ブログより転載(2012年3月)

 



神の裁き



いや、正式には「神の法に基く自らの真心による裁き」なのでありまして、

決して、神が自らの子である魂を裁くことはないのですけど、


人は、地上にありましては沢山の罪を犯します。

盲目であるが故に、

地上が混乱の中にあるが故に、

気付かないうちにも、人は沢山の罪を犯します。

ですから、悔い改め、懺悔といいます慈悲が与えられているのですね。


ただ、それでも悟らないのが人なのでありまして、

反省すれど、懺悔すれど、何度でも同じ過ちを繰り返してしまいます。

それはちょっとしたことで心が曇り、視野が狭まり、

自分のことしか見えなくなって自己中心的な考え方をしてしまうからなのですね。


そして、最後の時、

臨終の際には「神の法に基く自らの真心による裁き」を受けることになります。


この裁きを恐れて逃げ回っているのが魔物でありまして、

魂が天に戻るためにはどうしてもこの裁きを受けなくてはいけないのですね。

そしてまた、この裁きがあるお陰でね、

魂はその重い罪と言う荷物を天にまで背負い込まなくても済むのです。


さて、ご自身にはその裁きを受ける覚悟がありますでしょうか。

いや、おっさんは恐いのですね。

ええかっこしておりましても、恐いもんは恐い。

旨いもんは旨いし、恐いもんは恐いんです。

やっぱりね。


でもね、

腹を括って裁きを受けますって宣言しちゃえば、心も軽くなるのですね。

全てのしがらみを振り払った潔さがそこに残るのです。

ですから、おっさんは覚悟しましたよ。


もういい。

もうわかったから、

好きにしておくれやっしゃー。

ってね。



論じます



現象界、即ちこの地上や大宇宙大自然界はね、

全てが心を伴った現われとその心から生じるエネルギーで構成された世界ですね。

その一つ一つの現われが、

その心から生じるエネルギー、つまり愛に基く役割を持って、

ただその役割を全うするために、

地上に生まれて来るのです。

ですから、愛に基かないものは役割でもなんでもないのですね。


人を愛するため、大宇宙大自然の全ての存在を愛するため、

桜だってそうでしょうし、

たとえばパソコンの部品一つ一つを取りましてもそうでしょう。

自ずと愛に基く役割を只管にこなしているのです。

ですからパソコンだって彼らが寿命を迎えない限りは正しく動作するのですし、

人間の造り上げた科学文明も彼らの愛による奉仕のもとに存在するものなのですね。


愛による行為は万物を潤し、

愛によらない行為は自らを飢えさせるのです。

愛による行為のみが貴重なものであり、

愛によらない行為は自らの学びにしかならない。


地上に降り立ち、愛の行為を実践して一生を終えるものはなんと有意義な人生であり、

地上に降り立ち、がみ合い憎しみ合い自己中心の想念行為で一生を終えるものは

なんと無意味な人生なのでしょうか。

地上で命にしがみついてどんなに永く生きたからと言いましてもね、

それは大宇宙大自然界を汚した以外は何もないのです。


与える愛が感謝となり、報恩の行為となってこの世界に満ちて行く、

それが地上の、大神霊体の中に存在する世界全ての本来あるべき姿であって、

そこに本当の神霊意識体としての幸せが生まれてくるのですね。



不思議と申しましたら



気付かなかったのですけど、

昨年出雲大社に参拝させて戴きました時の写真ですけど、

お空にも注連縄があるのですね。


明神様がやっていらっしゃるのか、

はたまたそうではない何らかの意識がやっているのかは分かりませんけど、

パワースポットと言われる所以ですね。



追加の七不思議



いや、あのですね、

一つ前の記事で「おっさんの七不思議」とか言いながら、

3つしか出していなかったのですね。

まあ、7つもないのですけど、不思議なことが色々とおっさんの人生の中におますので、

書いておこうかと思うのです。


それでね、4つめが、光の玉ですね。

朝に金色の光の玉2個、時折に銀色が1個、オレンジが1個、

毎日のように飛んで参りますわけでございます。

多い日には4個、少ない日には2個

いえ、オーヴではないのですよ。

光の粒子のようなものなんです。


そんでもって5つめが、予知夢ですね。

一昨年の12月に、どこかの研究施設で米を洗浄して放射能を取り除いている夢を見ちゃったものですから、

もう大変なんです。

その翌年、つまり昨年に東日本が大震災があったわけですけど、

このブログの2010年3月3日の記事を読み返して見ますれば、、、、、、


まあ、誰でも予知夢は気付かない間にも見ているのでありましょうけど、

つくづく夢はメモって置くべきだなと思いましたです。


まあ、おっさんの不思議はそんなところでね、この5つなんですけど、

どうしても数を合わせるとしますと、

おっさんの部屋には寝具がないと言いますことと、

滅多に米を食さない、と言いますこと、

それでまあ、7つかいなぁ。と思うわけでございます。


世の中的に見ますと変わった人間なのでしょうけどね、

まあ、こんな変わったおっさんが一人おりましてもよろしやんか、

そんな風に考えるのでございますよん。



手相



おっさん七不思議、ってなものがございます。

いや、七つもないのですけど、

一つにおっさんが究極の晴れ男だと言いますことと

二つ目が、手に仏眼紋があるのですね。

いつの頃にできたものかは分からないのですけど、気付いた時にはできていたのです。

そんでもって、三つ目が神秘十字ですね。

これを持っておりますと神様から護られているのだそうで、

スピリチュアルなことに深くのめり込むのだそうでございまして。

これもね、いつの頃からかでき始めましてね、

一個、二個、三個と増え始めまして、

手のひらの真ん中に横一直線に三つ子の神秘十字があったりします。


いや、あのね、最初はなかったのですよ。

でもね、神霊との対話を重ねておりましたら、

できてくるのでしょうね。

まあ、護られているという実感はありませんけど、

いや、それよりも厳しく厳しく導かれておりますようにも感じますけど、


その一直線上にスタアのようなものがあったり、

形の崩れた大きなゴボウセイのようなものが見受けられたり、

いや、牛蒡星ではないのです。

星の形ですね。

それもね、恐らく神霊との対話を重ねることで現れてきたのではないかと思うのです。


いや、それを持っている人は宝くじに当たりやすいということでしたら大喜びなんですけどねぇ、

別段何もないどころか、

しゅごれに無碍に扱われておりますような感じさえして参ります。


どういうこっちゃ、これは

ですね。

或いは、ひょっとしたら悪魔の紋章なんではないかなって考えてしまいますね。


まあ、手相で人生が決まるわけでもなく、

おさんはこれからも自由奔放に生きて行くわけでありますけど、


素麺でもゆがくかな。

あはは



ある捉われ



今日一日をどのように生きるべきか、或いは

これからどの方向に向かって歩を進めるべきか、

神でさえ、守護霊でさえ、あなたにそれを求めてはいないのですね。

自分自身の好きなように、好きな方へ行けばいいのです。


どのような行動に出るか、

どのような想念を持たなくてはいけないのか、

そんな心配で心を捉われることなくね、

ただ反省と、愛と感謝の調和の中に、

ある意味覚悟を持って日々を楽しく過ごして欲しい、

と神霊も守護霊も魂の仲間たちも願っていて下さっておられますでしょう。


捉われすぎる余りに心の自由度が失われてしまう。

それもまた、愚かなことではありませんでしょうか。


あなたがどのように今日一日を生きようとそれは構わないのです。

ただね、就寝前には心を調和させ、内なる神との対話を行う、

内観を行うことで、

守護霊様も必要な時には導いて下さるようになりますでしょう。

但しね、彼らはそんなに必要でない時は導いては下さらない。


そしてまた、執着が多ければ多いだけ、

心の安らぎが失われ、神霊との対話が困難になるのだと、

それだけは心しておかれますことでしょうね。



孤独死、本質のすり替え



何故、孤独死、孤立死という表現を使うのか。

それは問題の本質のすり替えではないのか、とおっさんは感じるのです。


あのね、

死亡の要因

・病気による急死(慢性の病気が悪化したものを除く)

・病気による死亡(助かる見込みがなかった場合)

・病気による死亡(助かる見込みがあった場合)

・餓死による死亡

・凍死による死亡

・事故による死亡(救助を期待できなかった場合)

・事故にる死亡(救助を期待できた場合)

・自殺による死亡(止む無き理由がなかった場合)

・自殺による死亡(止む無き理由があった場合)

・殺人による死亡

・寿命による死亡(延命措置が期待できなかった場合)

・寿命による死亡(延命措置が期待できた場合)

とね、凡そこれだけなんです。

勿論、その一つ一つに対して、経済的な理由の有無は判断されるべきだとは思いますけど、

それぞれによりまして問題の所在も異なって参りますでしょう。

責任の所在だって違って参ります。


これをね、十把ひとからげに孤独死、或いは孤立死としてしまいますと、

問題の本質は見えなくなります。

いいですか?

一人で死んで行くことには何の問題もないのですよ。

それを孤独死・孤立死のような表現に変えて、いかにも一人で死んでいたことが問題のように、

最近のマスコミさんは報道しますでしょ。

それはね、問題の本質を覆い隠そうとする悪ですよ。


偏差値の高い大学を出てこの程度の仕分けしかできない。

政治家も、マスコミもこの程度なんです。

嘆かわしくなりますよ。全く。



かみさまのいうとおり



運気の十二年周期説を確信を持って唱えておりますおっさんです。

いや、この件の詳しいことは過去の記事をご参照下さいませ。

いや、それでね

十二年でおさんはかなりの能力を備え、またかなりの知識を養いました。

その前の十二年もそうなのですけど、

それは洗い出して整理整頓してみなくては幾つあるのかは分からないのですけど、

少なくとも十二年一周期に10以上のスキルは身につけているんです。


癒しのスキル

言霊のスキル

パソコンのスキル

プログラミングのスキル

神霊と繋がるスキル

断食のスキル

言葉を紡ぎ出すスキル

祝詞を奏上するスキル

人間関係のスキル

神理のスキル

人を読み解くスキル

魂の想いを読み解くスキル

物事の本質を見抜くスキル

えとせとらえとせとらえとせとら♪


これらのどれをとりましても「魔法」としか言いようのないものばかりですし、

おっさん、魔法を使えるっちゃあ使えるんです。


でもね、おっさん自分のことだけは今以てどうすることもできない。

難しい問題です。

人間はね、

恐らく自分のことは人に面倒を見てもらい

人のことは面倒を見てあげる

という生き物なんです。

だって、神様の子供なんですから、そうなのですね。

それ故に友達がいて、結婚と言うものがあって、親兄弟がいるのですもの。


ただ、おっさんは業が深い。

業因縁がやたらに深く、複雑に絡み合っているのですね。

それはね、今生だけではとてもとても解け切れるもんではないのです。

おさんは感じているのですよ。

無理して業因縁を解こうとすれば更に新しい業因縁を生んでしまうのですね。

だからね

無理しても仕方ない。

欲に執着して、無理して欲を叶えたって仕方ない。

欲を離れ、自然と来世にでも、

或いは来来世にでも、自然な形で望みが叶うように、


かみさまのいうとおり。


そうあるべきじゃないかなってね。

ひしひしとかんじているんです。

はいな。



真剣に生きる



皆様は、人生を真剣に生きていますか?


真剣に生きる。

それは本当に難しいことでありますように思います。

おっさんも真剣に真剣に生きようとしたことが、

幾度かありました。

その度に挫けさせられるのですね。

挫けざるを得ない状況に陥っていくのですね。


でもね、でもですよ。

少なくとも如来様は真剣に生きているんです。


いや、甘えが許されないと言うことではないのです。

真剣に生きることができる人はそのように生きればいいのですし、

喜びを求め豊かさを追い求め安らぎを追い求め自由を追い求めて生きたい人はそのように生きればいいのです。

それはね、その人の段階、段階で、

或いは課題や学びの内容で様々でしょう。

人生色々ですね。


でもね、それではやはり悔いが残るのですね。

一日一日を真剣に生きる。

おっさんももう少ししましたらまた真剣に生きてみようかと思います。

桜が咲いて、散ってからですね。


たまにはそんなことも良いのではないかなと思うのです。



東日本大震災に想う



今日は関東大震災後一年ということでテレビではその話題ばかり報じられておりました。

似たようなことばかり繰り返し繰り返し、、、

まあ、災害の情報を今後に役立てると云いますことでは価値のあることなのかも知れませんけど、

でもね、でもですよ、

人がどんなに祈ろうとも、願おうとも、

今のままではまた同じような震災は生じますでしょう。

人の視点が今のように低いところに在り続けるなら、

繰り返し、繰り返し、ですよ。


神霊の法の中にはね、

求めるものは与えられる、

と云いますような法則がございます。

世が乱れれば災害も増えて参ります。

もっと分かり易く申しましたら、

自殺者が多ければそれだけ災害も多いのです。


人はそれを神の怒りと考えますけど、

いえ、違うのですよ。

気付いて、世の乱れを修復しない限り、

自殺者の数を減らそうとしない限り、

気付いて差し上げない限り、

自然界は何度でも牙をむきますでしょう。


少し深い道理に気付くことができましたら、

その因果関係は分かりますよ。

手に取るようにね、ああ、こうだったんだなって、理解できますよ。


そしてもっと酷くなるようでしたら富士山だって噴火しますし、

天変地異だって生じますでしょう。


神の怒りにふれ、アトランティスのようにね。



孤独死



東京の立川市でまた老人の孤独死がありましたようで、

テレビ朝日などではニュースに取り上げておりましたけど、

いや、ちょっと待って下さい。

おっさんには分からないのです。

孤独死の、何が問題なのか、

論点は、本当にそこなのか、


人は誰でも一人で死に行くものでございます。

それに、全国民誰一人、独りでいる時には絶対に死なせない、

そんなこと無理なんですよ。


あのね、本当に慈悲があるのなら、

餓死や凍死、

治療行為を受けられないがために死んで行く命の方を守るべきでしょう。

ところがそっちには目を向けずに

部屋で誰かが死んでいた、と云いますだけで大きく取り上げられる。

何も考えていない表面的なまがいもんの慈悲としか、

おっさんにはそのようにしか受け取れないのですね。


孤独死、

それくらいええがな、

普通のことやがな、

それが嫌なのでしたら人生しっかりと生きて、

心の通い合う家族や友人を沢山設けておりましたら良いのですよ。

生きているときは自己中で人に散々迷惑をかけて、

それで死ぬ時は誰か傍に居て欲しい、

そんな我侭を国が認める、社会が認める。


偏り過ぎた盲目な慈悲とはまさにこのことではないかと思いますね。



昨夜の夢



昨夜は、嵐のメンバーが遊びに来て下さいまして、

でもここ、日本ではないのですね。

ラーメンを食べて戴きまして、

袋に入ったケーキとかチョコとか2種類のお土産を持って帰って戴こうとしたのです。


いや、おっさんの分のラーメンはなかったのですよ。

足らなかったのです。


そうしましたら、嵐の一人が、

ケーキの袋を開けてみて、

そのケーキが実は生であることを発見するのです。

これはね、なんか自宅でオーブンで焼いて食べる用のケーキらしいのですね。

それで、なんかいびつな形の巨大なオーブンで焼こうとするのですけど、

火の着け方がまず分からないのですね。

探しましたら足元にレバーがありまして、


火を着けましたら今度は煤で真っ黒になった毛虫みたいなのが、

逃げ出して行くのです。

まあ、まっくろくろすけみたいなのですけど、

虫ですからねぇ。


なんかそんな夢でございました。

バゼルアイジャンかアルメニアか、その辺りではなかったかと思うのですけど、

この家も過去に夢に登場しておりましてね、

確かその時は、天井から水が滝のように落ちてきて水浸しになっておりました。


なんかね、寝る時に神に祈り、語り掛けて心を調和しておりますと楽しい夢が見れるようですね。

昨夜は確か、長い時間眠りに付けず祈り続けておりましたように思います。



中国と北朝鮮、おっさんなりの解釈



いや、おっさんは時に勝手な解釈をするのでございます。

日本の西側が倭国と呼ばれておりました頃、

まあ、卑弥呼さんがいらっしゃいました頃ですなあ。

倭の中でも一際強大な国が邪馬台国でありましたわけで、

そこを卑弥呼はんは統治していなさった。


邪馬台国は何度か朝鮮半島に戦いを挑んでおりましたわけですな。

そして、朝鮮半島の南の方に伽耶という小部族が集まった場所があるのです。

まあ、それ以外のところは新羅と百済、高句麗が国家を築いていたのですけど、

そこに邪馬台国は進軍して、村を作っていたのでしょうな。

任那(みなま)なんて呼んでおりました。

任された国って意味なんですな。

まあ、勝手に邪馬台国の連中がそのように認識しておりましただけで、

新羅も百済も高句麗も、それを国とは認めていなかった。

増してや倭人が治めているなんて、冗談にも程があると考えていたのですな。

まあ、その伽耶地方も新羅によって制圧されてしまいましたわな。

中国が、魏・呉・蜀の三国で分かれたいた時代のことです。


その三国が、宋という国と、北魏という国に変わりまして、

それから隋になりました。

その頃が丁度聖徳太子さんの頃ですな。

中国に遣隋使を派遣するわけです。

有名なのが小野妹子さんどすな。


小野妹子はんは中国と大和国の対等性を認めさせようとしたのですな。

ところが中国は強大な国でありまして、

高句麗も、新羅も百済も、隋の属国にしてくらはい、

他国に責められた時には護って下さいと貢物を持っていってるのですな。

大和国だけがまあ、貢物もせんと、

いや、それならそれで困っても助けてやらへんでってことで、

何やら金印を妹子はん、貰ってきよりましたわな。

まあ、海を隔てた国やし、好きなようにしたらよろしおますがな、ってところなんでしょう。


でね、それから何度か、大和国は朝鮮半島に攻め込んでいますな。

植民地が欲しかったのでしょう。

中国大陸に行くにもええ情報を仕入れてくるにも、

一々舟で何ヶ月も掛かっておりましたら大変ですからなあ。


ところがそこはやはり属国であるもんの強みで、

隋の援軍で新羅や百済は大和を悉く粉砕しよるんですわ。


隋が唐に変わり、

その時も新羅や百済、高句麗は貢ぎもんをしたのでしょうなあ。

やっぱり。

白村江の戦いっておましたがな。

斉明天皇の時ですな。

九州北部に本拠地を設けて舟で朝鮮半島に攻め込みましたわな。

その場所が白村江(はくすきのえ、はくそんこう)と呼ばれた場所でね、

やはりそこでも唐は新羅軍に味方しますわな。

勿論ですよ。

大和は貢物をしていないのですから。


中国と朝鮮半島はそういった主従関係がずーーーーっと続くのですな。

豊臣秀吉はんも朝鮮半島に出兵しましたけど、

その時も明の援軍で秀吉はんは逃げ帰ってきはりましたやんか。


恐らく今もずっとその関係が続いているのでしょう。

ですから中国も北朝鮮には冷たく当たれないのでしょう。


丁度ね、北朝鮮のある場所に、昔は高句麗があったのですな。

おっさんは、これを「鼻が高くて麗しい」と勝手に解釈しましたけど、

韓国人が北朝鮮の女性を美しいと見るようにね、

やはりその地方には鼻の高い民族がいたのでしょうな。

それが北朝鮮なわけですな。


まあ、そんなことを考えるおっさんでございますよ。

あははは