ブログより転載(2012年6月)

 



コンビニ、レシート渡さない問題



このところ、夜は寝たくなくて起きているおっさんです。


今夜も、例の如くコンビニで百円程度の買い物をして朝を迎えたおっさんです。

雀さんが、もううるさいったらないのでございます。


ところでね、コンビニなんです。

以前も書かせて戴きましたけど、レシートを下さらない。

少し前まではね、

清算後に、「レシートはよろしかったですか」というつぶやきと共に捨てられていたんです。

でね、それもまぁかわいかったと言えばかわいかったのです。

今に比べるとですけどね。

最近はもう、お釣りを渡すや否やゴミのように捨てられるレシートちゃん。


それでね。おっさんはコンビニさんの本部さんにクレームしたとですよ。

いやまあ、これが初めてではないのですけど。

その文章がこうです。




客には受け取る権利も受け取らない権利もありますけど、

あなた方には渡さない権利などないのですよ。

少なくとも(釣銭を渡した後であっても)レシートを差し出す義務はあるのです。

もしあなた方が、渡さない権利があると主張なされるのでしたら、

それも良いでしょう。

私共はレシートを渡して下さらなかった店に対して、

翌日以降に取引明細を書き込んだ領収書を要求するだけです。

少なくともそれは商法で認められているのですから。

小売業を営んでいらっしゃるあなた方にそういったことを詳しく説明しなくてはいけないのでしょうか?



ってね。


嫌がらせと思われてもいいのね。

ただ、それが正論である以上はおっさんも譲らないですよ。

感情論でもなんでもないんです。

思想の押し付けでもなんでもない。

そっれが道理なのですし、おっさんはおさんの権利を主張しているだけなんですね。

どちらかと言いましたらおっさん程感情に左右されない人間はおりませんでしょう。

百人おりましたら百人とも、おっさんよりも感情で判断する人間でございましょう。


レシートは渡して下さらないと困るんです。

渡さなかったら本当にやっちゃいますよ。

翌日の領収書攻撃。

あはは


でね、皆様も是非お試し下さいましたらと思うのでございますよん。



釜ヶ崎



浄水場ではイワツバメが大量に死んでおり、

暴走車が頻繁に人を撥ねるような昨今でございます。


イワツバメの大量死は去年もありましたそうで、今尚その原因が分かっていない。

過去に鶏が大量死したケースでは、何らかの病原菌であったことが多いのですけど、

浄水場故にそれを否定していらっしゃるのか、或いは本当に解明できていないのか、

そこら辺のところは分かりませんね。


先日の大阪市南部の暴走ワゴンは何やら覚醒剤の反応がみられましたそうで、

覚醒剤は脳に著しい影響を与えますから、

きっと海馬も活性化するのでしょうね。

海馬は心と繋がっていて記憶を呼び出す部分ですから、

表面意識、つまり幽界との情報のやり取りが一時的に不調和なほどに増大するのですね。

そんでもって表面意識に魔物が巣食っておりました場合に、

今回のようなケースに発展してしまうのではないかなと思うのですけど、


さて、暴走車は大阪市南部の通天閣付近の新世界辺りから、

釜ヶ崎、飛田新地辺りを暴走したようですね。


釜ヶ崎は昔は日雇い労働者の街でありまして、

それがホームレスの街になり、生活保護の街になり、

最近はテレビでも頻繁に取り上げられておりますけど、

時折に死体が転がっておりますような治安の悪いところです。


十年ちょっと前に暴動があったのですね。

ひき逃げされたか何かで瀕死の状態にあるホームレスに警官がムシロをかぶせて

死体として処理しようとしたのですね。

それが暴動の原因ですね。


ここらへんは「じゃりん子ちえ」の舞台でもあったのですけど、

最近は生活保護費をその受給者から巻き上げようと暴力団も入り込んでいるようでして、

覚醒剤が売られていたりタコ部屋を斡旋していたりしているようでございます。


まあ、ホテルは異様に安いのですけど、

一般人は絶対に足を運んではいけない場所ですね。



悪業を断つ方法論



悪業を断つ、つまり魂の癖を修正するにはどうするべきか。

それはね、もうその悪業で殆どの人が悩み憂え、苦しみ喘いできたのです。

でもね、どう考えてもそれは

経験を重ね、

深い深い真心レベルでの反省と神様への懺悔、

自ら変わることの決意、

それから与えられる課題を乗り越えてステージを上げる、

それ以外にないのですね。


それをね、どこぞの宗教団体は

勧誘をしなさい、施し・寄付をしなさい、お題目を唱えなさい、ってね


因果の因と果の間に何の因果関係もないような教えを仏法として示しているのですね。

ったくその末法臭さったら反吐が出そうになりますよ。


でもね、それで騙されちゃう人が沢山いらっしゃるのですね。

盲目なのは仕方ないのかもしれませんけど、

目を見開いて考えてみようとする気持ちさえないのでしょう。


何が楽しくて人類はそのようなうそつきに自ら騙されようとするのか、

全くおっさんには訳が分からないのです。

或いは団体に属しているだけで安心するのかも知れませんけど、

それだけでどんなに魂が堕落しておりますことかと思いますよ。


正しい考え方はもう明らかなんですよ。

その正しさを覆い隠そうとするのは魔物でしかないのですね。

神にとっては悪なんです。

そしてね、その修行者を護って下さる存在が守護霊なんですけど、

自ら守護霊に背き悪の仲間入りしようとする者はね

守護霊だって護り続けることはできなくなりますね。


ですからね、正しく歩むものには守護霊が、

間違った道を進むものには魔物が、

進む道を照らすようになるのでしょうね。



早い目の大祓い



さっきね、おっさんちでも久しぶりに祝詞を奏上させて戴きまして、

早い目の大祓いを致しました。

おっさんの心も暫くは穏やかかなと思います。


それにしましても、このざわざわしたものがなくなる感覚は一体何なのでしょうね。

不思議なものです。


祝詞はね、

日本語の言霊がこめられておりますとても美しい文章なんです。

その美しい言葉で明神様方に感謝申し上げ、お願い申し上げる。

まあ、おっさんの声も容姿も、そんなに美しくはありませんけど、

素晴らしい日本の文化ですね。


中国や韓国などは儒教ですね。

孔子や老子が義などと言い出しまして、

それはとても良いことなのですけど、ちょっと行き過ぎたところがあるのですね。

どのような国家であろうとも義を持たなくてはいけない。

なんて一方的な押し付けが義だと勘違いしていらっしゃるような節がありますね。

だから逆に国家は国民に対して何をしても良いと思っている。

思い上がっているのですね。


義でも信でも愛でも慈悲でも、何だってそうなんですけど、

それは自らに課すものであって、人に強要するものではないのですね。

そこのところを間違えちゃうから天安門事件なんかが起こっちゃう。


韓国だってそうですね。

韓国の時代物のドラマでも宮廷は民に容赦ないようですし、

一般人が宮廷に遣えるためには「宦官」なんて云って怖ろしいことを強要しますね。

犬猫じゃないのですから。全くね。


まあ、強要すれば争いになるのは当然、不調和が生じるのも当然のことなんです。

ですから儒教思想がベースにある国は心の進化が余り見られないように感じますね。

まあ、日本も五十歩百歩と言ったところでしょうけど。


日本にはこの素晴らしい神道がありますからね、

それが悪事に利用されず間違った捉え方をされず人々の生活に根付いております範疇におきましては、

必ずご加護が戴けるのではないかと思いますね。



広告論


数ヶ月前まで、おっさんは検索エンジンに有料広告を出しておりました。

まあ、おっさんは元より広告を出すなんていう世俗的な方法論が嫌いでおましてね、

しかも入札方式なのですからどんどん価格がつり上げられてとんでもないことになっているんです。

1クリック数百円〜数千円が当たり前の世界なんです。

ったく彼らも全く以て卑怯な金儲けの手段を考えたものです。


でも今までは広告を出さないと誰も来てくれないだろうからってんで、

頑張って広告を出しておりましたけど、

毎月の費用が半端なくなってくるのですね。

ですから数ヶ月前に有料広告を出すことを止めたのですね。


まあ、残金がありますのでね、単価を低く設定しまして、

残金がなくなるまで広告は出ているかと思いますけど、

単価を低く設定しておりますために全く表示されない。

あははは


まあ、無理して需要を引き出すこともないんです。

必要なご縁は全て神様が与えて下さる。

ですからね、素直に神様に任せておけば良いのですね。


この世界の、どのような業界、事業でもそうですよ。

セールスとか、営業とか、そんなものは必要じゃないのですね。

増してやDMや電話、迷惑メールなどで営業する、なんて世俗的にも程があるんです。

正常な意識を持つ人間のやることではないのですね。


こうなりましたらもう法律で企業の営業活動を禁止してしまえば良いようにも思うのです。

宗教の勧誘なんてものも当然ながらそうなんです。

なんでわざわざ需要を引き出しに、思想や教義の押し売りに来られなきゃいけないのか、

って思うわけです。


本当にね、これからはそういう価値のないものが排除されて行くような時代になって欲しいですよね。



最も卑怯な人たち



虐めとかね、社会に牙を向けたり、弱いものを虐めたり、暴力とか力で人を従わせようとしたり、

迷惑メールを送ったり、人を攻撃したり争いを仕掛けたり、人を騙して金品を奪ったり、

そんなのは最も卑怯な人間ではないかとおっさんは思うのですね。


そういうことをね、恥ずかしげもなくできる。

或いはそれが自分なりの正義であるとでもお考えなのかも知れませんけどね、

まあ、卑怯で偏狭な正義感ですね。


そんなことをするから魂は悔いなくてはいけなくなるのです。

人一倍悔いなくてはいけなくなるんです。

来世にも業となって厳しい学びを受けなくてはいけなくなるんです。


恥ずかしいと言うことが分からない。

ただ、気分が晴れて、懐が潤えばいい。

それは間違いなく魔物の所業なんですね。

心が真っ黒になって、神霊の想いさえ意識に届かず、、、


先日からオウムの容疑者が2人程逮捕されました。

恥ずかしげもなく、逃げて、逃げて、

オウムだって松本智津夫だってそうですよ。

恥ずかしいと言う意識のかけらもなくなって、

最後には魔物に心を奪われて人格を崩壊させてしまった。

信者だってそうでしょう。

洗脳されてかどうかは知りませんけど、

恥ずかしいと言う人本来の心の動きまで奪われてしまっているのです。


アレフ、とか名前を変えておりますけど、

なんかね、信者が増えているようですよ。

元信者の上祐何某とかも光の輪とかいう宗教を立ち上げておりましてね、


何故そんな不調和な魔物の棲み付いているような宗教団体に人が集まるのか、

いや他の宗教団体だって一緒なんですね。

神霊に背いて、魔物に好きにされて、神の子として、人間としての尊い人格まで崩壊させて、

可哀想だなって思いますよ。


まあ、何を信仰しようが自由ですけどね、

その恥ずかしいという感情を失った心で人や社会に迷惑をかけないで欲しいものだと思いますね。

そしてまた、少しでも早く目を覚まして下さいますように、

ご進言申し上げておきたいと思います。



オーラを観察する



夜、ですね。

薄明かりの中で仰向けになりまして、手をかざしてみるんです。

そうしてその手をゆっくり左右に揺らしてみましたら、

その手の動きにあわせて周りの空間も動いておりますことが分かりますでしょう。


いえ、眼が疲れておりましたら見えないかも知れませんけど、

調子の良い時には気とかなんかキラキラする光の放射とか、

でもって部屋中に溢れる光とか、

見えますでしょう?


薄明かりが見やすいですね。


でね、今度は真っ暗闇で仰向けになって手をかざしてみるんです。

親指と人差し指でわっかを作りましてね、

そのわっかをじーーーーーーーーっと見ておりましたら、


次第にまぶしくなってくるんです。

手を除けますと残像まで残るんです。


それがね、オーラですよ。

心の中からあふれ出した神様からの愛の贈り物なんですね。


そのオーラが強ければ強いほど、いろんなことができるようになってきますね。

身体の悪い部分にその光を入れてみたりですね。

そうしますと少しは良くなるのですよ。


でもそれは、自分以外の人に長時間やったらだめですよ。

長くても数分程度ですよ。

どこかの宗教団体なども「手かざし」なんて危険極まりないことをやっておりますけど、

無知って怖ろしいなって思います。

穢れってありますからね。誰にでもね。


長時間する時には必ず体調のよい時にね、疲れを取って、反省して心を浄化して、

オーラも穢れのない状態にしてからしなくてはいけませんね。



3つの選択肢



人生には自由に選択できる3つの道がありますね。

イタリア語では、La Strada



映画でありましたっすね。


まず最初の一本の道はね、

生きるも死ぬも神仏に任せて信ずるところの生き方を邁進する生き方ですね。


二本目の道は、

清濁併せ呑み、時には信念を捻じ曲げても命を最大限に永らえさせようとする生き方です。


まあ、三本目の道は、

泥の中で人の生き血を栄養として最大限に利を求めようとする生き方ですね。


殆どの人がこの二本目の道か三本目の道を選択されますようですね。

でも、どの道が正しいと言いますようなことは在りません。

その人が何を信じるかによって価値観も異なって参りますでしょうし、

その価値観で以てご自身が良さそうに思われます道をお進みになられましたら良いと思います。

ただ、三本目の道は今生が良くても、きっと来世に苦しまなくてはいけないのでしょう。


人生色々でございます。

一つの道しか知らず見えずその道を只管邁進していらっしゃる方もおられますでしょうし、

その道しか選択肢がなかったなんて方もいらっしゃるのでしょう。


きっとね、ご自身で決めて生まれて来られたのか、

或いは導かれたのでしょうね。

まあ、振り回された結果だと仰られます方もいらっしゃるのでしょうけどね。


でもね、他にそういう選択肢もあるのですね。

それだけでも知っておりましたら、また違ったものの見方もできるようになってくるのではないかなって、

思いますよ。



押部谷伝説



そこは山奥の深い谷でありました。

そこには平家一族の家財が隠されておりまして、その家財を守っておりますのが

平長守(ながもりのきみ)、齢(よわい)70を過ぎようかとしておりました。

やせこけて細く、その顎には長くて白い髭が伸びておりました。


岩に青竹を組み上げ、草を葺き、

そこに彼だけがひっそりと暮らしておりました。

ここに家財を隠して、一族は海沿いの須磨の地で暮らしていたのですね。


誰が好んでこのような何もない山奥に好き好んで暮そうというのでしょうか。

ただね、家財を隠すのには丁度良かったのですね。


青竹の屋根の下には槍や馬具、甲冑、人形、狛犬、珠、鏡、水瓶などがひっそりと並べられておりまして

まあ、入り口もないものですから、時折に迷い込んでこられます方もいたそうですね。

長守君(ながもりのきみ)も喜んで迎えたそうでございます。


そこにおっさんは迷い込んで行っちゃったのですね。

細い目で静かに渓谷を眺める長守君。

やはり壇ノ浦の合戦で一族が打ち破れたことを知りませんでしたね。

もう誰も戻っては来ないのですけど、

あれからずーっと待ち続けていたのですね。


長守君とおっさんは暫くの間静かに静かに語り合い、

やがておっさんは静かに目覚めたというわけですけど、


夢だったのですね。

あははは



夫婦のトラブル



夫婦間が上手く行かない。

多くの場合、想念の丁寧さ、繊細さがないことによるものであるように見受けられます。

想念が乱暴。

ぶっきらぼうで言葉足らず。

それでは何も伝え合うことができませんし、

聞く姿勢がありませんと、何も理解し合うことができないではありませんか。


思い遣り、

優しさ、

気遣い、

認める気持ち、

助け合う姿勢、

そういったものがなくては、

上から目線で見下ろしていたのでは、

一体なんのために結婚して夫婦になられたのでしょうか。


奪い合いから与え合いへ、

主張し合うばかりではなくて、

積極的に理解し合い、妥協し合うことで、

そういった様々な調和した想念行為をね、

丁寧に、繊細に行うことで、

愛は育まれて強い絆になるのではないかと思いますね。



さて、何か書くかな



いや、特に書こうと思うことがないのでおじゃって、

先週はすんごい勢いで連日のように幾つも記事を書いていたのでありますけど、

今週に入りましてからは書きたいことが出てこないのでございます。

別に何を書いても良いのですけど、

たとえば、アジサイが見ごろだすな、とか、

七段花と呼ばれます幻のアジサイのことを書いても良いのですけど、

おっさんは文章を生み出すのが苦手なのでありましてね、

自然と出てまいります言葉しか、恥ずかしくて書けない、書く気になれないのでございます。


おっさんは、自然と出てまいります言葉に意味があるのだと思っておりますし、

そこには必ず深い理があるのですね。

意味があってその文章が生まれて来るのです。


そうしてね、やはり心が調和しておりませんと、

文章は、自然とは出てこないのですね。

調和した安らぎのある心から、書くべきことは浮かび上がってくるのでありまして、

それはね、心の奥の虚空の海の中から、

ぽこぽこ、ってね、

浮かび上がってくるのでございますよん。

まあ、おっさんはこれを、「醗酵」と言っておりますけど。。。


おっさんのバックボーンの虚空の海の中からぽこぽこっと浮かび上がってまいります泡のようなもの、

それを何も考えずにただ書き出すわけでございますな。

でもね、ちょっとは考えているのでありますけど、

考えないとおかしな文章になってたりしますから。

あはは


そんなことでね

ごめんしておくれしておくれやっしゃ〜


ばいなら



明け方の夢



今朝の夢はね、

おっさんが東京から鈍行列車に乗って名古屋方面に向かっております夢でございました。

いやあ、それはそれは立派な列車でありまして、

濃紫のそれは高級感を漂わせておりましたですなぁ。


4時間掛けて名古屋へ、

おっさんはその途中の松江海岸で途中下車するのです。


いや、おっさんの魂は、松江海岸がこんなところにあると思っている。

あはは

実際は明石にあるのですけどね、なんか、夢では名古屋の近くにあるんですなぁ。

この松江海岸には実際に何度か足を運ばせておりますし、

夢の中だって、何度も訪れているのです。

ですからね、あぁ、ここはこんなところだったなあ、と言いますのが分かるのですね。

こんな階段があって、こんな細い道があって、ってね。


ただね、それだけの夢なんですけど、

いや、いつもはね、東京から一日掛けて大阪に向かう夢なんです。

そういう夢を何度も見ているのです。

ところが今回は中途半端にも名古屋を目指して、

いや、目指してと言いますか、おさんはただ、ふらふら〜っとね、

どこかに行きたかっただけなんですね。

いや、夢の中でね。

それで丁度ホームに入ってきた列車に乗っちゃっただけなんです。


なんかまた、どこかに出掛けたくなってしまいますな。

季節もそんな季節ですから。

いや、梅雨ですね。

あははは



争い癖



争い癖もまた、現代病のひとつでしょうね。

現代人は誰でも、争うことが大好きなんです。

自分目線で価値観を強要し押し付け合おうとすることで、

争いは生じますね。


そうしてどんどんその争いの炎は大きくなり、

最後には阿修羅地獄の様相を呈しますでしょう。


そこに何の価値があるのでしょうか。

どちらも傷つき、深い業を抱えてしまう。

アドレナリンを大量に放出して血圧を上げ、身体に負荷を与えてしまう。

人間関係だって上手く回らなくなりますし、社会生活にも支障が生じますね。


ですからね、

争いの種は作らないこと。

それから争いの炎は決して大きくしないこと、油を注がないこと。

なんですね。


愛を以て静かな心で話し合う。

或いはそれが適わない相手なら上手く避けることなんです。


怒りの毒ってありますね。

高橋信次先生も仰っておられましたけど、

怒りの毒は伝染しますから、

たとえ怒りの毒を取り込んでしまいましてもそのまま言い返したりしてはいけないのですね。

怒りの毒の毒の作用が静まるのを待って、

静かな心で話さなくてはいけないのですね。

どんな屈辱にも耐えなくてはいけないのです。


だって、そうしませんと争いの炎は大きくなるばかりですし、

阿修羅地獄ですよ。


周りの心ある人もね、

どちらが悪者かなんて一目瞭然なんです。

争いを仕掛ける人よりも争いを好まない人の方が正しいと見て下さいますでしょう。



未来構想



おっさんはこの地上を

誰でも安心して生まれて来れるような世界にしたいな、と思っています。

当初はね、本当にそうだったのです。

神霊は私たちが地上に生まれてきても困らないように、

必要なものは全て地上に準備して下さっていたのです。


ところがですね、

盲目で知恵もなく自信過剰な業突く張りがそのような理念など踏みにじって支配をするようになりまして、

この地上が生きていくのに困難を強いられる場所になってしまった。


自分で自分の首を絞める人間の愚かさがおっさんは恥ずかしいです。


そうして不調和で自分勝手な文明や社会制度を造り上げて自然環境さえ破壊し、

地上を地獄に変えてしまっているのです。

愛、慈悲、心、

この文明の中に、或いは社会制度の中に、

その神の与えて下さいました素晴らしいものがどこにあるのでしょうか。

かけらも見当たらないではありませんか。

たとえば国会で愛について、或いは慈悲が、心といったものが、

討論されたことがありますでしょうか?


この神霊意識体の中でね、

私たちが神霊の意思に背を向けたまま生きていけるはずがないのですね。

それは必ず不調和を生み出し、その結果社会はどんどん地獄に近付いて参りますでしょう。


慈悲なき福祉国家、

それが今の日本の姿ですね。

いえ、殆どの国の姿です。


またそんな中にありまして、

釈迦の生まれ変わりを名乗る愚か者が

日本の将来を、日本の国益を憂えるだけの映画を上映させたりしておりまして、

甚だ呆れ返るばかりのおっさんでございます。

お釈迦様はね、決してそんな一国のことだけを憂えるような狭い視野のお方ではないのですよ。

本当にくだらない人間だなって思いますね。


この世界を構成するものがね、

こんな愚か者ばかりではなくてね、

ガンジーさんとかマザーテレサさんとか

そういう素晴らしい方ばかりでしたら、

間違いなくもっと地上は住み易い世界になっておりましたでしょう。


未来は、全ての人の人権、安全、心身の平和と健康が護られるような世界にならなくてはいけません。

愛と慈悲に溢れる世界にならなくてはいけません。

そのように変えて行かなくてはなりませんね。


今の智恵なき国家とは違いまして、そのための方法論は幾らでもあるのです。

そのヒントがね、愛と慈悲を前提とした仕組み作りですよ。


さて、おっさんが次に生まれてまいります頃には、

この世界は少しでもマシになっているのでしょうか。



君が代を美しく現代訳してみるコンテストなり



いや、おっさんが勝手にやっておりますコンテストなんだすけど、

あははは


天皇の時代は千代、いや、無限に続いて欲しいなぁ

たとえば水の流れにもてあそばれる小さな石が積み重なって大きな岩となり

そこにコケが生えるまで

続いて欲しいんだなぁ


と、直訳致しましたらそういうことになるのですけど、


この、さざれ石、つまり水の流れに弄ばれる小さな石はね

即ち民のことであるよ、と

おっさんなどは主張致したいのでございます。


民が発展してその勢力を岩の如く拡大させ、

そこにコケが生すのですから、

その勢力が安定して不動のものとなるまで、

何千年でも何万年でも何億年でも、

天皇ちゃんはそこに居てちょ


ってことでありますな。


まあ、そう云うふうに解釈いたしますと、きっと怒りだす人もいらっしゃるかも知れませんけどね。

財閥であるこの○○家をさざれ石とは何事か!

ってんでね、

きっと怒り出すんです。

あははは


でも、恐らく昔の人は誰しもきっとそのように捉えておりましたでしょう。

今はね、さざれ石はさざれ石としてしか捉えられないのですね。

想像力が乏しくなったと云いますか。。。



現代人の抱える業、魂の癖



現代人は、往々にして不満症と強要癖、責任転嫁の病があるよ、

なんてことを以前に書かせて戴きました。

それに加えましてね、一つ前の記事でも少し書かせて戴いたのですけど、

孤独病といいますものがおますね。


社会に不満を持ち隣近所とも縁を断って扉を閉め切っちゃう。

そりゃあ孤独になりますわ。

それとね、出会う人出会う人に不満を抱いて悉くご縁を断ってしまわれる。

前世からの貴重なご縁がどんどんなくなって行くのですね。


そしたら一体どうなっちゃうのか、

最後には女房にも見捨てられて富士山麓の青木が原で、、、

いやいや、

おそろしやおそろしや、、、、、、


ですからね、私たちはよく考えなくてはいけませんね。

不満を持つから孤独になっちゃう

満足して感謝することを忘れちゃうからなんですね。


いや、おさんもそうなんですけど、

それでもおさんには魂のつながった仲間が何人かいるんです。

愛に生きる人

美しいものを作り出す感性の人

勇気と信念の人

心の強靭な人

信仰の人


それはね、おさんの何よりの宝物なんです。

それはね、おさんが不満を抱えておりましたら出会うこともできなかったのではないかと思うのです。


ですからね、

この、孤独の病、不満症、強要癖、責任転嫁、

これをね、満足と感謝、そして報恩の気持ちに換えて下さいましてね、

そしてまた自立した意識で、

決して自己中にはならず欲を抱えず、命さえ恐れない勇気を持って、

楽しく和気藹々と調和した想念で生きて行って欲しいなあって思うのです。


人類はさ、この病から脱却しなくては未来はないように思いますよ。



人迷惑な子供たち



さて、世の中には、人迷惑な困ったお子さまたちがいるのでございます。

きっと、両親が何も教えてこなかったのでしょうけど、

黙って見ている親もおりましたら、一緒になって人迷惑なことをする親もいるものでございまして、

世の人は、その親を叱らない親として位置づけたりするのでございます。


うん。

でもね、おっさんなんかは思うのでございます。

親御様はね、叱っちゃあいけない。

叱るって云いますのは上から目線でしょ?

それは必ず反感を買いますし、信頼を得ることもできないんです。


まずね、最初の一回は教えて差し上げるんです。

社会の秩序を破ればどういうことになるのか、

犯罪者として扱われることもありますし、

人から攻撃を受けることもありますね。

それにね、調和を乱せばみんなから嫌われる。

それで孤独になって、味方になってくれる人も友達もいなくなって、

寂しい人生を送らなくてはいけないようになってしまいますよ、ってね。


それでね、それでも物分りが悪いお子様ならね、

叱るのではなくて怒るんです。

対等目線で怒るんです。

魂の親しき友人として、

「あんたたちが人に迷惑をかけたら自分たちまで悪く思われるんだから!!」

って、怒るんです。

そうしてね、自分たちが悪かったことを認めれば赦して差し上げるんです。

「いいよ」ってね。

それは親権者なんですから、何度だって赦して差し上げなくてはいけませんよ。


それがね、お子様たちに責任を持たせて自覚させるコツなんです。

何だって開けっぴろげにしちゃうんです。


おもちゃをねだる子供がいれば、

「うちはよそと違って貧乏なんだから我慢して」ってね

「一ヶ月、毎日ご飯抜きでいいなら買ってあげるよ」って。


大体が親御様の秘密主義がお子様たちの心に疑問を生じさせるのですから、

そこは開けっぴろげにすることなんです。

魂からの想いでね、

魂と魂をぶつけ合わせるのです。

そうして何度も喧嘩した後に勝ち取った真心の繋がりは、

どんなに強い絆になって下さることかと思いますよ。


それがね、表面づらの上から目線の説得力も何も感じないお叱りのお言葉で、

そんなんでお子様が健全に育つわけがないんです。


わかんないかなあ。



食べない生活



人生十二年周期説を唱えさせて戴いておりますおっさんです。

十二年前、丁度おっさんがしょうもないおっさんサイトを立ち上げさせて戴きました頃でございまして、

周りの環境も、人間関係も旧から新へ変貌を遂げております頃でありました。

その頃おっさんは食べない生活を致しておりまして、

竹輪1、2本で一日持っちゃう、

或いはクラッカー数枚で一日持っちゃう、

そんな暮らしをしていたのですな。

あ、でもまあ晩酌はしておりましたけどね。。。

あははは


そんでもって一年半後には体重が70キロから56キロと減少しまして、

いやね、食べたくないんです。

別に食べなくてもどうってことはないんです。

まあ、余りに食べなさすぎて身体中が震えだしたことは何度もありますけど、

そんでもって、あ、これはもう命が危ないかな、ってんで

慌てて食糧を買いだしに行ったことも何度かありますけど、


十二年経ちましてね、

またそんな感じの生活に戻ってきたようなのですね。

周りの環境も同じように変貌を遂げつつありますし、

やはり、十二年周期説は間違いではなかったなと感じるのでございます。


今日はね、串カツを何本か戴きましたけど、

目の前にはウィンナーの串カツがあと一本残っておりますけど、

食べたくないのですなぁ。

まあ、明日戴きますけどね、


あ、でも、単純に十二年前に戻ったと言うことではないのですよ。

十二年の人生の積み重ねはさすがにこの成長の伴わないおっさんにもあるわけですし、

そこはね、やはり十二年前と比べましてもかなり精神的余裕と言いますものがあるわけでございます。


そんでもって、丁度十二年前におっさんがスタートラインを切りましたようにね、

今年もまたおっさんの新たなスタートラインになるのだろうな、と感じておりますわけでございます。


まあ、残りの余命は分かりませんけど、

まあ、そんなに長くはないかなとも思いますけど、

おっさんはおっさんの人生を最後まで歩み続けたいなと思う所存なのでございますよん。


ほんじゃまた〜



うそかまことか



あの、私、霊感があります、とか、

陰陽師なんです、とかね、

うそかまことかは知りませんけど、

世の中にはそういうしょうもないことで自惚れたり、自慢したりするような人間がおるんですな。

ところがね、その心の中は不満や憎しみでどす黒い想念のスモッグが渦を巻いておりまして、

そんなん全然あかん連中なのですけど、

威張りよるんですな。

えっへん、ってね。


でもね、そういうのが一番危険なんですね。

心に開いた穴は理性でしっかり想念を管理しておりませんと、

心の通じ合った世界から色んなものが忍び込んで参ります。

でも当の本人はそのようなことは知らなくてね、

誰の所為だとか責任転嫁したりしまして益々その想念を不調和にして行くわけです。

で、次第に人格に変調をきたして来るのですね。


ですからね、そういう人は自ら自覚して、

愛と感謝に代表される調和した想念が、、、

いや、もうそこらへんのところは嫌になるほど書かせて戴きましたので、

もう止めておきましょうね。


でもね、くれぐれもそういうしょうもない、価値のないことで自惚れたりしないことですね。

おばかに見えちゃうんだから〜


あははは



悟り



悟りには段階があるのでございまして、

それはね、お釈迦様やキリスト様が到達されました理の悟りとね、

日蓮さんとか、まぐま、もとい、だるまたいしが到達されました智の悟りですね。


如来様は生まれてまいりますと、深く深く真理を求められまして、やがて理の悟りに到達します。

彼らの生まれて参りました目的はその後にあるのですね。

悟ることを前提で生まれて参りまして、

一般人と同じように、命の盲目の中から真理の探求を重ねるんです。

それはね、信念や魂の粘り強さがありませんと決して為しえないことなんですね。


理の悟りに到達しますと、神霊意識の中の過去世の記憶にアクセスできますし、

モノの理や過去・現在・未来のことが手に取るように分かるのです。

過去世の国の、当時の言葉で話し出したりしましてね。

神仏や守護霊さんとも生きている人同士のように会話しますね。


菩薩様はね、

頑張って頑張って、智の悟りを得るのがやっと、ってところなんでしょうね。

だるまさんとかは面壁9年ですからね。

でも、それだけでも多少の霊的能力が備わり、モノの理が高い視点で分かるようになりますね。


ただね、おっさんは思うのですけど、

如来さんや菩薩さんなどは過去世で沢山の人と出会って、沢山の徳を積んでいらっしゃる。

味方がいっぱいいらっしゃるのですね。

だから今生でも沢山の魂的存在のお力添えや応援があるんです。

ですから何もしなくても世に頭角を現しますでしょうし、全くもう鬼に金棒なんです。


おっさんなんか過去世で悪業を積み重ねて参りましたものですから、

いや、そうではないかなと思うのですけど、

そんなんやっぱり出発地点から差がついているのですね、

と言いますか、

今生って言いましても前世から、いや、過去世からずーーーーーっと、

一本のうどんのように繋がっているんですね。


今生だけで考えておりましてはいけませんし、

来世に望みを託すなんてことも、

まあ、来世も今生の続きなんですから、無理な相談なのかも知れないのですね。


今生をサボりましたら、来世はその分マイナスのところから歩き出さなきゃあいけない。

今生の反省ができているかどうかの確認作業から入らないといけませんし、、、

まあ、そんなことを考えておりましたら、肩もこるしため息もでますわな。


あはは

困ったもんどすなぁ