ブログより転載(2007年10月)

 

人を動かす

人を動かす。
何かお願いしたいことがって、「うん」と云わせようとする。

そんな時には、やはり欲心で、自分のためにお願いを聞いて欲しいなんて云いますと 間違いなく断られます。
それで、もし「うん」と云って下さる人がおりましたら、
その人は、かなり怪しい、
裏で何か良からぬことを考えているのは、まず間違いないでしょうね。

少し賢くなりますと、お願いの仕方も変わって参ります。
その人の目的を理解して、その目的に乗っかろうとします。
ここまではディール・カーネギーさんのレベルですね。
欲心のあります人には極めて有効でございます。

呪術師やジョセフ・マーフィーさんは深層心理を利用しようとしますね。
実はこれは極めて危険なことであるのですけど、

精神誠意、信念を持ってお願いする、説得する。
これに勝るものはないように思いますね。
信念を持って、説得力を持って訴えますと、
その人の守護霊様も動いて下さるのです。
高い次元から、希望が現実となるように働きかけて戴けるのですよ。


三無い主義

依存しない、執着しない、恐れない、
これが「三無い主義」でございます。

何を恐れるものがあるのでしょうか?
この世界で生きるための、仮の防護服を与えられての、
一時の仮の住まいでございます。

神様が帰っておいでと仰って下さいました時、
或いはこの世界で存在の必要が無くなった時、
身体を維持することができなくなってしまった時、
その時には元の世界に帰るだけでございますよ。

何も恐れることはないのですよ。

ただ、自分から「や〜めた」とは云えないのですけどね。
間違っても云ってはいけないのですけど。

折角希望してこの世界にやって来て、
ですから、力一杯楽しく、思う通りに生きたいではないですか。
自分の力で何でもやってみたいじゃないですか。
自分で考えて、悩んで、悩んで、失敗しても何度も挑み続けて。
希望を持って挑み続けて。

ですから私は誰にも頼らないし、依存もしないのです。
執着もしないのですよ。

でね、それが一番強い生き方なんです。
大地にしっかりと自分の足を踏みしめて立つことができるのです。


他にはね、
野路イズム、一匹狼主義、放任主義なんてものがございます。(笑)
どこかで私的主義としてまとめたいと思いますけど、
全てが正法、神理を基盤としておりますものでございますよ。


信頼

今のような信頼が余り重んじられなくなった時代だからこそ
信頼と云いますものが大切になってくるのではないかと思います。

信頼を得る努力をしております事業体と、利益最優先の事業体では、
月とスッポンなんですよ。
今は利益最優先の事業体ばかりですから、
信頼を得ることの素晴らしさは見失われてしまっておりますけど、

でもね、そんな中に信頼を大切にしている事業体が現れますと、
周りの方がハッと気付くのです。

と、そんなことをお話させて戴きますと、殆どの方は、
「私の所はお客様を大切にしておりますから大丈夫です。」
なんて仰られるのですけど、

違うのですよ。
信頼なんてそんなに生易しいものではないのですよ。
お客様を大切にすることは当然のことでね、
それはどこの事業体でもやっておりますでしょう。
そうして安心して気を抜いておりますと、
信頼なんて簡単に失われてしまうのですよ。

そうではなくてね、
考えて、考え抜いて、
自らも反省を重ねて、精神誠意、真心に徹して、
お客様をどのようにすれば満足させて差し上げられるか、
幸せにして差し上げられるか、
安心させて差し上げられるか、
社会に対して今どのような貢献ができるか、
常に、一時も休まずに考え続け、次の新しい試みを生み出し続けなくては、
信頼を維持し続けるなんてことはできないのですよ。

それがね、信頼を得る努力なんです。

事業が上手くいかない。
そんな声を頻繁に耳にしますけど、
楽しく、遣り甲斐を持って、信頼を得るお仕事をされてみられますことだと思いますよ。
神仏に頼るのはその後で良いのです。

御尽力下さいませ。


酷い!ぶったわね!!パパにだって・・・

その昔、キリスト様はこのように教えられました。

「右の頬を打たれれば左の頬を向けて差し上げなさい。
誰かがあなたに50マイル歩かせるのなら、あなたはその人と一緒に百マイル歩いて差し上げなさい。
相手が望むものは何でも差し上げなさい。」
と。

これが慈悲の心以外の何物でもないことに気付かれます方は多いと思います。
そうして、ここで一つ気づいて下さらなくてはいけないのが、
キリスト様の「愛」には、慈悲の要素も含まれているのだということでございます。

慈悲というものの本来の姿を教えるには、
これ以上の教えはありませんでしょう。
慈悲とはまさに、望むものを与えて差し上げますことなのですから。

そうして、この慈悲の行為が間違いなく実践できるようになりますと、
まさに菩薩様でございますね。

でもね、違うのです。
キリスト様やお釈迦様の心の琴線は、決してそうではないのです。
キリスト様やお釈迦様が、皆の望むものを何でもお与えになられたか、
それは否なんです。

その矛盾がね、高校生でありました頃の私には分からなかったのですけど、

確かにね、上記の教えは慈悲といいますものの側面から見ますと正しいものでございました。
でもね、八正道、つまり神様の立場で客観的に見た中道の在り方から見ますと、
それは時と場合がありますことにお気付き下さらなくてはなりませんね。

相手の望むものを与えて差し上げますことが必ずしも正しいことではないのです。
慈悲の心を持った上で、
神様の立場で客観的に見た中道の正しい在り方を、
八正道を実践する、ということが正しい在り方なのです。

よく、そこいら辺りに誤解が生まれます。

そこまで突き詰めて考えてみないから、
人は神仏を信仰することを忘れて、宗教を信仰してしまうのです。

賢い、と、聡いの違いですね。

賢い、は知性的な能力ですね。
聡い、は理性的な能力なんです。
賢くても、聡くなければ愚かなんです。
聡くなって下さいますようお願いしますね。


自立心

今日は少し、自立心について考えてみましょう。

自立心とは一体どのようなものでしょうか?
そうですね。筋肉、もとい、依存心の逆の言葉ですね。

人生を楽しく生きるコツはね、
自分の手で道を切り開き、自ら責任を持って、自らの意思で自由に生きることなんです。

自由に生きる分、責任は発生します。でもそれは当然ですよね。
自業自得、道を踏み外せば自分が転ぶのです。

でもね、だからこそ生き甲斐もあるのですし、
力一杯に悩み、考えもするのです。
悩み抜き、考え抜いて、
苦難の中で力を尽くして、その向こうに一筋の光が見えた時、
人は狂喜乱舞するんです。
ありがたやありがたやってね、泣きじゃくるのです。

自立心を持って生きておりませんとこの感動は味わえない。
残念なことでございます。

でもね、案外、この残念な大人が今の時代この世界には沢山いらっしゃるのです。
考える力もない。
生きようとする力もない。
感動も、感激も、喜びも、感動もない、
日々の平穏無事だけを願って、ことなかれ主義で生きているのです。

原因はね、もう既に明白でございますよ。
子供の頃から過保護で育てられたから。
責任を持たずに育ってきたから。

御子様の人生に親御様がずっと口出しされて来たのでしょうね。
御子様の人生を親御様がずっと命令されて来たのでしょうね。
ですから、いつまで経っても、
その子供が成人しても依存心から抜け出すことができなかったのでしょうね。

でもね、幸せになりたいと考えるのでしたら、
依存心を捨てて自立心を持って生きることが最低条件でございますよ。
苦労して、苦労して、幸せが手に入るのです。
依存心を持っておりますとその力さえ生じない。
考える気力さえ生じてきませんでしょう。

時代は厳しくなって来ております。
強い強い魂で、今生を楽しく生き抜いて欲しいものだと思いますね。


ま、その2

昨夜、就寝時に私の意識下に何者かが入り込んで参りまして、
端下金がどうのこうのと云い始めました。

これは私の意識が招いてしまった「ま」ですね。
「端下金などと勘違いも甚だしい!」と叱り付けまして、
例の「祈り」で光を浴びせて追い出したのですけど、

お金と云いますものを人生の目的にしてしまいますといけません。
経済活動を行なうツールに過ぎないのですから。
そしてまた、お金は、愛といいます正しい法によって得るべきものでございます。
社会への労働という形での貢献、
人の幸福を願う行為、
そういったものの見返りとして得るべきものであるように思います。

また、たとえそういった愛によって正しく得たのではないお金でありましても、
神様の御慈悲によりまして得ることができたものであり、
それを端下金などと、間違っても思ってはいけませんね。
どんなに少ない額でも、大切に、大切に使わせて戴かなくてはならないものでございます。


人間、生きておりまして、
四六時中正しい想念でおりますことはどうしても無理がございます。

心は吹き乱れる風の如し。

ですから、反省して、反省して、反省して、
それでも完璧な反省は困難なものでございます。
反省が不完全で心に闇がありますと、「ま」はどうしても忍び込んで参ります。 それも学びなのでしょうね。
条件反射を訂正するための学びなんですね。


心の元気

今は沢山の人が疲れておりますね。

何かに振りまわされて心の元気を失っておりますように思います。
何かとは、目に見えない心の中の、
欲とか、妬みとか、焦りとか、執着とか、不安とか、闇とか、もやもやとか。

で、結局疲れ切って何もする意欲が生じないのですね。

それから、あなた方が信じている社会もね、
実はそんなに善人ではないと思いますよ。

あなたが自ら関らない限り、
社会はあなたに関っては下さらない。

ですからね、
沢山寝て、素晴らしい音楽でも聴いて、大自然の緑にもふれて、
陽の光も沢山浴びて、沢山笑って、沢山はしゃいで、
そうして早く元気を取り戻して、

何でもやってみることだと思いますよ。
たっぷり時間を掛けて好きなことに取り組んでみることだと思いますよ。

命の価値が早く見出ますようにね。


ブラックホール

宇宙には、ブラックホールというものが存在します。

惑星が余りに大き過ぎて、自らの重力に耐えられなくなるのですね。
そうしますと、惑星の中心部の原子が圧迫されて崩壊するのです。
原子が崩壊する、
陽子と電子が合わさって中性子となり、その中性子も振動できなくなってしまう。
即ち、無になってしまうのです。
光の素粒子に還元してしまうのです。

惑星は内部から崩壊し、惑星自体も収縮して参ります。
また、容積当りの質量が極めて大きくなりますから、重力も増大します。
惑星の重力は、周りの惑星や衛星、恒星をも飲み込み、光までも飲み込んでしまうのですね。

ここで、仮定なのですけど

原子に圧力を加えますと、どうなるのでしょうか?
重力は発生しませんでしょうか?

さらに、原子に拡力を加えますと、どうなるのでしょうか?
反重力は発生しませんでしょうか?

原子に圧力を加えると云いますことは、原爆や水爆の破壊力をも封じ込めてしまうということなのですから、
重力や反重力に限らず、何らかの現象が生じても不思議ではない、
いや、生じるはずである、と思われるのですけど。


少年法

今現在、少年法で護られている少年はいない。

少年法を簡単に掲載しますと、

第3条 次に揚げるべき少年は、これを家庭裁判所の審判に処する。
1.罪を犯した少年。
2.14歳に満たないで刑罰法令に触れる行為をした少年。
3.次に揚げる事由があって、その性格又は環境に対して、将来、罪を犯し、又は刑罰法令に触れる行為をする虞のある少年
 イ 保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。
 ロ 正当の理由がなく家庭に寄り付かないこと。
 ハ 犯罪性のある人若しくは不道徳な人と交際し、又はいかがわしい場所に出入りすること。
 ニ 自己又は他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。

第20条 家庭裁判所は、死刑、懲役又は禁錮に当たる罪の事件について、調査の結果、その罪質及び情状に照らして刑事処分を相当と認めるときは、決定をもって、これを管轄地方裁判所に対応する検察庁の検察官に送致しなければならない。


つまり、殆どの、警察が動く事件で、たとえ14歳未満であっても刑事処分の対象となる可能性はあるのですね。
それどころか、性癖の危険性だけで家庭裁判所の審判を受けて少年院に送られることだってあるのです。

最近、少年法で護られているからと凶悪犯罪に手を染める少年が度々現れますけど、
少年も決して少年法で護られていないということを知っておくべきでしょうね。


鷹の誇り

その鷹は都会で生まれた。

五体満足で生まれて、
成長すれば鳥の中で一番高く、速く飛び、立派に狩もできるようになるはずだった。
でも、残念なことに、そうはならなかった。

その鷹は、カラスの群れの中で生き、
それが真の生き方ではないことに気付かなかった。
鷹は、鷹の言葉を話すこともなくなり、ただ、カア、カア、としか鳴かなくなった。
狩を覚えることもなく、ただゴミを漁ることしかできなかった。
鷹の誇りを忘れて、カラスとして一生を送った。

鷹は、鷹の子を生む。
その子も、カラスとして育てられる。

そのようなことが一体何千年続いているのだろうか。
愚かで弱い鷹は、自分たちの餌を仕留めることさえできない。

もう少し賢くなって下さらなければ、
もう少し強くなって下さらなければ、
種族は滅びてしまうだろう。

カラスの中で、多少強かったとしても、
それは何の意味もない。

己の人生を自由に生きる、
神様から大空を自由に滑空できるその能力を与えられていながら、
それに気付かずいつまでも弱い己に甘んじているのなら、
神様はどんなに嘆かれていることだろうか。

残念なことに、それが人間なのだ。
それが今の人間の姿なのだ。




この世界から、愛によって生じたものを一つずつ取り除いて参りますと、
何が残りますでしょうか?

森の木々、空、大地、岩、全ての存在は愛によって生じたものでございますね。 ですから取っ払っちゃいましょう。
私達の身体はどうでしょうか?
空気はどうでしょうか?
音はどうでしょうか?
暖かさはどうでしょうか?
光はどうでしょうか?

全て愛によって生じたものでございますね。

それら全てのものを取っ払ってしまいますと、
何が残るのでしょうか?

恐怖は、残りますでしょうか?
苦しみは残りますでしょうか?

いえ、恐怖も、苦しみも、全ての感覚は無くなってしまいますね。

虚無の中で、ただ存在する意識。

ですから創造神は愛に溢れる世界を実現しようとしたのですね。

本来ならば愛に溢れていなくてはならない世界。
でも私達人間だけが愛を自分たちに都合の良いように捻じ曲げてしまった。

それでも神様はだまって見守って下さっているのです。
それは「自由意思」という愛を与えて下さっているからなんです。


今は沢山の木や草花が実を付けておりますね。
真っ赤に熟した実。
それが夕日に映えて実に綺麗でございました。

赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた。


六道の辻

慈悲を持ち、愛を持ち、魂を救って下さるのは神でございます。

満足して感謝し、自力で力一杯に生きようとするのが人でございます。

逆に、不満を持ち文句を言い、努力を忘れて他力に縋ろうとするのが非人でございます。

怒りを持てば阿修羅でございましょう。
情けを失えば地獄の鬼でございましょう。
足ることを知らぬのが餓鬼でございます。
自らの欲のままに生きるのが畜生ですね。

神も、人も、阿修羅も、鬼も、餓鬼も、畜生も、
おなじ人の心なんです。
同じ神の子でありながら、心が化けるのです。

ですから私は恐ろしい。
一番恐ろしいのが心でございます。

客観的な視点を失いますから盲目になって化けてしまうのです。
そのような人を私は沢山見て参りました。

魂を救うのは神でもなく人でもない。
他ならぬ自分自身なのです。
反省という行為が唯一、自身の魂を救えるのです。

ですから私達は心して生きなくてはいけないのですよ。
そしてまた、命が失われることよりも、魂が地獄に落ちてしまうことの方が 恐ろしいのだと云うこと、
それは決して忘れてしまわないことでございますよ。


欠けているもの

こうやってざっくりと身の回りのことを見回して参りますと分かるのですけど、

日本の社会には、或いは政府には、慈悲というものが欠けているのですね。
地球科学には、心というものが欠けているのです。
教育現場からも次第に愛が失われ、
人から心の余裕が失われ、
寺社からは神理や光が失われ、

人が本当に大切なものを見失い、
私利私欲に盲となって猪突猛進しております様子が分かります。

故郷に戻れ
心に戻れ
光に戻れ
昔に戻れ
自然に戻れ
神に戻れ

って、そう思うのですね。

地球から「命」が失われる前にね。