ブログより転載(2010年12月)

 



毎年恒例



いよいよでおますね。

いよいよ迫って参りましたでおますね。

明日は大きな海老天の乗ったおそばを戴かなくてはいけませんね。

んでもって、カウントダウンでおますね。


除夜の鐘はええですなあ。

毎晩でも鳴らして欲しいものですけど、

でも、そうなりますと今度は「眠れんじゃないか」とクレームを付ける人も現われるのでしょうね。


おさんは毎年元日の深夜には寺社めぐりをしていたのですけど、

どうしたことか昨年はパスしておりまして、

ま、今年もパスしよっかなと考えておりますところでございます。

だってね、誰の心の中にも神様は確実にいらっしゃるわけでして、

別に寺社などを巡らなくてもどうってことはないのですね。

それにね、やっぱり眠いじゃあないですか。

徹夜での寺社めぐりはおさんには厳しいものがおますよ。


ところがね、おさんだけの恒例行事で、

毎年、参道の同じ店で鯖寿司を買うことになっていたのですけど、

去年も戴いておりませんし、今年も戴けないとなりますと、

これは大問題なんですね。

寺社めぐりはともかく、鯖寿司だけでも買ってこようかなとも思うのですけど、

そうしますと、やはりちょっと神仏にもご挨拶を、ということになりますでしょうし、


こまた。

おっさん、こまた。

おっさんは、大いにこまっているのでございますよ。


元日の、夜明けの鯖寿司。

除夜の鐘に並ぶ二大行事なんです。


おおい、鯖寿司、

ゆうゆうとやけに美味しそうじゃあないか。

どこまで行くんだ。

ずっと清荒神の参道の店まで買いに行くんだ。


こまた。



信じるべきこと



さて、今日はクリスマスイヴですね。

キリスト様の聖誕祭であるはずが、

何故か恋人達の愛を育む日ということになっておりますけど、

「愛」の解釈も多種多様であるものだなと、感じさせられます。


でもね、まあ、恋愛も曲がりなりにも愛には違いないのでしょうから、

キリスト様には「愛」をちょと勘違いしていてごめーんね、

とまあ人類的にはそのように謝罪しておかなくてはいけないかな、

と考えるおさんなのでございます。


さて、信じるべきこと、なんですけど、


人のね、魂は水晶玉のようであるよ、と以前おっさんは書かせて戴きましたことがございます。

で、その水晶はそれぞれに少しずつ歪みがあるのですね。

魂の癖と言いますか、一人一人その形は異なっているのですね。


一人一人異なる歪みを持った水晶玉。

その奥深くにはもんの凄い火が燃えております。

時には業火となり、時には全てを育むエネルギーの源、炎の海となり、

決して消失することのないその炎はね、

神霊そのものであり、私たちの魂の存在を支えるものであり、命の源なのですね。


この炎は、たとえば私たちの身体が灰になったとしましても、

何億兆年か先に宇宙が収縮して消滅してしてしまったとしましても、

それでも消えることのない炎なのです。

そしてその炎は私たちの身体の周りにもオーラとなって溢れ出しているのですね。


理性が大きく膨らんだ人は青っぽく、

本能が大きく膨らんだ人は血の赤い色、

知性が大きく膨らんだ人は白い色、ですね。

なんかそんな感じで、水晶玉の歪みがプリズムのような働きをして、

一人一人オーラの色が微妙に異なるのですね。

そして心が綺麗なまん丸の形になったときに、そのオーラは黄金色に変わるのですね。


また、水晶玉の周りに色んな不調和な想念がありましたら、

オーラの光も弱くなってしまいますね。

これはね、ガスレンジの火の出る部分に煤が詰まって火が出難くなるのと同じ現象ですね。


でもね、私たちの心の奥底にそういった炎が燃えている。

だからこそ、魂は誰だって暖かいのですし、

情熱を燃え上がらせることもできるのですね。

だからこそ、誰だって意識すれば強く正しく行き抜くことができるのですし、

その炎に逆らうことなんて絶対にできないのです。


いえ、人だけではありませんね。

万物の心の奥にその万物を生み育てた源の炎の海があって、

深く深く、とてつもなく深い理によって万物がそこに存在しているのです。


ですから皆様もきっとこう仰られる日が必ず来るのですね。

人は、暖かい。

人は、奥深い。

そして、人は情熱に溢れている。

人は、強く、

人は、愛の結晶である。

そのように、人は生きるべきであり、存在するべきである。

ってね。


それはね、絶対に間違いのない真実だと思いますよ。



外見的な自分を受け入れる



ところでね、おっさんは若い頃、

外見的な自分というものが分からなかったのですね。

自分は、かっこ良くて、イケていて、って思っていたのですけど(爆)

ところがね、周りの反応を見てみますとどうもそうではない。。。


軟弱で、弱々しくて、病弱で、チキンで、

若かりし頃の外見的なおっさんはそうだったのですね。

まあ、今でもそうなのですけど、

ところがね、それが自分では分からない。

不思議なものです。


でもね、でもですよ。

これはあくまでも外見的なものであって、自分自身の本質、魂、根っこは違うわけです。

幾らチキンと言いましても、誰だって五十歩百歩、

誰だってチキンであることには違いがないのですし、

軟弱の程度は多少違いましても、誰だって軟弱なんです。

人間、そんなに差なんてないのですね。

ところがね、おっかなびっくり、外見は月とすっぽんぽんなんです。


自分が猪木だと信じていた人がですよ、

ある日突然に鏡というものを手渡されて、

自分の外見がMr.オクレ師匠であることに気付かされた。

オレは違うぞ、俺はオクレじゃないぞ!!

って叫んでみしても、自分がオクレ師匠である事実は否めないわけでございます。


考えてもみて欲しいのです。

皆さんが実際に鏡を見て、そこに見えた自分自身の外見がハタ坊だったら、

或いは砂かけ婆だったら、んでもって声まで砂かけ婆だったら。


でもね、それが事実なんです。

幾ら魂は違うのだと主張しましても外見がハタ坊や砂かけ婆であることに違いはないのです。


そうしてね、その外見を受け入れることこそがね、

人生を上手く渡るコツなんです。

幾ら内面的には砂かけ婆もハタ坊もMr.オクレ師匠もそんなに違わないと言いましてもね、

外見的にはやはり、砂かけ婆とハタ坊とMr.オクレなんです。

でもね、その役割は演じきらなくてはいけない。

それが人生なんです。

自分自身が外見的役割をしっかりと認識して、

しっかりと自分自身の責任として捉えなくてはいけないのです。

そりゃ、砂かけ婆は憎まれ、ハタ坊は苛めに遭い、Mr.オクレは見下されるかも知れません。

でも、それに向き合い、その役を演じきる上で個々人特有の様々な学びを得る、

そのための外見でもあるのですね。

それが課題であり、それが宿命なんです。

逆にその方が社会に受け入れられ易いのですね。

欠点は武器になりますからね。


ですから外見的なことに限らず全てを自分自身の責任として捉えて生きる。

文句も言わず、不満も持たず、責任転嫁もせず、

ただ只管にMr.オクレ師匠なら足腰の弱さ、スタミナのなさを過剰に演出する。


虎の威を借る狐

猫の皮を被った虎

Mr.オクレ師匠の仮面をつけたアントニオ猪木


その役割が演じ切れてこそ、きっと人生が上手く回るのです。

渡部陽一さんなどもそうではないかと思いますけどね。

いや、上手く演じ切っているものだと思いますね。

うん。



神霊の前に



大いなる目的を持って神霊によって生かされている私たちの中に、

社会的に価値のある者が一人でもいるでしょうか?

居るとすればそれは神霊の意に沿って偉大な事業を成し遂げた如来のみ、

それでも私たちは大いなる必然性を持って生かされているのですね。


神霊の前に、

私たちに生きる権利など存在しないのです。

勿論、死ぬ権利もないのです。

大地のものを独り占めして優雅に暮らす権利もなければ、

大地の生き物を狩猟してその腹を満たす権利さえない。


でもね、それは許されているのですね。


義務でしょうか?

では、生きるのは義務なのでしょうか?


違いますね。

私たちは望んで生まれて来たのです。

私たちが生きることを神霊が許して下さった。

それは私たちの成長を思って下さればこそなんです。


光と闇

二つの方向性を神霊は与えて下さいました。

それは闇があるからこそ光の存在に気付けるからです。

そしてまた、神霊は自由を与えて下さった。

闇に落ちる者がないようにと願いながらね。


義務も権利も存在せず、

私たちには自由だけがあるのです。

諸々の神霊の慈悲、許しと

魂の成長のために与えられた環境


その中でね、

不満を持ち神に背を向けて闇に向かうのか

感謝しつつ光を求めて神霊に向かうのか

闇に向かうものが多ければ地上は地獄となり

光に向かうものが多ければ地上は天国となるのです。


私たちにはその判断が求められているのですね。


今年ももうあと僅かになりました。

今年は寒空の下に放り出される人がいないことを願っております。

そしてまた、クリスマスもありますね。

聖夜には皆様が静かなお心でご自身の人生を振り返ってみて下さいましたら、

神霊との対話も試みて下さいましたらと思います。

そうして来年からの、さらにまた素晴らしい発展と魂の成長へと繋げて下さいましたらと

思いますね。



おっさんはこう思うのだ



諫早湾の水門がいよいよ開かれることになったそうでございます。

菅さんが、何やら開けなさいと仰られたそうで、

素晴らしいご決断だと思います。

いや、このことに関してはね。


そうしますと、今度はね、

諫早湾の真水化された海水を灌漑用水にして田畑を耕しておりました連中が何やら騒いでいる。

水門を開けちゃうと自分達の耕作ができなくなっちゃうって怒っていらっしゃるのですね。


でもね、何をかいわんやとおっさんは思うのです。

水門が閉められる際に悲しみ嘆く漁民達には目もくれずに

さっさと自分達の田畑を開墾しちゃったのは、

どこのオランダ、いや、どこのスイス、

どこのドイツなんだと思うのですね。

普通の人間なら、漁民と一緒になって自然の改悪には反対しましたでしょう。

全く、我田引水の連中だとおっさんは感じるのです。


勿論、その諫早湾の水門、ということを言い出した政治家が間違いの根源でありましたことは、

言わずもがなだとは思いますけど。

で、なんでこういったことを政治家さんたちは平気でやっちゃうのか、

それは勿論、未来の姿をきちんと描けておらず、

何が正しいことなのかの判断もあやふやだからではないかと思うのですね。

民主主義とは形ばかりの政党による独裁政治、

主権者であるところの国民の声を全く無視したその政治は

北朝鮮とさして変わりはないようにも感じますね。

それならばもっと徳のある王による独裁の方がマシではないかと思うのです。

いや、ちょっとオーバーかも知れませんけど、

まあ、ちょっと言い過ぎましたけど、


ま、今後同じようなことのないようにして戴きたいものでございますね。



待っているとダメな人



うん、この種の人は多いようですね。

待っていると何かにつけていいことがない。

待っていないと誰かが来るし、何やらいい方に転がって行く。

こんな人ですね。


これって、何でかなって思いますでしょ?

あはは。おっさんもたった今まで分からなかったのですけど、

分かりました。

これはね、守護霊様があることを教えて下さろうとしているのですね。


それはね、

あなたはいいことがおこらないかなってずっと待っている癖があるけど、

待っててもダメよ。

自分から楽しまなきゃ。

寝てることが楽しいなら寝てたらいい。

ほら、果報は寝て待てっていうじゃない。

働くことが楽しければ働いていればいいし、

遊んでいることが楽しければ遊んでいたらいいのよ。

あなたのことはちゃんと護ってあげるから、

何も心配することはないのよ。

自分の人生、自分から思いっきり楽しむことを覚えなさいね。


ってね、

それを伝えるために、そういう現象が現われているのですね。


いいことが起こらないかなって待っている。

誰か来ないかなって待っている。

誰かが来てくれることを期待している。

誰かが幸せを与えて下さることを待っている。

でもね、誰かが幸せを与えて下さることは絶対にないし、

過度に期待しすぎると次第に依存癖と強要癖が強くなって来るのですね。

それにね、心だって落ち着かないじゃないですか。


来るべき時は来るのですし、

来るべき人も来るのです。

来るべきものは来て、

来ないものは絶対にやっては来ない。

でね、その来るべきものを少しでも早く来させるために、

自分で楽しいことをして、その日その時を楽しんでいることが一番良いのですね。

そうしましたら、守護霊も、

「おお!やてるな!!」ってんで、

一つや二つ余計に喜びを与えて下さろうとするかも知れないのですね。


なんかね、そうらしいですよ。



おでんの科学



おでんは色んな具財からでた旨味が混ざり合って美味しくなるのさ

でもね

でもだよ

野菜と牛肉の旨味はマギーブイヨンで補えるじゃあないか

豚の旨味は白湯スープで補えるじゃあないか

鶏の旨味は鶏がらスープで補えるじゃあないか

魚と昆布の旨味は和風だしで補えるじゃあないか

ま、そこに足らないものは甲殻類の旨味だけでさ

市販の調味料で完っ璧なおでんのダシは完成するわけさ

それでおっさんは蟹の粉末エキスも買ってあると言うわけなんだけど


全ての料理にその科学は通用するのさ

ラーメンだって和風・とんこつ・鶏がら何でも自由自在

勿論カレーだって牛丼だってそうなのさ


霊的世界だって科学的解明が驚くほど進んでいるこの時代

だからこそ、柔軟な感じ方が大切だなって思うのよ

どんな霊的な事だって

科学的に解明することは可能なのさ

それでおでんがもんのすごく美味しくなれば

良いとは思わないかなあ

人生が少しでも解明されれば

良いとは思わないかなあ



冬景色



さて、この季節には南天が目立ちます。

なーんでか、どこのお家でも庭先に南天が植えてあるのですね。

それがなんで南天でなくてはいけないのか、

おっさんには考えても考えても、わからにゃーのですけど、


小学校の頃にね、

竹筒をくり抜いて作ったちっちゃなピストンのようなものを

校庭に売りに来ていたおっちゃんがおりましてね、

南天をそのピストンのようなもので飛ばすのですね。

南天鉄砲とでも呼べばいいのか、

それがおっさんは異様に欲しかったことを覚えております。


沢山の小学生がそれを買っておりましたけど、

実際にその小学生がその南天鉄砲で遊んでいるところは、見たことがないのですね。

なーんでか♪


まあ、今となりましては原理は分かるのですけどね、

南天をその筒の先に入れて、詰まらせて、

もう片方からも南天を入れて、

空気圧で勢い良く飛ばすのでしょうね。


なんか、おっさんそんなことを思い出しておりました。



夢日記



さて、昼食に何を戴こうかしら、と悩んでおりますおっさんでございます。

今日は不思議な夢を見ましてね、

もっと続きが見たいな、と八時頃まで眠りこけておりました。


どこかの街にね、二本の鉄道が走っておりましてね、

一方が登山鉄道で、もう一方が普通のローカル鉄道ですね。

で、おっさんはその普通のローカル鉄道の方に乗ろうとしていたのですけど、

登山鉄道の方に間違って行ってしまいまして、

あ、こっちじゃないやと思って歩き回っておりましたら、


何やら放射能関連施設のようなところがありまして、

そこに迷い込んじゃったのですね。

そこにはちょと険しい眼つきの青い服の作業員が何人も慌しく行き来しておりましてね、

なんか事故でもあったのかな、と感じておりました。


それからようやく目的の駅に到達しまして、

終点までの切符を買っておりますところで目が覚めちゃたのですけど、


この鉄道の西側の終点の駅はね、おさん夢の中で一度行ったことがあるのですね。

そこには何とか神宮という大きな神社がありましてね、

長い長い参道が続いているのですね。

その時はおっさん、その参道で白いお酒を買おうとしておりまして、

ところが陶器の置物ばかりでなかなか買えなかったという記憶があるのですけど、


なんかね、そんな夢でございました。



おっさんやからごちゃごちゃ考えてまうねん



昨日は何故かラーメンと言うものが食べたくなって食べに行っておりましたおっさんです。

と、あるお客さんが、ラーメンの「汁多め」というメニューにないオーダーを致しておりまして、

そのことでもおっさんは考えるのでございます。

「汁多め」それだけでもラーメン屋さんには負担が生じるのでございまして、

しかもサービスメニューにはないオーダーをするなんて、少し傲慢ではないかな

ってね。

普通の人なら大盛をオーダーして、その分麺を残したりするものではないかと思うのです。

また、大盛の麺少なめとオーダーしましたら、

気の利いた店主でしたら10円20円サービスしても下さいますでしょう。

その経済的余裕がないのなら別なんですけど、

余裕があるのでしたら、そうするべきではないかと思うのです。


そうじゃなきゃ、その人の周りにもそういった負担を強いるお客さんばかり集まって来るんです。

きっとそうなんです。

間違いなくそうなんです。


それから、その帰り道に惣菜パンを買って参りましたおっさんですけど、

パン屋さんがその惣菜パンをナイロン袋に包んで下さるのですね。


でも、世に存在するパン屋さんの従業員さんの殆どの方がね、

パンをナイロン袋に入れてその開いた口をぐしゃぐしゃってするだけでね、

ちゃんと締めて下さらないのはなんでかな、と思うのです。

アツアツのパンでしたら蒸れて品質がどうにかなるのかも知れませんけど、

冷たいパンだって、ぐしゃぐしゃとするだけなんです。

おっさんにはそれが何でか理解に苦しむのですけど、


あはは、まあどうでも良いのですけどね。

好きにやって下されば良いのですけど、

おっさんにはそこまで口を挟んだり、強要したりする権利もないですから、

ただ、ブログで感じたことを書かせて戴いておりますだけなんですから。

あははははは。



親と言うもの



自分が親の立場になってみれば親の気持ちが良く分かる。

んなことを幼い自分から聞かされておりましたおっさんです。

ところがね、今こうして親の年代になってみて、

若い人たちを看る目も親の視点になってきて思うのですけど、

やはりね、間違いばかり目に付くのですね。


以前にも書いておりますけど、おっさんはよくしばかれました。

しょうもないことで、しばかれ、

何やら意味不明のことで、どつかれ、

勘違いで、張り倒され、

気分次第で、責められ、

責任転嫁で、足蹴にされ、

かまぼこを投げ付けられ。。。


子供に人権なんてないのだと豪語し、

暴力と脅しで支配・強制され、


まあ、基本は普通の親でありましたけど、

でも独裁主義家庭における構成員の苦悩は耐えるに忍びないものがございました。


でもね、それでもおっさんは思うのですね。

生んで下さったご恩は忘れるべきではないとね、

まあ、もうちょっと具体的に言いますとね、


親というものが子を設けて、どれだけの負担が生じるものか、

子というものがこの世に曲がりなりにも生を受けて、

負担の方が大きいのか、得るものの方が大きいのか、

それはね、客観的に見ましても、

プラスマイナスで親には負担ばかりがやたらと大きく

プラスマイナスで子には得るものばかりがやたらと大きいのですね。

それはもう、どんな電卓ではじき出しても、

どんな計算式で試算しましてもそうなるのです。


不思議なもんです。

命の大きさは、多少の過ちの非ではないのですね。

そうして、それ以上にね、

私たちは母親を選んで生まれて来るのですから、

文句なんぞ言える立場にはないのですね。


まあね、その前提で世の親御様たちには、

多少の過ちは別段構わないように思うけれども、

お子様方をできる限り正しく立派な大人に育てて差し上げて欲しいな、

と思うおっさんなのでございます。

それが必ず社会を良くすることに繋がるのですから。

はい。



師走でごぜーますだ、お代官様



今年も、いよいよでおますな。

毎年毎年年末のこの時期になりますと色んな行事がおますな。

京都南座ではまねき上げが終わりました。

市川海老蔵さんはえらいことになりよりましたな。

まあお可哀想なことでございます。

掻き入れ時に掻き入れられない。

災難でございましたな。


それから、今年の一文字が大きく書かれ、

寅から卯にバトンが渡され、

針供養とか、

どこかの大仏殿の大掃除とか、

流行語大賞が発表され、


この流行語大賞はどなたがお決めになられるんどっしゃろな。

毎年毎年、「えー、そんなん流行ってへんでー!」というような、

ごく一部の人間の間でしかうけなかった言葉が入っていたりするのですな。


あ、途中にクリスマスがおますわな。

まあ、恋人達は愛を語るんでっしゃろな。

街がはなやぎますな。

子供達は枕元に置かれたプレゼントをいぶかりながらも喜びますな。


サラリーマンさんには仕事納めで打ち上げ、忘年会とありますな。

それから各ご家庭で大掃除ですな。

餅とか御節用の食材を買い出してこんといけませんな。

串刺しにされたぺったんこの柿とか、

変わった形の藁に括りつけられた蜜柑とか、

買ってこんとあきませんな。


早いですな。

一年なんてあっという間ですな。

まあ、そんな声があちらこちらで囁かれるのですな。

でも暫くは今年最後で気合が入っているんでっしゃろな。

良い成績で年を納めたいですからな。


まあ、みなさん、頑張っておくれやっしゃー。

ほな、さいならー