ブログより転載(2011年7月)

 



ホームページって、なんだ?



その昔、ブラウザーを立ち上げた時に表示されるインターネットのページのことをホームページと呼ぼう、

ってことになっておりまして、

なんか、だれかがそのように決めたのですね。

ところが勘違いされてネット上の全てのサイトの全ページがホームページなんてよばれるようになりまして、

いや、そうではないのだ、と

それでは全てのサイトのトップページをホームページと呼んでいいことにしたらどうかってことになって、

何だか、今に至っておりますようなことで、


まあ、どうでもいいのですけど、

でもね、ブラウザに最初に表示されるページ、

これは使う人がブラウザに登録しておくのですけど、

サイトを有する各社はそれぞれが自分とこのサイトのページをブラウザに登録しておいて欲しいと

そういった思惑があるのですな。


それで、彼らは考えたわけでございます。

ない知恵を振り絞って考えたわけでございますな。

ブラウザを立ち上げた時に、どのようなページが表示されることが好ましいのか、

愛されるのか。


お若い女性の方などでは、たとえばブラウザーを立ち上げれば「今日の占い」なんてのが表示される。

そうしますと喜ぶわけでございます。

ファッションの情報とか、テレビ番組表とか、


若いお兄ちゃん方は、アイドル情報ですかな。

奥様方は近くのスーパーのチラシなんかが表示されますと有り難いですな。

お父ちゃん方は今日のお天気とか、昨日の野球の試合結果ですとか、

証券会社に勤務する人でしたら、やはり株価や為替の情報が見たいですな。

ニュースなんかがリアルタイムで表示されますとまた重宝がられますね。

ですからネットサイトを有する各社はそういう情報をトップにあしらい始めたのですな。

ところがね、これが自分なりに必要な情報を取捨選択できるのならいいのですけど、

どうもそれができなくて、何でもかんでもトップページに詰め込んでしまえってんで、

反って見辛くなってしまっておりますようなところも見受けられますけどね。


あはは


ですからまあ、それが本来のホームページなんですけど、

最近はスーパーでも携帯にチラシやナウ オン セールの情報などを送って下さるようなサービスも

あるようですけど、

で、おっさんは考えた。

NOW ON VIEWERってのを作ってみようかなってね。

技術的にはそんなに難しいものではないのです。

こじんまりしたブラウザ的なものでね、

インターネットエクスプローラのようなブラウザでは見れないけれど、

そのVIEWERを使えばうれしい情報が見れるって寸法なんです。

まあ、インターネットの上におっさんネットを作るようなもんです。


どうですか?面白いでしょ。

そんなことできるんですかって、できるんですねえ。これがまた。

ところがね、利用価値がない。

携帯に勝るものはないわけですな。

いちいちパソコンを立ち上げて、そのVIEWERをたちげるのなら、

ブラウザで見ても一緒なんですな。

それに、携帯の方がはるかに簡単、お手軽なんです。


いや、面白いのは面白いのですよ。

色んな可能性もあるなって思うんです。

でもね、面白くても便利でないものは誰も使わないですからねえ。


まあ、彼らの思惑も、おっさんの思惑も、

あんまりたいしたことないじゃん、って話なんですな。



人間商売を考える



人間商売とはよく言ったもので、

地上に生まれ出でましたら、誰でも人間商売を始めなくてはなりません。

どんなに社会に貢献するのだと粋がってみましても、

万人の幸せのためと正義を大上段に振りかざしてみましても、

やはり生きているのですから金勘定が頭をもたげて参ります。

損得勘定ですね。

それはどんなに修行を積んだお坊さんでありましても、悟りを開かない限りは、

商売坊主、商売住職でしかないのですね。

それは仕方がないのです。


高村光太郎さんの奥様の智恵子さんは

人間商売をさらりとやめて海岸の松林で千鳥と遊んだりしておりましたけど、

精神が健康な人はそうはいかないのですね。

それは仕方のないことですし、生きているのですから当然食べなくてはいけないわけで、

衣食住のひとつでも欠けてしまいますと健全な社会生活にも支障を来たすわけでございます。


ただね、何も金銭を得ることが悪いわけではないのですね。

金銭を目的とせず、手段として考える。

それと、中道ということをお釈迦様は教えて下さっておられますね。

ちょうど真ん中のあり方、

労働には正当な報酬が当然であり、

また、負担と利益のバランスの対等性は、

神霊の法によっても守られておりますでしょう。


そしてその中道を越えて金銭を求めてしまいましたら、

それはやはり守銭奴、金の亡者、ごうつくばり、なのでございましょう。

「施し」は「ほどを越す」から施しというんや、と

てれびで言っていたドラマの悪徳坊主もおりましたけど、(笑)

ですから、人間商売も適正価格、適正取引が大切なんだと思いますね。


勿論、取引する双方の立場も対等でなくてはいけませんからね、

客だと威張るものにはその分を多少代金に上乗せするべきでしょうし、

経営者の労働者に対する扱いが酷い場合でありましても、

やはり報酬はその分上乗せされなくてはいけないと思いますね。


ってえか、おっさん今日は何を書いているのやら、ですね。

あはは



真の人



真に偉大な人は

決して自分のことを偉いとは思っていないでしょうし、地位や名誉、権力などに頼ることもありません。


あなたの真の友人は

決してあなたに何かを求めたりしませんし、頼ったりすることもありません。


真に強い人は

誰かに何かを強要することはありませんし、執着することもありません。


真に正しい人は

間違ったことを決して正しいとは言いませんでしょう。

それがどんなに親密な間柄でも、評価される人物の言葉でも、

その言葉の中の間違いを注意深く見出しますでしょう。


真に聡い人は

神の存在を知っておりますでしょうし、神の愛も知っておりますでしょう。

そして常に敬虔さを持ち合わせており、

やたらと神に頼ろうとはしませんでしょう。



公園の木



公園の木にも色々ありますね。


敷地内にきちんと納まっている木もありましたら

枝を敷地の外にはみ出させてしまう木もあります。

それは公園の管理人が幾ら枝を引っ込めなさいと言いましても、

神様の命令以外は聴く耳を持ちませんね。


やがて枝をはみ出させたその木は、

枝を切られるか取り除かれてしまう。

まるで組織の中の人間のようではありませんか。


人も色々、木も色々、なんですね。

そしてそこに大自然の偉大な神理が存在し、

また人もそれに習うべきであると感じるのはおっさんだけでしょうか。


枝を伸ばした木も、敷地内にこじんまりと納まった木も、

それがその木の役割だと思うのですね。

そして木は管理人の言うことなどには耳を貸さない。


日照り続きの日もありましたら

雨の降り続く日もありますでしょう。

狭い了見で小さな自分の枠にとらわれて自らのことに終始して生きるのではなく

自らを捨てて命も全て神様任せなんですね。

大宇宙と一体となり自らでさえ客観的に捉えているのです。

そしてただその自らの役割を全うする。

これはね、如来様の尊い姿と全く同じなんですね。


自然に習い

人も時折に大きな自分に立ち返ってみる。

風の音、鳥の囀り、木々の雄大さ、

人もそういった大自然を身体と心で感じて一体となってみることでね、

忘れてしまっている大切なことを思い出せるのではないかなと

おっさんは思うのですね。



かごめかごめ



なんか不思議な歌で、未だにその意味がわからない

そんな「かごめかごめ」をおっさんなりに勝手に解釈つかまつらむと思うのです。

いや「かいしゃく」は解釈で、切腹の折に首をちょん切る「かいしゃく」ではないのですけど、


なんか、テレビでやっていたのを拝見した記憶があるのですけど、

かごめ、はどこかの武将の家紋なのですな。


かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる


兵糧攻めをやられたのでしょうね。

かごめの家紋の武将が閉じ込められている。

かごの中の鳥状態なんですね。


よあけのばんに つるとかめがすべった


よあけごろに閉じ込められた城を抜け出した者がいるのですね。

つる、と、かめ、に象徴される人物

で、抜け出して何をしたかと言いますと、助けを求めに行ったのです。


だから、うしろのしょうめん だーれ、なんですね。

攻めている側のま後ろから、応援の軍勢が攻めてきたのですね。


たとえば長篠の戦で鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)が兵糧攻めの長篠城を抜け出して織田信長に助けを求めに行った。

いや、水曜どうでしょうという番組でやっていたから覚えているのですけど、

かごの中の鳥をそのように鳥居強右衛門さんと解釈できなくはないと思うのです。

まあ、条件的に合うか合わないかは分かりませんけど、

なんだか、それに似たような史実が歌にされたのではないかと思うのですね。



日本は、大丈夫だろうか



日本は病んでいる。

これは誰もが認識しておりますことでございましょう。

そして、多くの方が、日本はすぐに元気を取り戻す、と信じております。


でもね、この病は根が深いですよ。

この病根を治療しない限り、日本は元気にならない。

なり様がないのですね。

そして、今のままでは日本は間違いなく弱体化していく一方なんです。

おっさんははっきりとそのように断言しておきますよ。

うん。


良いですか。

日本が元気になるために必要なものは、企業と人材です。

それが二大柱でございましょう。

そして、その二大柱であるところの企業と人材が信頼し合いタッグを組んで力を合わせてこそ、

日本は幾らでも元気になれるのです。

厳しい経済情勢でありましても、何とか生き残ることができるのです。


平均株価が1万円を超えた、

いや、株価なんてものは表向きの見せかけだけの経済指標なんですね。

それは決して実力ではない。

どこかの国の、日本の情勢を何も知らない投資家たちが、

そろそろ値が上がるだろうと根拠もなく買い始めたり、

同じように、危なそうだなと根拠もなく売ったりする、

その吹く風のような実体のないものなんです。


199年代前半まではね、

日本もちゃんと企業と人が信頼関係の中に力を合わせて頑張っていた。

ところが経営者が人材の方を見ずにそっぽを向いちゃったのですね。

派遣会社の方ばかり向くようになったのです。

最低限必要な人材だけ残して、後は必要な時に派遣に頼る。

油に火を注いだのが1998の派遣法改正ですね。

橋本元首相が、誰でも派遣会社して結構ざますわよ、とのたまわれた。

派遣会社はどんどん増えて行くのですね。

そして派遣社員の上前を撥ねて懐を肥やすのですね。


そしてまた、企業は派遣のみならず、アジアからの出稼ぎ労働者も積極的に雇うようになった。

賃金が安くて済みますから。

そうやって企業は人材との信頼関係を打ち捨てて、

日本は基礎体力さえ失うことになってしまったのです。


これではね、元気になりようがない。

悪くなる一方でしょう。

増してや大震災や福島原発での被災、電力不足、、、、、、

復興が遅れるのも当たり前なんですね。


まあ、おっさんはいつまでもじっとその様子を眺めながら

時折にここで小声でぼやいておりますでしょうけどね。。。。。。



間の空間



おはようございます。

台風6号が近付いておりますようですけど、

朝起きて、また変なこと考えちゃったおっさんです。


あのね、

二本の木の間の空間はね、いっこ、なんです。

三本の木の間の空間は、にこ、なんですね。

これをね、円形に10本ならべると、

あらら、間の空間はじゅっこ、になっちゃうのですねえ。

変ですねえ。


え、でも、ちょとまてよ。

そうではないのです。

円形に並んだ10本の木の何れかの二本で構成される間の空間の数は、

10(一本目の木の選択可能数) × 9(二本目の木の選択可能数)

ということで、90なんですね。


いやいや、それだけではないのです。

地球をぐるっと一周する側の間の空間も考慮に入れましたら

そっちの方の地球を周る側の間の空間の数は

10 × 10 で100こあるのですね。

ですから

ぐるっと10本円形に並べられた木の間の空間は190こ、なんですね。


木が一本だと、間の空間は、1

木が二本だと、間の空間は、4

これが正解なんですね。


まあ、この木がもし、地球のような惑星上に存在するという前提で、ですけれども、、、、、、


うどん屋、疲れ果てる編集 | 削除
これはね、あるうどん屋さんの話なんですけどね、

生まれつきにおうどんが好きで好きでたまらない。

高校を出てすぐに四国に渡りまして、讃岐うどんの店で見習いを始めるのですね。

27歳の頃でしょうか、一軒のうどん屋を大阪に開業しまして、

ずっと今まで頑張ってきた。

ところがね、余り人気が出ない。


うどんを打つ腕には間違いはないのです。

美味しいのは美味しいのですね。

それでもいまいち客が来ないのですね。


ご主人は悩みましたね。

うんと悩みました。

朝から晩までうどんを捏ね、ダシをとってかえしと合わせ、

次第にそれがなんだか楽しくなくなって来たのですね。

今日は休もうかなあ、暫く休もうかなあ、

今日も客は来ないんだろうなあ、

いい加減嫌になっちゃうよなあ、

と、次第にうつむき加減になって参りまして、


で、そんなご主人を見兼ねて奥さんが声を掛けるのですね。

実家の長野に帰って暫く休養しましょう。ってね。


そんなわけで長野に帰ったうどん屋夫婦。

でもね、ご主人はやっぱりうどんが打ちたいのですね。

うどんを打って人に振舞う。

みんなが美味しい美味しいって食べて下さるのです。

ご主人はなんだか忘れてたものを思い出したようでね、

なんだか嬉しくなっちゃいまして、

店にいるときより余分にうどんを打っているのですね。


でね、なんで店にいるときにうどんを打つのが嫌になっちゃったのか考えてみた。

こんなにうどんを打つことが好きなのに、何で嫌になっちゃったのかなってね。

でね、次第に分かってきたのですね。


そうかオレはみんなが美味しいと言ってくれることを望んでいたんだ。

それで客が来ないからついつい元気がなくなっちゃった。

求めるからいけないんだ。

客が居ようが居まいがどうだっていいんだ。

オレはオレが美味しいと思ううどんを楽しみながら打ってたらいいんだ。

ってね。


そうして大阪に帰ったうどん屋は目の色が変わったようになって、

店にもなんだか花が咲いたようになって客で賑わい始めるのですね。


これはね、神霊の意識と共鳴したからですね。

世の中、当たり前だと考えられておりますことでも間違いは多いものです。

ひょっとしてその殆どが間違いかもしれないぞ、って私などは感じますけど、

反省する、内省する、

それは心の中の当たり前の日常と考えていたことに焦点を合わせて、

光を投げかけて考えてみるのですね。

そうしておりましたら、

次第に本質が見えてきて、間違った考え方や生活習慣、条件反射が現れてくるのですね。

そうしてそれを修正することによって運が開き始めるのですね。


それこそが神霊のお慈悲ではありませんか。

その繰り返しでね、必ず神霊の意識と共鳴するところまで行けるのです。

導かれるのですね。



人を動かす モスラを動かす



ユーチューブでモスラの歌を視聴しておりましたおっさんです。

モスラを動かすのも、如来を動かすのも、同じなんです。

菩薩の癒しの波動を受け取るのも同じです。

心がこもっているからこそ、歌声に乗って菩薩の癒しの波動が伝わってくる。

そうしますと、涙、涙、ですよ。

全ての人が感涙に咽びますでしょう。

ザ・ピーナッツさんの歌声は流石なもんです。


ところがね、これを一般人がいい加減に歌いましても、

菩薩の癒しの波動どころか、モスラだって動かない。

送霊(そうれん)の行列なんですね。

暗ーい、暗ーい、歌声なんです。

それはね、半音下がってしまっているから。

口角が下がって、本当に送霊の行列のように、とぼとぼとした歌声なんですね。


でもね、希望を持っている人は必ず口角が上がっているのですね。

ですから半音あがるのですし、

悲痛な叫びが表情に表れるのです。

その形から生じる心が菩薩を感動させ、

癒しの波動を招き、

人々を感動させ、

モスラを動かすのではありませんか。


七夕に何かを願うにしても、

送霊の行列が何を願いましても、

乙姫様も彦星様も知らぬ存ぜぬでございましょう。


そこに神理があるのですよ。


モスラを動かすにも、

七夕に願いを叶えるにも、

菩薩の癒しの波動で人々を感動させるにも、

いい加減ではいけませんし、

送霊の行列でもいけません。


口角を上げて、

上を向いて、

真剣に魂を成長させよとする、

その基本の姿勢があってこそ、

如来や菩薩の癒しや救済は生じるのではありませんか。


今、地上は地獄の価値観に塗れております。

権力や威厳といった力による支配が罷り通っておりますでしょう。

ですから誰に取りましても生き難い社会になってしまっているのです。


100人おりますたら100人が、

一万人おりましたら9999人が、

そういった地獄の価値観に囚われておりますでしょう。


でも、天の意識は全くの正反対なんですよ。

神の法による自由と平等の意識が当たり前なのですね。

ですから、互いに尊重し合うことができる。


ですからね、

この地獄の様相を呈しております地上に天の意識を掲げようとすれば、

そりゃあ口角を上げて前向きに上向きに訴えなくてはいけない。

如来や菩薩を、その悲痛な叫びの波動で揺り動かさなくてはいけないのですね。

そうやってこそこの地獄の様相を呈した地上に、

天の波動が伝わって行くのです。

光の波が及んで行くのですよ。


私にはカメハメハと言いますものがどんなものかは存じませんけど、

恐らくはそれに近いものがあるのでしょう。

そんな風に人の心を変えて行くことができるのではないかと思いますよ。



長い闘い



それは6月中旬から始まったのさ。

レンタルサーバー事業者と連絡が取れなくなって、

結局連絡は取れたけど、廃業するらしくて、

レンタルサーバーが使えなくなってしまうわけですから、

サイトのCGIの部分が全く動かなくなる、ってことなんですね。


それで、んじゃあ自宅サーバーをIISで作ってフォームの機能を代替させようかなってんで、

頑張って新しいWebサイトを作っていたのですけど、


実はね、Windows ServerというOSしかメールのエージェント機能が入っていないのですね。

おっさんのXPのOSではCGIからメールを送ることができないのです。

たとえばこれを、Apachiを導入しても同じなんですね。

CGIからメールの送信ができない。

それでメールで送らないでデータはデータベースに入れちゃえってんで、


プログラムを作ろうシリーズのVisualWebDebeloper2008

を参考に同時に10人しかアクセスできないIISサーバーを構築しようとしていたのですけど、


SQLサーバーが反応しない。

どうやっても読み取り専用ですってでちゃうのです。

で、今朝ようやくその原因が分かりまして、


いやあ、難しいもんですね。

この書籍はVistaのOSと、

VisualStudio2008

SQLサーバー2005

という環境の下で解説して下さっているのですけど、


利用可能なOSにはXPもあればVistaも7もあるのです。

VisualStudioには2005、2008、2010とあるのですし、

SQLサーバーには2005と2008とあるのです。

その組み合わせは18通りなんですね。

そしてそのひとつでもバージョンが違ってしまいましたら、

そのマニュアルの通りには行かないのです。


こまったもんですねえ。


結局、ちょと重かったので実稼動は見送ることにしましたけど、

同じようなことをしようとされていて、

同じような現象に苦しんでいる人は多いのではないかとおもいますね。


OSがXPのProfessional版の場合でしたら、

@エクスプローラのツールメニューの中のフォルダオプションですね。

表示タグをクリックして、その中の「簡易ファイルの共有を使用する」のチェックを外すのですね。

Aそれからエクスプローラでc:¥Inetpubの下のデータベースのテーブル関係の入ったフォルダに”コンピュータ名¥ASPNET”というユーザを作って書き込みか変更の許可を与えるでのですね。(ここはマニュアルどおりです。)

@の設定ひとつ違うだけでAのセキュリティー画面が出てこないのですね。

ややこし話でございますね。



体罰必要論



世の中には、未だにそういった、

体罰は躾のためには絶対に必要なのだというような、

まるで戦中から時間が止まってしまっているような、

偏狭な思想を頑なに守り続けております方がいらっしゃるようで、

戸塚何某とかが一時社会問題になったこともありますけど、

お粗末としか言いようのない残念な方々でございます。


私は、そういった方々は一度あちらの世界に戻ってしっかりと反省し直して下さるしかないかなと、

思うわけですけど


たとえばペットにだって体罰をもって接するとどのようになるのか、

考えてみられましたらすぐに分かりそうなものなのですけどね、

逃げ出そうとするか、

人に噛み付くか、

怯えたような目になって人を怖がるようになるか、

何れにしましても豊かな心の自由を失って社会に適合できなくなるのですね。


成績だって下がりますでしょう。

社会のお荷物になりますでしょう。

精神の病だって患いますでしょう。


一番可哀想なのはね、

不調和な心を抱え続けて苦しむ被害者なのですね。


おっさんにも経験があるから言うのですけど、

どうして世の親たちはそのような愚かなことをなされるのか、

それで子供が従順になったり、

信頼関係が築けたり、

すると思っていらっしゃるのでしょうか、


普通に、たとえば一般社会で暴力を振るう

それとね、

家族の権力者が構成員に暴力を振るう

それのどこが違うのでしょうか。


家族だからといってその反応に違いがある、

なんてもしお考えなのでしたらね、

どういった根拠で一般社会と家族関係に違いがあると思うのか、

考えてみられましたら良いように思うのですね。


そういうふうにね、

普通に考えてみられますだけで家族の在り方は自ずと見えてくるはずなのですね。

それが見えないとなりますと、よほどの節穴か大ばか者ということになりますね。


今でも、しかも政治家さんの中にもいらっしゃるようですけど、

時代が変化しても今なお心の中に戦時中の思想を抱えている。

これは果たして神の子供であろうか、悪魔の子供であろうか、

私などは疑わずにいられなくなるのでございますね。



ほとけのみち



ほとけ、という悟りを開いた者の魂の大きさはそりゃあ大きいものです。

大仏、なんてものではないくらいに大きいのです。

お釈迦様は悟りをお開きになられました折に宇宙を眼下に見下ろしたそうでございまして、


ところがね、そうではない人の魂の大きさは、

そんなには違わない。

五十歩百歩、

だれが偉いとか偉くないとか、そんなことは微塵もないのですね。


現世で名誉を受けた人も、たまたまか、

何らかの理由で霊的世界のお力添えがあって、

そうなっているのですね。


勿論、本人の努力もあったのでしょうけど、

努力だけではどうしようもないのがこの地上の定めでありまして、、、、、、


魂がでかい。

ですから人は生まれて参りますと、ガタイのでかいのが人格者なのだというような

まあ、滅多にはいらっしゃいませんけど、そういうお考えになられます方もいらっしゃるのです。

これはね、ないない、ですね。


ただ、魂がでかいのはね、

光の入る器がでかいってことなんですね。

愛の量が多いってことなんです。

何度も何度も、地上での厳しい修行を繰り返して、

器を次第に大きく実らせて行ったのですね。

それは一回の転生で成るようなものではなくてね、

約二千年に一サイクルの転生を何億年と繰り返して、

いや、もっとかな、

ようやく仏に至るのですね。


さいばばさんなんか、きっと素晴らしい魂だったんだろうなって、

おさんは感じるのでございます。



もののけ姫



昨夜、やっておりまして、何度目かになりますけど拝見しておりました。


神は人に、自由と想像力を、そしてまた、そのための言葉というものを与えられました。

そしてシシにはシシの、

生き物全てその種族に特有のものを与えられました。

それは種族の掟であり、課題であり、


私は、人が一番厄介な課題を与えられたのだと考えております。

支配するためではなく、調和を生み出すという課題ですね。

その課題にさえ気付けなかった人類は、地上を不調和の極みにしてしまっております。

そして、人類がもっとも優秀なのだと、その課題の上にあぐらをかいてしまった。


課題が厄介だからこそ、神は人類に素晴らしい能力を与えて下さったのですね。

それに人類は気付けずに、しかも心まで見失ってしまうというお粗末な状態が、

それが今現在なのですね。


科学や文明は素晴らしいものです。

でも、心を伴ってこそなんです。

心を失った科学は全ての心あるものを不幸にしてしまいますでしょう。


ジブリはそのことを知ってか知らずか知りませんけど、

美しい物語に仕立てたのですね。

これもきっと神のお導きなんでしょう。

そういう役割を担って宮崎さんやその他のスタッフが今生に生まれてきた。

そうではないかと思うのですね。


はりつめた〜ゆみの〜〜♪