ブログより転載(2010年6月)

 



食と運気の話



昨夜はスーパーで握り寿司八巻358円で買って参りましたおっさんです。
久しぶりのお米は些か腹に堪えますね。
寿司八巻と云いましてもご飯茶碗二杯分くらいの量がありますから。
これがおっさんが子供の頃には寿司八巻でもお腹が空いて空いて仕方がなかったものでございます。
空腹で涙がちょちょ切れたこともありますね。
成長期にはその程度では足らないのでしょう。そうしてその栄養不足が身体の成長を妨げ、心身の安定を欠き虚弱体質にもなってしまう。
それはおっさんが経験してきたことですからよく分かるのです。

その反動で、おっさんは社会人になりましてからやたらと食べるようになりましたね。
好きなだけ食べる。腹一杯食べる。満足するまで食べる。
それでもまだ、上司の人に食え食えと言われて、これでもか、これでもかと食べておりました結果、
肩幅が5センチほど大きくなりました。
縦には伸びないけれど、横には伸びるのですね。20歳代でもまだまだ骨は伸びるのです。
それまでは、「ちっちゃいちっちゃい」と云われておりましたけど、もうそんなことはないのですね。
ただ、頭のサイズはちっちゃいですけどね。大きくなりませんけど。

で、そんなことをしておりますと、50キロの体重が57キロ、64キロと増えに増えまして、今はなんと70キロ前後。
それでもね、流行病にも罹らなくなりましたし、虚弱体質だってどこか遠くのお空の向こうへ、
とんでっちゃいましたね。
その分、考え方も豪快?になりましたし、でかい声も出るようになりました。力量も増えたと思います。

でもね、やはり大食漢は運気を封じてしまうのですね。
それでおっさんは食べない訓練もしたし、(まあ、食べれなかったという見方もありますけど、)
それで54キロ程度まで体重を落としたこともあるのです。
今はまた70キロ前後ですけどね、食べないときは食べないし、食べるときは食べるのです。
一日食べなくてもちっとも負担にはならないですし、それでそうということもないのです。

そうなのですよ。食事の量は運気と密接に関係しているのですね。
空腹状態が続きますとどんどん運気が良くなって、
満腹状態が続きましたらどんどん運気が悪くなる。
何度も主張しているのですけど、余り誰も真に受けて下さらないのです。
でもね、本当にそうなのですよ。
だからと言いまして、無理をして食べない状態が1年も続きますと殆どの人は命を落としてしまうと思いますけど、
少なめに食べる。これは食の犠牲を無駄にすることもありませんから功徳にもなるのですね。

一汁一菜、まあこれは極端な話ですけどね、
中道を逸れない程度に空腹を楽しむ時間も設けてみる。
そんなことも良いのではないかなとおっさんは思いますね。



命懸けでやってみよ、力の限り生きてみよ



私は、神霊や守護霊様方のカウンセリングを受けていたのだと、最近になってようやく理解しました。祝詞や、御護符のお力添えもあったのでしょう。そうして、神霊や守護霊様に導いて戴けますようにある程度のところまで浄化して戴き、カウンセリングを受けつつ、導かれつつ、10年。
カウンセリングはとても厳しいものであったと感じております。命懸けでやってみなさい。どうだ、気持ちいいだろう?、爽快だろう?、楽しいだろう?、魂が悦びに溢れているだろう?、そのように人は生きなくてはいけないのだぞ、ってね、その繰り返しなのです。それは泣き言ひとつ許されないカウンセリングでありましたように思います。

最近になりまして、ようやく命懸けでやってみるということが次第にできるようになって来たと感じております。力の限り生きてみる、それは駄目だったら仕方ないけれど、力の限り生きなくて何の人生ぞって思いが自然と生じて来るのですね。
この10年はカウンセリングの10年、そうしてこれからは次第にその想念が形を現して来るのだろうな、変化して来るのだろうなと思うのです。

己と向き合う、それは取りも直さず神霊や守護霊様と向き合うということなのですね。そうして、自分自身に厳しく向き合っておりましたら、必ず神霊や守護霊様方が手を貸して下さる、カウンセリングして下さる。悪いところを教えて下さり、課題を与えて下さる。それはどのような形で現れるかは人それぞれでしょうけど、その道は真っ直ぐに続いており、その先にその人の本当の幸せな人生があるのではないかと思います。
己と向き合わずして何も形を成さず、何も変化しないのです。それは同じものを同じ次元で違う見方をしているに過ぎないのですね。そうして、その人が変われば環境も変わりますでしょう。人間関係だって変わって参ります。人生だって全く違うものになるはずなのです。

運命や宿命などと申します。宿命はどうしても変えられない前世で計画して来たことですね。この世に生きて何を成すのか、何歳まで頑張って帰るのか、運命はご自身の生き方で変えることのできる部分ですね。どのような職に就き、誰と結婚してどのような家庭を築きくのか、そういったところでしょう。そして、仕事への向き合い方次第、家庭への向き合い方次第で自ずと幸せになれるかそうではないかも決まって参ります。たとえ50歳までしか生きられない人生でありましても、幸せな人生だったと感じて帰りたいではありませんか。

客観的に厳しく己と向き合ってみる。どんなに苦しい時でも、悩んでおります時でも、だからこそ己と向き合い神霊や守護霊様方のカウンセリングを受けてみる。そうしますと、どんなに時間が掛かりましても必ず道が開けて参ります。神霊や守護霊様方に頼るのではないのです。いえ、神霊を親と思い甘えることは構わないのです。ただ、神霊は私たちの魂の成長のために必要以上の蜜は与えては下さいませんでしょう。それでも、必ずご自身の力で道を切り拓けるところまで導いて下さるのですね。



伝えたいこと



人間的な魅力って何だろうか。私たちは考えます。楽しく、活き活きと人生を楽しんでいる。個性が光り輝いている。前向きに自分からどんどん色んなことに目を向け、経験し、魂を肥えさせている人間。それが本当の人間的な魅力ではないでしょうか。そして、そこから生まれて来る色んなアイデア、知恵、真摯で情熱的な姿勢、愛、魂の声、叫び声、もっと光をと両手を広げてこの大宇宙さえも抱え込もうとする、そんな人間に私たちは憧れます。いえ、誰だって憧れますでしょう。
経営者っておりますね。例えば大企業の社長。立派な椅子に踏ん反り返って自らの狭い視野、頑なな考え方に固執し、決して他の考え方を省みようともしない、傲慢で地位にしがみ付いている、そんな大企業の社長なんかよりも、下っ端の平社員でも本当の魅力のある人間が私たちは好きなんです。

年齢と言いますものもございます。「亀の甲より年の功」なんて言いますね。でもね、何歳になっても子供のような人もおりますし、おぎゃーと産まれた時から立派な大人のような考え方をなされます方もおられますね。何の経験も積まずにひとつの会社にしがみ付いて、毎月安定した給料を戴いて生きて来ましたって人ですね。寄生っていうのでしょうね。過保護だと思います。充分な給与を戴いているにも拘らず少ないってんで労働組合の力を借りて春闘とかで闘うのですね。でもそれでは感謝と言いますものはどこに行ってしまったのでしょうか。そうしてそのようにマイナス思考で生きております間に、人生を前向きに楽しく生きている連中に追い抜かれているんです。
勿論、経営者にも従業員に対する感謝と真摯な姿勢は必要でございます。従業員一人一人、どうやって育てて差し上げるか、一人前の立派な人間に育てて差し上げるか、それがね、人材育成であり、会社を大きくするための必須課題だと思いますよ。
与えられた環境に満足して、感謝して、そうして報恩の行為。その報恩の気持ちが経営者にも従業員にもありましたら、その気持ちはプラスの力に変わりますでしょう。会社を大きくして給料を増やす力ですね。ところがね、不満を持って憎しみ合い、愚痴を言い合っておりましたら、それはマイナスの力に転じてしまいますよ。会社が危うくなって従業員の給料だってどんどん下がって行くようになるんです。それはね、考えてみられましたらお分かりになられると思います。

一番正しい道はね、一つしかないのですよ。中道と言う道ですね。互いに良い方向に関わり合い調和を生み出す道です。そのために今私たちが何をなすべきか。それは偏に真摯に、誠実に、前向きに自分自身の生き方と対峙し、お天道様に恥じないように真っ直ぐに生きることなんです。真心で生きることなんです。それが己を変え、人を変え、環境を変え、さらには社会を変える起爆剤になるのです。慈愛を以て人に尽し、社会に尽くすことなんです。そうやって力一杯に遣り甲斐を持って生きておりましたら、ご自身だって楽しいじゃありませんか。
今の社会はね、残念ながら怒りを感じます。沢山の憎しみや嫌だ嫌だ、苦しい苦しいという念を感じます。それが人や社会の病となって現象化している。それは事実でありますように思いますよ。社会に関わる人が命を恐れ、欲に溺れ、自己中心的に生きて来た結果なんです。それをね、私たちはまず訂正しなくてはいけない。

例えばね、愛をお持ちですか?お父さん方、お母さん方、経営者の方々、わが子や従業員を育てるために我が身を省みず尽す愛はお持ちですか?大自然には親が子供を護るために犠牲になるようなシーンが沢山あります。大自然は聡いですよ。そうやって種を残し、繁栄させるのですね。そこには虐待もありませんし、親が子に執着することもありません。子供だってそう易々と親に依存させては貰えないのです。
ところが人間界はどうでしょうか。マザコン、ムスコン、虐待、すねかじり。また会社の中にありましては、窓際族、左遷、リストラ、派遣切り、ハラスメント。互いに利用し合い、依存し合い、執着し合い、虐め合い、憎しみ合い、そのドロドロとしたヘドロのような真っ黒な想念の塊は会社を覆い、社会を覆い、病や貧困を生じさせ、さらには多くの凶悪事件を生じさせているではありませんか。それは愛なき故、欲に塗れ歪んだ愛故の結果なんです。
求めることが愛ではないのですよ。与えること、その人を本当に好きになって、もっともっと好きになろうと努力して、その人が魂を成長させるために本当に必要なものを与えて差し上げようとする心の動きが愛なんですよ。それは自分自身にも相手にもある意味厳しいものでありますでしょう。ですから慈悲が必要になって来るのです。愛だけではいけないし、慈悲だけでもいけないのです。愛と慈悲が釣り合った中道の心、それは理性と知性の釣り合いと言い換えることもできますでしょう。

何が正しくて何が間違っているのか、多くの人が気付けずにいるのです。この混沌とした社会の中で、正しい方向さえ見出せずにいるのですね。それは正しい方向を知らないことと、今の状態に余り疑問を持たない、問題意識を持たないからなんです。でもね、本当に正しい答えは心の中にあるはずなんです。私たちには誰にでも善の意識がありますからね。そうしてそれは神霊の意識と繋がっているとも言えるのです。自らの心と向き合い、内省して執着を捨て、依存を捨て、その下から現れて来る命の恐怖や欲、自己中心的な考え方を捨て去ったところから本当の答えが見えて来るはずなのです。



そうなんどす



人間ちゅうのは、あかんたれどす。

おっさんかて、あかんたれどす。

いえ、あかんのは分かっとります。

だから修行しとるんどす。

今しかないんどす。

死んでしもたら元も子もないんどす。

人間、誰が悪いとか、

そんなことないんどす。

みんな、死んでから分かるんどす。

お互い様なんどす。

恨んだら地獄に落ちるだけどす。

縁は己を磨くためにあるんどす。

過去世あっての今生どす。

腐れ縁を乗り越えられたら素晴らしい功徳どす。

だから、今日を限りの命と思い、

すっぽんぽんで遣り直すんどす。

この人、この時、この出逢い、

大切にすることどす。



プリンターの苦難



おっさんが今のプリンターを購入しましたのは凡そ年ほど前のことでございます。

スキャナーにもなって1万5千円ですから、

プリンターも安くなったものだなぁと思いながら買って来たのです。

二昔前のワープロなんて15万円もしましたものね。

それを考えますと本当に安くなりました。


ところがですね、

そのプリンターが2年程度でエラーコードを発するではありませんか。

調べてみますと、どうも廃インク吸収パッドが一杯になっている、ということのようでございまして、

どうもこれは個人でどうこうできるものではなくて、そのメーカーのエンジニアに任せるしかない、

のだそうでございます。

その費用が1万円弱。


そりゃあ誰だって新しいプリンター買いますよね。

幾らモッタイナイ主義のおっさんでも、そこは修理する方がモッタイナイのですから。


でもね、

2年で使えなくなる1万5千円のプリンターと、

20年以上使えて15万円のワープロでは、

費用対効果は全く違わないのですね。

技術は進歩しておりますようで、全然進歩してはいないのです。


ウィンドウズだってバージョンが上がる度に使用するリソースが何倍にも増えるのです。

パソコンのリソースが幾ら増えたからと云いましても、新しいバージョンのウインドウズしかちゃんと動かず、

で、新しいバージョンのウインドウズを入れましたら全然リソースが増えた気がしないのです。


これって、どうなんでしょう。

科学技術の進歩に伴って便利な暮らしができるかと云いましたら、そうじゃあない。

廃インク吸収パッドだって個人で取りかえれるような仕組みを考えるだけで、

プリンターはずっと長持ちするはずなのです。

それが考え方一つでプリンターを消耗品にしてしまい、

緊急時のことを考えて予備のプリンターまで準備しておかなくてはいけない。


メーカーさんももう少し考えたらどないなん、と感じるのは、

おっさんだけではないと思うのですね。



Androidの苦難



おっさんはAndroidで動くあるプログラムを作ったのです。

それは、ペンギンの親子の写真8枚ほどがゆっくりとぱらぱら漫画のように動いて、

まあ、物語っちゃあ物語っぽく仕上げただけのものなんですけど、

そのプログラムを、はて、どうしようか、

と悩んでおります。

GoogleさんのAndroidMarketというところに登録しようかと考えたのですけど、

そうしますと、25$をクレジットカードで支払わなくてはいけないのですね。

でもね、でも、

おっさんはクレジットカードなんてお洒落なものは持っておらないのですよ。

いつもニコニコ現金払いですからね。


どなたか欲しい人いらっしゃいますか?

266Kb程度のものですけど、

どうにかして動かしてみて下さる、なんて人がいらっしゃいましたら、

aar96280@par.odn.ne.jp

までメール下さいましたら添付して送らせて戴きますけど、

ただ、たいした物ではないです。

くだらないものです。

くだらなくて、どうしようもないものです。

ほんまにもう、どうしようもない、ものです。

それでも宜しければ、、、



王になる人とそうではない人



人の居場所と言いますものは、最初っから決まっているのではないかな、

と、おっさんは思うよ。

だって、その前提あってこその個性であり、趣味や特技の傾向であり、

生まれながらに神霊から与えられた能力なのですから。


王になる人、

例えば織田信長や豊臣秀吉、徳川家康、

時を読むのが上手かったのでしょうね。

或いは導かれることが上手だったのかも知れない。

それは、状況に惑わされない強い心があったからこそなんですね。


これが状況に惑わされておりましたら、時を急いでしまう。

焦ってしまう。

それで裏工作などをして、必ず失敗しますね。

命を失ってしまうようなことにもなるのです。


ですから、自分を確りと持って、よろめかず、揺らがず、状況に惑わされず、

慌てず、急がず、

その強い心、信念と平素からの弛まぬ努力が大切なのですね。

おっさんもそのような強い心を持ちたいと日々願っておりますけど、


王になれないものもね、最初っからいるべき場所は決まっているのですね。

そうして時満ちれば必ずその場所に導かれるのですね。

王という役割、

王ではなくそれぞれに果たすべき役割、

天命。

天命でない者が王になろうとする。

天命であるものが王を譲ろうとする。

これも間違いなくそうはならないし、身を滅ぼしてしまうことになるのでしょうね。


ですから、身の程を知って、

威張り腐らず、卑下し過ぎず、

淡々と自らの天命に向かって、日々の積み重ねを続けることなのでしょうね。


それから、美しさ。

これは例えば日々の心掛けと努力で妖精が舞い降りて下さるのでしょうね。

決して美しさはその人のものではなくて、

時が経ちましたら、

心掛けと努力を怠りましたら、妖精は飛んで行ってしまうのです。


王になるにも美しさを得るにも、

転生の約束と、神霊の思惑があって、

その人がその人の役割を全うするために必要だからこそ、

時が満ちれば与えられるもの、

何らかの力の作用が及ぶものだとね、

おっさんは、思うよ。


ただ、人は基本的に誰だって美しいはずなのです。

外も内もですね。

だって私達は誰でも、神霊の懐から生まれて来ているのですからね。



合掌



この世界に生まれて来られました全ての人の中に、

例えば、学ぶことが嫌い、なんて人がいらっしゃるはずがないのです。

身体を動かすことが嫌い、

不良になって楽しい、

社会の役に立ちたくない、

人と争いたい、

力一杯生きることが嫌、

そのような人がいらっしゃるはずがないのですね。


それは私たちは万人がそのように心して生まれてきたのですから、

皆が仲良く楽しく和気合い合いと、

力一杯に学び、身体を動かして社会の役に立ちたい。

そう心して生まれて来たのですから、

間違いなくそう云えるのですね。


ところがね、生まれて来られましてからの、

育った環境とか、教育や思想、考え方などによりまして間違った判断を備えてしまう。

埋込まれてしまう、洗脳されてしまう。

それは何と勿体無いことかと思います。


その結果、神霊の存在にも気付けず、

日々苦しい苦しいと喘ぎながら生きなくてはならなくなってしまっているのですね。


真っ直ぐ前を向いて、心を正して前向きに生きる。

心を込めて祝詞を読み上げたって良いのです。

本当に正しい在り方は、

正しく生きるとは、

物事の本質は、

と心に問いかけて正しく前向きに生きることを心掛けておりましたら、

少しずつでも答えが見えて来るはずなんです。

見えて来ないのは心が前向きで正しくないからですね。

でもね、そうしておりますと本当に毎日が楽しくなって参りますし、

命の目的とか、

何のために生まれて来たのかって感じ取れるようになるはずなんです。


失敗したって良いのです。

でもね、前向きに正しく生きることの素晴らしさにも気付けず魂を悩み苦しませたままで、

失敗したらどうしよう、とかね、

うじうじくよくよおろおろとね、

そんな状態なのでしたら一度力一杯前向きに正しく生きてみれば良いのですよ。

何だって信念を持って向かってみて、やってみて、

その時に神霊は間違いなくお力添え下さるのですし、

なんたって正しく生きている人を神霊が見捨てるはずがないのですね。


左右の手を丁度胸の真ん中で合わせて合掌しましてね、

姿勢を正して腹に力を入れるのですよ。

それが中道の印ですね。

そうやって日々正しく考え、正しく行動し、正しく願い、正しく働き、正しく発言し、、、

正しく生きて行くことなんです。

光は必ずそのような生活の中に差し込むのだと思いますよ。



マグロとか、鮭とか



マグロとか、鮭はね、

生まれて参りましてから死ぬまで泳ぎ続けるのですね。

マグロなんかは、止まってしまいますと餌が食べられなくなって死んでしまうのです。

おっさんが思いますに、これはね、マグロさんの深層心理の中に、

「進み続けなくてなんの命ぞ!」って思いがあるのだと思うのです。

ところがね、このマグロさんの数が今、少なくなっているそうでございまして、、、


海にも道はありますね。

太平洋にも、大西洋にも、インド洋にも、日本海にも、瀬戸内海にも、

道があるのです。

海流ですね。

鮭さんなどは必ず産まれた川に戻って来ると云われておりますけど、

この海流が道のような役割をして、その道しるべを頼りに産まれた川に戻って来れるのでありまして、

別に砂漠とか青木が原の樹林のように何もない、方向も何も分からないような中を戻って来るのではないのですね。


そうして、この鮭もまた、産まれた川に戻って来ないメンバーがいらっしゃる。


これはね、恐ろしいことだと思いますね。

先程の、るるるの歌には未来編ってのがあるのですけど、

この海の道もきっと流れが弱くなっていたり、かなり変わっちゃっていたりするのではないかと思いますね。


そうして、やがてはマグロも鮭も、多くの海産物が取れなくなるかも知れないなあ、

とおっさんは思うのです。

まあ、日本はマグロの養殖技術がありますからあれなんですけど、

今のうちにたらふく味わっておかれますことが良さそうですね。



出生の秘密



犬神家の一族、なんて物語に出会ったのは、おっさんがまだ未成年の頃でございました。

おバカだったおっさんはその物語が余りよく分からなかったのですね。

いえ、分からなかったと云いますよりかは、余り興味を持っておりませんでしたし、

内容を理解しようとする姿勢もなかったのです。


ところがね、これがじっくり視聴しますと、実に面白い、

感慨深いと言うのでしょうか、興味を引かれる物語でありまして、

前半ではおどろおどろしい殺人事件が次から次へと起こって、

暗中模索状態が続くのですけど、

時には犬神佐清(いぬがみすけきよ)さんの真っ白なお面にドキッとさせられたり致しまして、


後半に入りまして、青沼静馬ちゅう人の存在が明らかになりまして、

彼の出生の秘密が明かされましてから、

次第に雲が晴れて視界が広がって来るのですね。


出生の秘密、、、

誰にでも、出生に至る物語がございます。

知るも知らぬも出生物語と申しますが、

(云わない云わない)

ご先祖様がいらっしゃって、

色んな人生のドラマを色んな人が真剣に悩みながら、乗り越えながら、出会いながら、

命を繋いで来て、

そうして私たちはここにいるのですね。


昨日はyoutubeを覗いておりましたら、

るるるの歌、なんて歌に出逢いましたね。

丸いものを見ると狼になっちゃう青年のお話なのですけど、


実はこの歌には、

るるるの歌、おとこ狼編というのがあるのですね。

狼男は人が狼になっちゃうのですけど、

おとこ狼はその逆で狼が人になっちゃうのです。

でね、このおとこ狼編で、先ほどの青年の出生の秘密が明かされているのですけど、

青年のおとうちゃんの話ですね。


まあ、ええ歌ですから、聴いたことのない人は一度聴いてみて下さい。

感動しまっせ。

いやほんま。



実践正法A苦しみの正体



全ての苦しみはね、

自我我欲と、自分本位(自己中心)と、自己保存から生じているのですよ、

ってね、そのようなことをもう数十回程もお口をスッパマンにして申し上げました。

それではね、何でそこから苦しみが生まれて来るのか、

どうすれば良いのかを少し掘り下げてみようでは、あーりませんか。


まず、自我我欲ですね。

売っているものが欲しくなる。

人のものだって欲しくなる。

そうしますと、妬みや嫉みだって生じて参りますでしょう。

欲は留まるところを知りませんからね、人を盗人にさえしてしまう。

そうしますとこれはもう餓鬼ですよ。

痩せこけてお腹だけぽっこり膨らんだ地獄の餓鬼ですね。

食べても食べても満足できない。

それがね、自我我欲なんです。


さて、次が自分本位ですね。

ひとのことなんてどうだって良いのです。

自分の思いさえ通じればそれで良いのです。

でもね、なかなかそうは行きませんから、

怒りだって生じますでしょう。

憎しみだって生じますでしょう。

人に責任をなすり付け、

人間関係が上手く行かなくなって、

トラブルメーカーにもなりますでしょう。

そうしてさらに怒りの炎をめらめらと燃え上がらせる。

これはね、阿修羅ですね。


では自己保存はどうでしょうか。

自分が大切で、身を護ろうとする余りに

いらないものでも何でも取っておきたくなる。

ごみ屋敷なんてありますけど、自己保存の象徴ですね。

執着や依存が生じて参ります。

これはね、地獄の亡者ですね。


欲が満たされないからと悩み、

人間関係が上手く行かないからと悩み、

思いが通じないからと悩み、

色んなことに依存・執着しては悩み、

酷ければ餓鬼界やね、阿修羅界、地獄に本当に通じてしまうのです。


でもね、そもそもは心の周りに、

自我我欲と、自分本位と、自己保存を抱えておりますから、

悩み苦しみが生じるのですね。

ですからね、そんなものは取っ払ってしまえば良いのです。

自分本位の心は客観的な中道の視点で正しい在り方に変え、

自我我欲と自己保存は自らを捨てる心積もりで手放すことができますでしょう。


そうしましたら心は透明な水晶球のようになりましてね、

その中で守護霊さんがカンペを掲げているのが見えるようにもなりますでしょう。

悩み苦しみもなくなって、人生だって思うように回り始める。

こんなに素敵なことはそうはないですよ。



実践正法@



ところでね、もしご自身が誰かから憎まれて、

例えば職場で陰口を言われた、非難中傷を受けたとします。

その時にね、ご自身ならどのように対処されますでしょうか?

悪口の云い合いですか?

非難中傷合戦でしょうか?

悩んで落ち込みますか?

でもね、それでは何も解決しませんね。

逆にご自身の罪が増えるだけなんです。


誰かに憎まれた、陰口を叩かれた。

そうしましたらね、まずご自身に何か憎まれたり、非難中傷を受けたりする原因がないか、

深く内省してみることなんです。

そうして、今後二度と同じ原因で人から憎まれたり、非難中傷を受けることがないように、

しっかりと想念行為を訂正することなんです。

そうしましたらね、それでおしまいですよ。

そのことではご自身は卒業したのです。


ご自身を憎んだ人には憎んだだけ、非難中傷しただけの反作用が生じますでしょう。

それだけのことなんです。

その相手は罪を背負ってまでご自身に考える機会を与えて下さった。

有り難いことではありませんか。

勿論、ご自身に全く原因がないといった場合もありますでしょう。

それならそれで結構なことではありませんか。

ただね、ただ、

ご自身に原因があるにも関わらずそれを見逃して全て相手の所為にしてしまった、

としますとね、

恐らく同じような現象がもう一度ご自身に降りかかりますでしょうね。


人を憎み陰口を叩いたものは人からの信用を失って嫌われます。

いつも暖かくて優しくてニコニコしております人は、たとえどんな噂が流れておりましても、

心の正しい人は必ず分かって下さるのです。


それから、今度は誰かから何かを強要される、といった場合ですね。

強要される原因がご自身にあるのでしたら、そこは内省して修正すれば良いのですね。

強要される原因がご自身にないようでしたら、

そこは毅然とした態度で跳ね付けましたら良いのです。

それは余計なお節介なのですから、No!というべきではありませんか。

それでその人が怒っても、聞き入れて下さらなくても、憎まれても、

それは構わないのです。

怒りも、強要も、憎しみも、全て発した人に返って行くのですから、

ご自身はただ、可哀想な人だなあと思いながら無視しておかれましたら良いのです。

勿論、強要される原因がご自身にあって、それに気付かない時はね、

もう一度同じ現象が生じますでしょう。


それは守護霊さんがそのようにして現象を生じさせて学ばせて下さろうとしているのですから、

そうなるのです。

ただ、No!という勇気と、

正しいことを行う毅然とした態度、

それから充分な内省と修正、ですね。

それさえ心掛けておりましたら、何も悩み苦しむことはないのです。


それがね、正法的な正しい人間関係の在り方ですね。

自らの罪と相手の罪の間に一線を引いてみる。

そうしますとご自身は余り感情のもつれもなくて、

お心の安らぎも維持できるのではありませんか?



牡丹燈篭について考える



6月に入りまして、テレビでも怪談話現れて参りました。

牡丹燈篭

さっきまで視聴しておったのですけどね、

話は簡単で、惚れた女が死んじゃった。

それでも夜な夜な訪ねて来るその女。

お札を貼っても剥がされて、

で、最後には男も連れて行かれちゃった。

ってお話ですね。


この人じゃなきゃ嫌っ、って、

そのような女性は多いものです。

まあ、恐らくそこに木村拓也でも現れますと恐らく心変わりするのでしょうけど、

まあ、そこは郷ひろみでも城みちるでも(古)

そういったさわやか系イケ面男でしたらまず間違いなく心変わりするのでしょうけど、

現れない限りは決して心変わりなんぞしませんわよ、という頑なさで、

我が身が滅んでも惚れた男を訪ねて来る。


まあ、男の方もまんざらではないわけで、

嫌だ嫌だとは云ってみたものの、嫌よ嫌よも好きのうちで、

しまいにゃ一緒に死での旅路につくのですね。


まあ、幸せならそれでもいいやん、と思うのですけど、

ですからまあ、この物語は怪談と言いますよりかは、

世にも不思議な幸せ物語なのでありまして、

うらやましいっちゃあうらやましい物語なのですけど、


でもここに霊界の法といいますものがございますな。

死んだ者がいつまでも執着を持ってそこに留まってはいけないのです。

行くべきところへ行かなくては行けないのですね。

死んだ者が生きております者に積極的に関わって、

さらに生きております者の命を奪ったとなりますとね、

これは罪なんです。

重い罪ですよ。

その罪を清算するためにさらに厳しい反省の機会が与えられるのですね。


生きております者は生きております者同士で楽しく幸せにいること、

死んじゃった人は死んじゃった人で生きております者に執着せず関わりを持たず、

まあ、せいぜい幸せの念を送り合う程度に留めて、

行くべきところに行くこと。

居るべきところに居ること。

それが一番色々な面で上手く行くのだと思いますね。



FBI 犯罪心理捜査官



FBIに犯罪心理捜査官が登場しましたのは、そんなに昔のことではなかったと思います。

羊たちの沈黙という映画で彼らの活躍が取り上げられておりました。

犯罪をファイリング化して犯罪者の傾向を探る。

その試みは的を得ておりまして、殆どの犯罪でその傾向に類似性が見られるのですね。

で、それ以降、FBI等の捜査機関を題材にした米国ドラマでは、

犯罪心理捜査官類似のファイリング手法で犯罪を解決する場面が見られるようです。

Numbersとか、Bonesとか、NCISとか、ですね。


さて、ここに正法神理といいますものがございます。

理論的で、殆ど全ての問題解決に役に立つと思われますその手法は、

残念ながら全くと言って良いほど採用されていない。

残念なことでございます。

中身にも触れずに宗教的だと判断なされます方が多いのでしょうね。

ただ、その手法を身に備え実践しておりますと、

人生余り思い悩み苦しむことが少なくなって来るのです。

その極めて理論的で科学的なものをどうして非科学的で抽象的な宗教と同一視してしまわれるのか、

理解に苦しむところでございます。


ところで管さんが民主党の代表に選出されました。

ところがこの大物政治家にさえ分からないようなことが、

正法神理では見えてくるようになるのですね。

それは何故か、

それは物事の本質を見極める科学的な手法が正法神理なのですから、

当然のことなのですね。

今まで見えなかったことがどんどん見えてくるようになるのです。

そうして最後には必ず神霊の意識に到達できるのです。


でね、そんな便利なものをどうして否定するのかな、ってね、

おっさんは日々考えるのでございます。



自然って、何かな



例えばね、おっさんが、

「運気を上げるためには自然に触れることです。」

なんて発言をしたとしましょう。

いえ、実際したのですけど、


そんな時、それを聞いた人はどこまでその真意を掴み取っているか、


これは大切なことでございましてね、

おっさんも高橋信次先生のご本をある程度深く読めるようになって参りましたのは最近のことで、

それまでは一を聞いて一を知るところまでも行けていなかったのですね。


自然に触れる。

それは具体的に自然って何かなと考えてみませんと分かりませんでしょう。

公園の木々を眺める。

近くの釣堀に釣りをしに行く。

山に登ったり、海水浴をしたり、

それも勿論自然に触れることなのですけど、


自然って何かなと考えました時に、もっともっと自然には深い意味があるのだと、

誰でも気付きますでしょう。

時には夜を感じ、

時には陽を全身に浴び、

河の流れのようにゆったりとした時の中に身を置いて、

自ら狩をして、獲った獲物を料理する。

時には飢え、時には乾き、時に満たされる。


決して常に満たされている状態が自然ではなく、当然でもないのですね。

そのような生活を続けておりますと、必ず病気になる。

身体が弱るのです。


それは想像力をもってしませんと、

一を聞いて十を知るなんてことはなかなかできるものではないのですね。

メールだって一つのことを書いても一つも理解して下さらない方もいらっしゃるのですから。


でもね、やはり常に満たされた暮らしを続けておりますと、

当然、運気も下がって来るのですね。

時には冒険心を持って色んなことにもチャレンジしてみる。

時には空腹や渇きを楽しんでみる。

諸々の大自然の中に大自然と一体となって生きてみる。

そんなことが現代人には欠けているのではないかな、

必要なのではないかな、

想像力だってもっと逞しく鍛えるべきではないかな、


とね、生意気にもおっさんはそのように思うのでございますよ。



虐待



インドネシアでタバコを吸う二歳児の映像が流れておりました。

ぶくぶく太ったおでぶちゃんの男の子が物凄い貫禄でタバコをくゆらしている。

一見しただけではどこかの中小企業の社長と見分けが付かないほどの貫禄でありまして、

慣れた手付きでタバコに自ら火を付けて美味しそうに煙を吐いているのですね。

まあ、これはびっくり映像で終わらせちゃっても良いのですけど、

おっさんの認識では、これは虐待ですね。

まあ、当事者は当然そのような認識はないのでしょうけど。


日本でもこのところ虐待で幼児が死亡するような事件が頻繁に起こっておりまして、

また、どこかの中学校では教師がバレーボール部の女子生徒の顔面に膝蹴りを食らわした、とか、

鼻骨を折った、とか、


無知のケースと、切れちゃったケースですね。

日本人は兎角キレ易くなってしまっておりますようで、

どうしてそんなにスグにキレてしまうのか、と思うのです。

腹が立てば怒れば良いのです。

叱るなんてことが正しくできる親なんぞどこにもいないのですから、

そんな上から目線で子と信頼関係を築くなんて不可能なのですから、

怒れば良いのです。

そうしてその場限りで感情を吐き出せば良いのです。

でもね、限度を知らなくてはいけませんね。

いつまでもねちねちねちねち根に持って怒り続けるなんてね、

鬼や阿修羅じゃないのですから、いい加減にして置かれますことが良いと思いますね。


腹が立つ。

時にはそのようなこともありますでしょう。

でもね、それは親と子が同じレベルだということなんです。

親として、子供目線から親の目線にレベルを上げる。

そのためには、愛を育むといいますことが大切ではないかと思いますよ。


確かにね、シバき倒しても良いようなお子さんはいらっしゃいます。

悪さをする原因にも色々有りますからね。

愚かで気付かずに悪さをする子供、

自己主張のために悪さをする子供、

そんな子供には正しく深い愛情を持って導いて差し上げませんといけませんね。

ただ、分かっていて悪さをする、

このような子供は一回シバいて置かなくてはいけませんね。

そうしませんと、他に害を与えますから。

でね、そういった子供は悪さをしたあと必ず逃げ出すのです。

逃げるということは、納得できる理由もなく悪さをしたということですからね、

一回二回思い知らせる必要があると思いますね。

これは弱くて悪い子供ではなく、もはや強くて悪い子供なのですから、シバき倒しても構わない。

それは虐待ではなくて躾ですね。

ただ、勿論限度はありますけどね。


でもね悪さもしないのにシバき倒す、

これはいけません。

絶対にしてはいけない。

傷つけるようなこと、心身に害を及ぼすようなことも勿論、してはいけませんし、

そのように教え導いてもいけませんね。

そんなことしておりますと、必ずガオーさんが現れますし、

なまはげだって「悪い親はいねーかー」って出刃包丁持って現れるのですから。

まあ、猪木さんよろしく、「なんだこのやろう」と悪態をつく程度に留めて置かれますことではないかと思いますね。



そのことで1時間悩む



おっさんは時折に書店に参ります。

そうしますと色々とおっさんの知らない情報が唸っておりますわけで、

立ち読みするわけではありませんけど、

めぼしいものはないかな、と本を色々手に取ったりしております。

まあ、おっさんはそのようなことはないのですけど、

便意を催される方がいらっしゃる、というのは良く分かるのです。

ぞくぞくしますからね、むずむずもするのでしょう。


でも、おっさんはどちらかと言いますと、

何故か、団地、といいますものに便意を感じ・・・

いえ、どうでも良いことでございました。


でね、先日、Linuxがまるごとわかる本、

という雑誌を購入して参りまして、

いえ、内容的にはそれ程目新しいものはなかったのです。

それで1314円では、もう欲しいとも思わなかったのですけど、

でもね、でも、

この雑誌、全バックナンバーがDVDに収納されているではありませんか。

11冊分のバックナンバーですよ。

そりゃあ、欲しくなりますよ。

誰だってきっと欲しくなる。

12冊分が1314円で、一冊分では百円ちょっとなのですからね。


で、買って参りまして、早速読み漁っているのですけど、

その中でね、

「Androidをネットブックで使う」という記事がありまして、

おっさんも早速試してみたのですよ。

Android携帯のOSをCDに落として、

おっさんはネットブックなんぞ所有しておりませんからね、

パソコンで立ち上げてみたのですよ。


綺麗に動きましたね。


ただね、ただ、

シャットダウンの方法が分からない。


これには参りましたね。

悩みましたよ。本当に。

一時間ほど悩みましたよ。

で、ようやく答えにたどり着きました。


携帯端末にはシャットダウンなんてないのですね。

電源ぷちっ、ですよ。電源ぷちっ。

もうおっさん笑いこける始末でね。

なんでこんなおバカなことで悩んだんやろかと、


まあ、これもほんまにどうでも良いお話なんですけどね。
(爆)



一番偉い人



さて、司法機関で一番偉いのは誰か、

と問われますと、

私たちは恐らく誰でも、

最高裁判所裁判長

と答えますでしょう。

それは、正解ですね。


では立法機関で一番偉いのはと云いますと、

それは勿論、衆参両議会の議長でございます。

決して、内閣閣僚ががん首を並べておりましても、国会内では他の議員と同じでね、

決して偉くはない。

幾ら内閣で偉くても、国会では偉くはないのです。

そこはやはり議長が一番偉いのですね。

議長には議員が一番偉い議長に、と選任した人がなるのですから、

国会運営に関して議長の言うことには

たとえどのような大物政治家でありましても、

何十回と国会議員に当選した議員でありましても、

そこは従わなくてはいけません。


行政機関で一番偉いのは、

内閣総理大臣であり、

またその女房役として内閣官房長官が次に偉いのです。


政治政党で一番偉いのは党首ですね。

その下に党三役、つまり、

幹事長と、政調会長と、総務会長があるのですね。


それでは日本で一番偉いのは誰でしょうか?

恐らく多くの人が総理大臣とか首相とか答えますでしょうね。

いえ、それはね、ブー、ですよ。ブー。

日本で一番偉いのは国民でありまして、

国民が多数意見を以ってリコール権なるものを発動することだってできるのです。

それは、日本は民主主義の国ですから、そうなのです。

民主主義とはつまり、国民主権の国なのですから。


宇宙で一番偉いのは、神ですね。


家庭で一番偉いのは家長です。

家長に家庭を運営し、家の決まりを守らせる権力があるのです。

勿論その方法は民主主義的でなくてはいけませんし、

人権を侵害するような運営も、強制によって従わせることも、

法律上、また社会通念上認められることはありませんね。


ただ、こういった偉い人たちもね、

権力がある、肩書きが凄い、というだけでありましてね、

人として偉いわけではありませんね。

人の中で一番偉いのはね、

おてんとう様に恥じないように真面目に正しく生きております人ですね。

正しく、と言いましてもやたらと広い意味合いがございます。

どんなに真面目でありましてもその想念行為が争いに塗れ、

憎しみや嫉妬、執着に振り回されておりますようではいけません。

そんなのは全然正しくないのです。

前向きに、明るくプラス思考で、

社会を調和させる、人間関係を調和させるような方向で社会や人と関わる努力こそが、

大切でありますように思いますね。