ブログより転載(2013年3月)

 



否定するか肯定するか



誰だってね

目指してきたことと

どうしようもなかったことがありますねん。


経済的なこと、

人間関係、

能力的なこと、

周囲の反対、

環境、

そういったことで可能性の範囲が定められて、


目指したこととどうしようもなかったことが互いに妥協し合って、

互いに納得のいくところで折り合いをつけた結果が、

今の私たちであるのです。


そりゃあ学生の頃から余程心して勉学していたり、

更には生まれて参ります以前から余程魂に深く使命を魂に深く刻み付けて

生まれて来ているのでしたら、

可能性の幅だって何十倍、何百倍にも広がっておりましたでしょう。


ところがね、私たち凡人にはそうはいかない。

人生、頑張って頑張って頑張りぬいた結果が今の境遇であり立場なんです。

誰だってそうなんです。


深く内省してみられますとお分かりになられると思いますけど、

どうしようもないことの積み重ねで今があるのです。

這い上がろうともがき苦しんだ結果が今なんです。

ですからね、それはもうどうしようもなかったことで、

逆に考えましたら、

私たちはこの今いる場所まで導かれたのです。

ちょっとやそっとのことではその人生に微塵なりとも変化をつけることは

できなかったでしょう。


いや、私はそう思いますよ。


ただね、

心が神に向いているか地獄に向いているか、

その違いはあると思いますよ。

神様なんていねぇだ、くそくらえだと神を否定するのと、

神を肯定的に捉え、おぉ、神様、、、って常に話しかけているのとではね、

導かれ方等も月とすっぽんだと思いますよ。


後者では、少なくとも真っ当な人間として存在しておりますでしょうし、

前者では、犯罪者になってしまっているかも知れませんね。


最近は結構な割合で、

犯罪者が「殺してみろ、という声が聞こえた」とか、

自白しているようですし、

まあ、マスコミなんかはこういった現象を

「わけの分らない発言をしている」と評したりしておりますけど、

たとえば高橋信次先生の「悪霊」という著書の中には

こういった現象が生じる理も詳しく説かれているのですね。



相互理解



私は、小さい頃から無口で愛想のない人間でございました。

まあ、最近はしょうもないことをべらべらとよく喋りますけど、

無口で愛想のなかった頃には、よく誤解され、嫌われ、気味悪がられ、

陰で悪口を言われ、後ろ指を指されておりました。


あははは


一人一人個性といいますものがありますからね、

互いに理解し合うことができなければ、そりゃあ避けられるんです。

価値観も、人生観も、判断の基準も、信仰するものも、

生まれた日も、生まれ育った環境も違いますからね、

色んな個性が生まれてくる。

全く理解し合うことができないような人間だっていらっしゃるんです。


今の社会を見ておりますと、本当にそのように感じますし、

更に今の人には時間と心の余裕がありませんからね、

いや、或いは

経済的な余裕、

勇気や智恵、

そういったものも無いのかも知れませんけど、


そこに相手の立場に立って互いに理解し合おうとする姿勢も、

話し合う場も時間も無ければ、

社会は対立し、いがみ合う孤独な人で溢れ返りますでしょう。


でもね、みんな同じ人なんですから、

互いに理解し合うことは可能なんです。

人格の基本的な部分は誰でありましても一緒なんですからね、

思い遣り合う静かな対話を重ねることで必ず理解し合えるのです。

私はそう信じているんです。


今生、私もその対話が上手くできていなかったなと思うのです。

もう少しでもそれが適っておりましたら、

人と人との絆もより強くなり、社会だってみんなが力を併せることもできましたでしょうし、

幸福度だってもっともっと上がっておりましたでしょうに、


私にはそれが悔やまれてならないのですね。



目に見えない力の作用



私は

抗わない人間です。


誰にどのように思われようとも、言われようとも、

真実は、実在界と呼ばれる高い次元と、

私の中にしか存在しないからです。


私の罪はいずれ私自身で償うことになりますでしょうし、

清算することになりますでしょう。

それは、どんなに嫌でも仕方のないことですからね。


ただ、私の罪ではないことは、

償いたくても、清算したくてもできないのですし、

罪を負う者が償い、清算するだけのことでございます。


あるがまま

抗わない


天がそうさせるのなら、

それは逃げようもない、どうしようもないこと。

無理に抗っても業を増やしてしまうだけなのですから。


増してやこの混乱した地獄模様の地上でね、

鬼に支配され、亡者と醜い争いを繰り広げるなど、

それは決して私の望むところではありませんし、

それで勝利を得たところでカンダタと同じなのですね。


いや、或いはそれは社会の所為にしている私自身の業の深さ故に

そのように感じるだけなのかも知れませんけど、


社会が混乱してしまっているのか、

私が混乱してしまっているのか、

まあ、それは何れ明らかになりますでしょう。


勿論、そのことでもね、

私の中に罪があるのなら、

勿論私はその清算をしなくてはなりませんし、

どこかですることになるのでしょう。


さて、一昨日ですか、

どこかの科学者がヒッグス素粒子に関する声明を行っておりました。

物質に質量を生じさせるヒッグス素粒子

それを見つけた、

いや、見つけていた素粒子が恐らくヒッグス素粒子に間違いないのではなかろうか、

というような声明でありましたけど、


科学者さん方はそのように、

この混乱した(と思われる)社会にありましても、

真摯な態度で本質を解き明かそうとして努力していらっしゃる。


まあ、私は能力的にも経済的にもそういった真似はできませんけれども、

生まれて参りました時からその環境にはありませんでしたけど、

逆に神理を探求させて戴けますような有り難い環境に身を置かせて戴いております。


科学者でありましてもね、

研究できるだけ有り難いのです。

サラリーマンは働けるだけ有り難い。

色んな立場立場で、その環境は感謝するべきところがありますように思います。


結局は、修行なのか、望んでいたのかは分りませんけれども、

最終的には誰でありましても、自ら望んだ環境、

或いは望んだ修行を行うための環境に、

身を置くことになるのではないかと思いますね。


あ、またなんか話がずれてきちゃいましたけど、、、

あははは



古文献に求めるか神理に求めるか



ある時、私に対してこのように言い放った方がいらっしゃいました。


「これこれこういった古い文献にこうあるから、あなたの言っていることは間違っている。」


これはどうしたことかと思うのですね。

何故この方は古い文献こそ正しいのだと信じ込んでいらっしゃるのか。。。

古いが故に未成熟なところも多く、誤りも多いのではありませんか。


答えを古文献に求めるのか、

はたまた神理に求めるのか。


答えを古文献に求めるなら、それは歴史文学の研究家でしかなく、

そこに未知なるものの答えは見出せるはずもないのです。

何等かの未解決の問題に関して根拠ある科学的な答えを見出そうとするのなら、

神理にその的確なヒントを得るか、

時間を掛けて、実験に実験を重ねて試行錯誤して行くしかないではありませんか。


決して未知なるものの答えを出し得なかった古い書籍から、

その答えを得ることはできないのではないかと思います。


と申しますか、

なんでそういった馬鹿げた話をしなきゃいけないのかな、とも思いますけれど、、、、、、



虐待する親からキチガイまで



子に虐待する親の殆どはね、

感情的であったり、

酒の勢いであったりするものでございまして、

ですから子が泣き叫んで慈悲を乞うても赦しを乞うても、

虐待の手をゆるめないものでございます。


そしてまた、そういった親に限って、

赤ら顔で、「酒に酔って殴るんじゃないぞ」、

「あなたのためを思って言っているのよ」、

なんて自己弁護をするものでございます。


ネットゲームを一日30分までと子に強制しておいて、

一分でも過ぎれば、もうネットゲームは禁止にする。

なんて仰られる、とある母親、

ところがその母親は、

何十時間も掛かるであろうそのネットゲームのクエストをクリアしていたりするのです。


ったく、なんて母親なんだと思うのですけどね、

子に厳しくするのなら、自分も二人三脚で歩むのが親の愛ではないかと思うのですけど、

子には厳しく自らに甘い。


奪い合おうとするするばかりの人類。

厳しい、と、乱暴とは違いますし、

ですから夫婦生活だって上手く行くわけがないのですね。


愛ということの意味も理解できないし、

好き、と、愛を勘違いする。

営利目的で心を忘れた科学だけが発達し、

心ある社会を発展させることも適わない。

悪政だって同じ理によるものですし、

犯罪だって少子化だって原因は全て同じなのですね。

全ての事象が繋がっているのです。


心の内側はお天道様には隠しておいて、

表面的に取り繕った部分だけで、

自分たちより弱いものを騙して、脅迫して、或いは力で陥れ、従わせる。


そのためには豪華な衣装を着飾りたくもなりますでしょう。

外見だけ立派に見せたくもなりますでしょう。


心の表面意識には誰しも、

自らを正当化しようとする意識がございます。

それはね、心の内部を外からの攻撃から護るための機能でもあったりします。

ところがこの意識はエゴな己の味方をするのですね。

それ故、魂の善なる意識とも、度々争ったりするのです。


この心を護る憲兵は放っておきますと魂の奥なる神霊の意識に謀反を起こしてしまいますよ。

そうなるとどうなるか、


頭痛に悩まされ、

魔のささやきが聞こえてくるようになり、

無意識に汚い言葉が口をついてでるようになり、

様々な不調和な現象が生じるようになって参ります。

その当然の理は少し考えましたらお分かりになられますでしょう。


ですからね、

深く反省する習慣と

感謝する習慣。


そうして心を清めて、

心を護る憲兵たちを従わせ、自らの支配下に置くことが大切になってくるのですよ。


まあ、ここでどのように声を上げましても

無駄なのかも知れませんけどね。



幽界的意識



魂が肉体を離れて幽界に参りますとね、

恐らく殆どの方が視野が広がったように感じますでしょう。

頭が冴えて自分が少し聡くなったように感じますでしょう。

俗世間に浸ったまま一生を過ごされました方でさえ、

一年二年も経ちましたら、意識が十倍ほどに高まっておりますことが分りますでしょう。


それがね、身体の縛りから解放された魂のあるべき姿なんです。

だからこそ、反省して、悟りを得て

より高い霊界、安らぎの世界に戻ってくることができるのです。


ただね、慣性の法則で苦しみはそのまま残りますから、

現世で深く反省した経験がない人には辛いでしょうね。


ですから、

現世でも反省を重ねて魂の重荷を減らしておかなくてはいけないのですよ。

反省を積み重ねておりましたら、

現世にありましても、魂の高揚や意識の拡大を、

そしてまた、心の大いなる安らぎを感じることもできるのですから。


多くのスピリチュアル的な活動をされていらっしゃる方もね、

この大いなる心の安らぎや意識の拡大を経験していらっしゃる。

だからこそ、

意識が拡大しているからこそ、

少し先の未来を見通したり、霊的な存在から意識の伝達を受けたりできるのです。

人生を達観視したり客観的に観れたりするのですよ。

そしてそれは、

霊能力があるかないか、といったこととは全く無関係の事象なのですね。



若干90度のズレ



とある御仁は仰られました。

人は、余りにも想像力がなさ過ぎる。

私もそのように思うのです。

想像力もないし、知恵もないし、低俗だし、深く考えることもしない。


御護符なるものを書かせて戴いております。

それ故か、私自身もかなり成長させて戴きますことができましたし、

手のひらの周りのオーラも遥かに分厚くなりました。

これはこれで有り難いことであると感謝いたしております。


ところが世はどうかと申しますと、

何時まで経ちましても、霊能力がどうの、陰陽道がどうのこうの、

パワーがどうの、

そんなことばかり言って御護符の価値を貶めていらっしゃる。


私も随分と同業者に真似されたりもしましたし、

文章をもってかれたりも致しました。

少なくとも数年前まではね、

「護符屋」で検索すれば業者は私のところしかひっかからなかったのですけどね、

あははは


まあそんなこともありまして、

それ以外のことも多々考えるところがありまして、

また、少しずつね、

お仕事と志向性のずれを感じ始めておりまして、

サイトの更新も「なんだかなぁ」って感じで滞らせてしまっていたのですけど、

そうしちゃいますと、もうどこの検索エンジンにもひっからなくなっちゃってしまっておりまして、


まあ、今のご贔屓さんと交友を暖めつつ細々と続けていくか、

別の方向に向かうべきか、

頭を悩ませておりますようなことでございます。


まあ、思いますに、

向かって行きたい方向が現状とずれていたためにね、

御護符のお仕事ではなくて、

もっと神理に力を入れなさいってことなんだろうなとは思うのですけど、

神理の方もなんかどっちらけでありまして、

ちょっと頭を冷やして考えにゃーいかんかいの、

と思っているのでございますよん。


よんよん。



侵蝕



私の住む家の近くに、

朝から晩まで大声で呪いの言葉を叫び続けているばーさんがおります。


この、ばかたれが!

水ぶっかけたれ!

金返せ、この盗人ばばあ!

しばきまわすぞ!!


何かね、そんな感じで朝から晩まで四六時中叫んでいるのですね。

最近では声もどんどん大きくなって参りまして、

それが口癖のようになってしまっておりまして、

買い物の途中にもその呪いの言葉が吐き出されているのです。


いや、何があったかは存じませんよ。

ただね、その呪いの言葉は、私の胸にさえ痛みを及ぼしてくるほどですから、

発しているばーさん自身には、相当のダメージがあるはずなんです。


心が傷つき、光を失い、

怒りが全身に回ってしまって、

ちょっとやそっとでは心の平静を取り戻すことはできなくなってしまっておりますように思います。

間違いなく、既にもうその心は地獄霊に乗っ取られておりますでしょう。


以前もおりましたね。

奈良でしたっけ。

引越し騒音布団叩きおばさん。

後から、何らかの宗教団体の嫌がらせが原因だったそうで、

ネットでも色んなところで話題になっておりましたけど、


それでもね、どのような理由があるにしましても、

社会的に認められないような乱暴な方法で対抗したり、

公共の福祉を侵害したり、と

それでは加害者と同じ穴の狢ですし、

嫌われても、裁判で負けても、悪人であるという烙印を押されましても仕方ないと思いますよ。


それにね、結局自らの発した想念や行為、発言は全て自らに最も大きく反作用が生じるのですから、

それでたとえ地獄に落ちましても、

地獄霊の憑依に遭いましても、

それは自業自得であり、自らの責任の範疇なんですね。


増してや、たかがお金のことで心まで傷つけて患わせてしまう。

人生を狂わせてしまう。

全く、残念なことだと思いますね。