われておりました。

恐ろしいものです。

いえ、世界レベルでなくても、


日本がどうして今のような犯罪大国になってしまったのか、

政治だけの責任にすることは正しいことではないように思いますね。

個々人に問題意識があり、調和された想念行為がありましたら、

その輪は拡がって、環境は必ず良くなって参りますでしょう。


いえ、おっさんだって抹香臭いことは余り言いたくはないのですけどね、

環境破壊が進み、

どんどん増殖し続ける民族もあり、

そこに核兵器などで大地が汚染されるような状況にでもなりましたら、

私たちの子孫はどんなに苦悩を強いられることになりますでしょうか。

それに私たち自身だって転生が制限されるかもしれませんね。


日本は裕福だから、とお考えの方もいらっしゃるかも知れません。

でも、本当に日本は裕福なのでしょうか?

それでは余りにも日本の実態を知らなさ過ぎると思いますね。


日本の失業率(完全失業率ではなくて)が一体どの程度あって、

生活保護の対象者がどの程度居り、

ホームレスが何人、年間の自殺者や自殺志願者が何人居て、

実際、どの程度の人が貧困に喘いでいるか、

日本は世界の何番目に裕福な国なのか、

その現実が見えましたら、日本は裕福な国などとは云っていられないと思いますね。


そうして今は貧困がほんの何割かでありましても、

数十年先には貧困は全国民に及びますでしょうね。


それを食い止める方法はただひとつ、

私たちが問題意識を持って正しい明日に踏み出すことしかないように思います。

鳩山さんや小沢さんの意識レベルではいかんのですよ。

増してや自民党の意識レベルではどうしようもないのですよ。


本当に、危機的状況でありますように感じますね。



おっさんと守護霊はん



おっさんと、おっさんの守護霊はんとの関係は、微妙でございます。

喩えて言いますなら、おっさんが仮免中のドライバーで、守護霊はんが教員ですな。

極めてできの悪い、性格の悪い、神理といったものにはとんと無縁の守護霊はんでおます。

いえ、そう感じているだけで、実は極めて優秀な守護霊はんなのかもしれないのですけど、


例えばね、もうガソリンがない。

次のスタンドでは必ず給油しなくてはいけないな、と考えておりますしても、

守護霊はんは給油させて下さらない。

強制的にアクセルを踏むのですな。


広くて真っ直ぐな道がずっと続いておりますのに、

守護霊はんは突然、強制的にハンドルをきって細い山道に登らせたりするわけです。


おっさんの思惑と守護霊はんの思惑がことごとく異なるのですな。

そうして最終的におっさんが歩む人生は、おっさんが望んだものではなくて、

守護霊はんが望む人生を選んでいるのです。


これはもうおっさんの人生なのか、守護霊はんの人生なのか、分からない。


例えば、ご縁がおますな。

時折に人生相談などでメールを下さる方がおられます。

これはね、私が見ております限り、百パーセント守護霊様が手配して下さったご縁なんです。

その方にとって必要なご縁であったり、

おっさんにとって必要なご縁であったり、

だから、おっさんが手を抜いてメールの返事をしようものなら、

その日の夜、守護霊はんが夢に現れておっさんをコケにするのですな。

んでもって、守護霊はんがその尻ぬぐいをするために飛んで行って下さるのですけど、


でもね、おっさんは思うのですね。

これみんな、守護霊はん方が霊界からサポートとしてするべきお仕事なのではおまへんか?

ってね。

人の心の弱さもあるかも知れないのですけど、

守護霊はん方の、霊界のサポートがもっと正しく的確でありましたら、

少なくとも今のような厳しい社会にはなっていなかったはずなのです。

ですからね、おっさんは守護霊はんがおっさんに対してするのと同じように、

おっさんも守護霊はんをコケにするのですな。


お互いにね、未熟なんですから。

守護霊はんといいましても未熟なのですから、

コケにし合っても良いかなと、おっさんは思うのです。

そうして、少しくらいはおっさんの希望や意見が尊重されても良いのではないかな、

と、おっさんは思うのです。

だってね、今生はおっさんの人生なのですから。



弥生でおます



弥生、でおます。

いえ、「やおい」ではおへん。


公園のこぶしも一月に花を開きかけたと思いきや、

花は開かずそのまま枯れて、

ようやく今、早いこぶしが咲き始めておりますような季節でございます。

これがもうじき桜に変わり、

また桜を題材にした歌謡曲などのひとつやふたつが世に流行り、

それがまたすぐに桜吹雪に変わって、

この金さんの桜吹雪、見事散らせるものなら散らしてみやがれ、

でお馴染みの散らない桜吹雪とは打って変わって見事に散り行く桜吹雪、

来月頃にはその中をまっさらなランドセルを背負った小学生が歩いて行くのですな。


風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせむ


と、浅野家の殿様もこの桜吹雪の中で切腹したわけでございますが、

これが討ち入りの時には雪が吹雪いているのでございまして、


毎年、毎年、同じ春模様でございますな。


で、おっさんは考えるのです。

これはどこかで24時間歩行訓練でもするかなってね。

一時間に3キロ歩いて、休憩を取りながら一日歩き続ければ、

60キロは歩けるでないかい。

ってね。

まあ、60キロ歩き続けましても府内から抜け出すことは難しいのですけど、

府内を抜け出しても少し隣県に入る程度なのですけど、


その昔、おっさんが繋ぎの仕事で保険の営業マンをしておりました頃は、

自転車で一日70キロ走ったこともおますけど、

あれはしんどかったですねぇ。

もう本当にクタクタになりましたね。


でもまあ、気が向きましたらそのような余興でもやってみようかなと思うのです。

でもって春を漫喫、もとい、満喫できたらええなあと思うのですね。

どなたか、おっさんと一緒に歩くべ?