ブログより転載(2008年3月)

 

大川の桜

 

今日は少し大川沿いの桜並木を見に行っておりました。

大阪は面白いところでございまして、
そうしますと、大川に観光客を沢山乗せたバスが浮かんでいるのです。

ああ、こりゃ大変だと思いきや、
水陸両用バス、なんてけったいな乗り物なんですね。
大阪人は全く変なものを考えよります。
始めて見た人はきっと慌てふためきますでしょうね。

ベンチに座って考え事をしておりまして、
どうして若者の犯罪が多いのかってね、
考えておりまして、

日本は幸せな人の割合が低いのですね。
そうして、御家庭の中でも、
家族皆が幸せで楽しく生きていらっしゃる御家庭は少ないのです。

御子様でも幸せで人生が楽しい人は勉強なんてしなくても成績が良いのです。
そんな人おりましたよね。昔から、
どうしてあいつはいつも遊び呆けているのに成績が良いのだ?
きっと陰で死に物狂いで勉強しているにちがいない。
ってね。

でも、そうではないのです。違うのです。
幸せで、楽しく生きておりましたら、先生のお話だって頭に吸収されるのです。
スポンジが水を吸うようにね。
でも嫌だ嫌だと、苦しい苦しい、と生きておりましたら、
全てのものを、吸収するどころか、撥ね返してしまうのですね。

御子様が幸せで楽しく生きていらっしゃる御家庭。
その中から犯罪者が生まれることは絶対にないのです。

でもどうしてそういった不幸な御家庭が多いのでしょうか?
その原因は一体誰なのでしょうか?
少しだけ考えてみて下さいましたら、すぐに分ると思いますけどね。

いえ、私は何も申しませんよ。
そんな、本人を目の前にして。

 

余命

 

世の中には面白い人が沢山おりますものでございます。

ここに酒井素樹なんて替え歌の天才のようなホームレスの方がおられまして、

「余命」なんて替え歌を歌っておられました。

土手で倒れても
土の匂いの初老の僕じゃ 誰も助けてはくれない。
やはり酒井の命はゴミより軽い
母の口癖
「素樹は善い子 末は大臣」
期待を裏切り素樹の今は ホネ埋める場所もない
倒れてから4時間後
法夫と美夫が 草むら探し駆けつけて
酒井のポッケから抜き取った キット カット 一個
隠してたはずなのに
逃げて行く冬の道
裸足の二人を僕は許した
薬では治らない 不治の病「腹ぺこ」
立ち止まる犬にゴクリ
仰向けに寝て お口を開けて
瞳を閉じて待つ 豪雨

うーん、ストリートミュージシャンやれば良いのにって思いますね。


最近私は人生相談しますというようなメッセージの書かれた銀色ジャケットを着て
あちらこちらをさ迷ったりしておりますけど、
困ったことに「怪しい人」「怖い人」に見られてしまうことが多いです。
親が子供に、「怖いから関わらない方が良い」って教えているのですね。
まあ、正しい反応ですけど、

「怖くない」「怪しくない」ことを分って戴きます為にはどうすれば良いのか、
何かええ方法はないものか思いを巡らせております。

昨日は尼崎方面に4時間程おりまして、
それから家に戻りましてLinuxの設定作業に励んでおりました。
バージョンが異なりますとコマンドさえ異なって来るのですね。
新旧2冊の書籍を参照しながら、あーでもない、こーでもない、
とやっておりますと、すっかり疲れ果ててしまいました。

今はこぶしが満開でございます。。。

 

掌の皺

 

歳の故なのか、掌にかなり細かな皺が増えて参りまして、

おいおい、これは手相なのか、皺なのか、どっちなんだい?

と、米国に亡命した?きんにくんのように聞いてみたりしているのですけど、

もしこれが手相なのだとしますと、

手相学上のどんなに奇異な線も

そこには必ず発見できてしまうようなことになってしまうのでありまして、

やはりこれはただの皺なのだろうなと感じております次第でございます。

また、別の見方をしますと、

手相は脳の状態が現れておりますものですから、

余程繊細な性格なのだろうか、とも思えるのですけど、

まあ、掌に皺がいっぱいあるちゅうことは、脳にも皺がいっぱいあるちゅうことなので、

まあまあ、良いことなのかも知れません。

手相は私も有名な線くらいでしたら多少は分かるのですけど、

私の手相は途切れ途切れだったり、鎖状だったりして、

絶対に良い手相ではないのです。

といいますか、相当に弱々しい、悪い手相をしちょります。

でも今まで生きて来れておりますからね、

どんなに悪い手相でも正しく生きておりましたらノタレ死ぬなんてことはないのです。

ちゃんと神仏や守護霊様が護って下さる。

ですからね、神仏のお慈悲は誰にでも与えられるものであり、

それを疑っちゃあいかんものでございますよ。

あ、神仏は疑っちゃあいかんのです。

逆に教祖や生神様、宗教、精神世界系団体といったものは疑ってかからなくてはいけないいのですね。

正しい判断をするためにはまず疑って、

疑問が全て解消した後に全身全霊で信仰すれば良いのですよ。

でも神仏のお慈悲や神仏の存在は低い意識では分らないかも知れませんけど、

疑いようのない存在ですから、

これは信じていれば信じておりますだけ、結びつきが強くなって、

強い守護、大きな慈悲をお与え下さるように(受け取れるように)なるのです。

 

開花宣言

 

さて、

春の陽気も次第に本格的になって参りまして、

今日明日中には日本各地の殆どの場所で開花宣言が聞けそうな、

そのような候でございますよ。

そうなりますと来週末辺りがお花見に最も適した頃合になるのではないかと思うのですけど、

人生を力一杯前向きに楽しく生きることを信条としております私もね、

桜を愛でに行かにゃーならんね、などと考えておりますけど、

今日は一足先に、森山直太郎さんのさくらを唄っていたりするのでございます。


さくら さくら 今咲き誇る

刹那に散り行く定めと知って

さらば友よ 旅立ちの時


さくらが咲くから入学するのでしょうか、

さくらが散るから卒業というものがあるのでしょうか、

卒業の季節に丁度さくらが舞うのでしょうか、

新しい人生の門出には、昔から

さくらがその象徴的な存在として取り上げられて参りましたね。

新しき人生を与えられた環境、定めの中で力一杯に生きる。

失敗してもいいのだ。

どんなに失敗しても、やがて永い輪廻の中で必ず笑い話になる。

だから私達も、何も思い悩むことなく力一杯に咲き誇って、

散って行こうではないか。

あのさくらのように。

と、かように思うのですけど、

でもその前に、来週はお花見に出掛けなくてはなりませんね。

 

木蓮の想い出

 

今年もまた、公園のこぶしの蕾が膨らみ始めました。

私がね、こぶしが好きなのには理由があるのですよ。

当時、コンピューター関係の会社で働いておりました私は、

命さえも奪われてしまいかねない環境の中でね、

もう感受性もすっかりと失われてしまっていたのですけど、

それ程に弱い弱い人間であったのですけど、

丁度その頃なんです。

確か阪神・淡路大震災の年でしょうか。

近くに木蓮の花が咲きましてね、

公園のこぶしの花などは木蓮の中でも小さいのではないかと思うのですけど、

物凄く大きな真綿色の大輪の花。

その花が細い樹いっぱいに咲き誇っておりますわけでございます。

その光景はまるで別世界におりますようでございましたよ。

それまで何も感じなかった私の魂がね、

本当に美しいものと出逢えた喜びを感じているのですよ。

あの美しさはもう二度と目にすることはないかもしれない。

それ程に美しく感じたのですけど、

今でもしっかりと心ん中に焼きついているのですね。

それは私が始めて、花を好きになった瞬間でございました。

 

Bug

 

コンピューターの世界ではプログラミング上の間違いをBug(バグ:虫)と呼びますが、

Bugにはうっかりミス程度の些細なものから、
論理的矛盾といったような、システムの存続に関わるようなものまであるわけでございまして、

ですから、デバグ(虫出し)をしっかりとしていて戴きたいものだと思うのですけど、
例えばウィンドウズのように
修正モジュールが発売後に次から次へと山のように出て参りますのは、
どうしようもないダメシステムであると云わざるを得ないのではないかと思うのでございます。

さて、虫にはお米に付く虫もあり、
また、カメラに潜む虫もあるのでございます。

カメラの虫はもうカメラマンの間では常識的なことだと思うのですけど、
湿気具合が丁度良いのでしょうね。
猫が紙袋に首を突っ込むのと同じように、
彼等も、機密性のありますカメラにどこからか侵入して参りますわけで、

ですから、
リッチなカメラマンは乾燥機付きのカメラ専用戸棚でカメラを保存したりするのです。
勿論、米びつにも唐辛子入れますでしょ?
そうやって私達は虫が付かないように細心の注意を払って生きておりますのでございます。

でもね、彼等は光のない、じめじめした暗い場所が好きですから、
そんな場所がありましたら必ずどこからか侵入して来るのですね。

例えば、心の中。

これは皆さん、うっかりどっきりメカでございましょう?
心の中を暗くてじめじめした状態にしておりますと、虫が沸くのです。

神様はもうずっと前から私達にそれを気付かせて下さろうと地上に虫を大量に放って来た。

虫もね、悪いことばかりではないのです。
全ての虫が、神様の素晴らしい科学の結晶なのです。
ですから、研究しますと必ず何かに役立つのです。

でもやっぱり小さくて蠢くものはおぞましい。
春はそんな季節でもございます。

桜の季節、
心身からも、住環境からも虫を追い出して、
春風と共に心地良く過ごしたいものでございますね。

 

御神木

 

神社とか寺とかで、たまに見るのですけど、

大きな木があって、その木の枝が獣の指のような形になっていて、

屋根をグイと掴んでいたり、

まるで蛇がとぐろを巻くような形に捻じ曲がっていたりしまして、

住職さんや神主さんはそれを御神木として大切にまつっていたりするのですけど、


あれは決して御神木などではないのですね。

木の、心に相当する部分に、蛇とか、爬虫類の魂が巣食っておりますだけなのですね。


さて、

私達が魂の真実を充分に認識して、

何も拘ることがなければ、

人は誰でも楽ちんに生きることができますものでございます。

「人生は死ぬまでの暇潰し」であると仰られました方もいらっしゃるようですけど、

本当に、それでも良いのですよ。

神様は、それでも何も責めたりすることはないのです。

全ては私達の自由意思、

成長するのも、

堕落して少し修行期間を長く延ばすのも、

同じ所に留まり続けますことも、

全て私達に任されておりますわけでございます。

永遠の時の中で、

たった何億年時間を無駄にしたところで、

たかが知れているのですね。

でもね、楽ちんに生きられるのに、苦しみ続けている、

それで、その苦しみを神様の所為にしたり、

それは人間の悪いところでございますね。


楽ちんに生きるのか、

少し息を切らして素晴らしい人生を目指すのか、

どちらにしましても、喜びに溢れて、瞳を輝かせて、

生きていたいものでございますね。

 

周易と風水と九星気学

 

周易と九星気学は親類のような関係にありましてね、

風水と九星気学も親類のような関係にあるのですね。

ですから、九星気学を覚えますと、易も、風水も原理原則が分かるのですね。

北は一白水星
北東は八白土星
東は三碧木星
南東は四緑木星
南は九紫火星
南西は二黒土星
西は七赤金星
北西は六白金星

ここでね、
水星の方向に土を置くとどうなるか
水星の方向に火を置くとどうなるか
土星の方向に木を置くとどうなるか
土星の方向に水を置くとどうなるか
木星の方向に金を置くとどうなるか
木星の方向に土を置くとどうなるか
火星の方向に水を置くとどうなるか
火星の方向に金を置くとどうなるか
金星の方向に火を置くとどうなるか
金星の方向に木を置くとどうなるか

土剋水、水が濁るようなことが生じますね
水剋火、互いに打ち消し合うようなことが生じますね
木剋土、じわじわと弱まって行くようなことが生じますね
金剋木、鋭利な刃物で切られるようなことが生じますね
火剋金、周りから厳しく責められるようなことが生じますね

水星の方向に置いて良いものは金と木と水
土星の方向に置いて良いものは火と金と土
木星の方向に置いて良いものは水と火と木
火星の方向に置いて良いものは木と土と火
金星の方向に置いて良いものは土と水と金

木生火、勢い良く燃え上がります
火生土、豊かに安定します
土生金、素晴らしいものが得られます
金生水、新規一転、状況は良くなります
水生木、生き生きして参りますね

ここで云っております木火土金水は象徴ですからね。
例えば書物は木ですし、鉢植えは土と木、生け花は水と木、
お金は金、家計簿などもお金に関わるものですから金、
といったように少し考えて下さいますとお分かり戴けるのではないかと思います。

ここでね、例えばどなたかが手術することになった、
そういった場合には、金剋木の状態になっているところがないか

どなたかが裁判に関わることになった、
そうしましたら、火剋金の状態になっているところがないか

病んでしまい改善がみられない、
そうしましたら、木剋土の状態になっているところがないか

喧嘩が絶えない、
そうしましたら、火剋水の状態になっているところがないか

頭が冴えない、最近心身がだるい、
そうしましたら、土剋水の状態になっているところがないか

を探して戴きますと、その原因が見えて来るのではないかと思いますね。

基本的に正中線上には水溜りや不浄物を避けて綺麗にしておかれますことと

北東の鬼門から南西の裏鬼門に繋がる線上も綺麗にしておかなくてはいけませんね。

 

 いかんかえ?

 

昔、桂枝雀師匠という落語家さんがおられまして、
茶漬閻魔という噺をしていたのでございますが、

「あんたが閻魔さん?それで、茶漬け食うてなさるの?」

ところから噺が進んで行くわけでございます。

昨夜、キリストさんの所で寄り合いがありましたそうで、
キリストさんに「人はパンにて生くるにあらず、肉食え。」と、
安い肉をたらふく戴いたそうでございます。
このキリストさんは余り酒癖が良くなくて、
酔っ払いますとあばらの傷を見せたがるのだそうでして、

少しあっさりしたものが戴きたいとお釈迦様の所に寄りますと、
今度は、辛いカレーを食べさせられまして、
それで、今家に帰って来て茶漬けを戴いておりますところでございます。

「ワシが閻魔じゃが、閻魔が茶漬け食うてはいかんかえ?」

閻魔さんはそうお答えになられましたのでございまして、

「いや、いかんかえ、てなことはないのですけど、・・・」

と噺が進んで行くのでございます。


誰にでも外見や社会的立場に応じた所作や嗜好といったものが必要でございます。

教師は姿勢を正し、組織の長は威厳を持ち、中尾彬はネジネジし、とこのように

人や立場で立ち居、振舞いまで定まって来るものと思われます。


ここに平原綾香さんと仰られますキッチュなミュージシャンの方がおられます。

この人の声は本当に綺麗で聴いておりますとゾクゾクっとするのですけど、

ひょっとして、純白の羽でも生えているのではないかと目を凝らして見ていたのですけど、

未だに、おっちゃん純白の羽を発見することができておりません。

私ももう四十代半ば過ぎのおっちゃんでございまして、

おっちゃんが平原綾香さん好きになったらあかんかえ?と考えてしまうのですけど、

ただ者ではないぞ、と思うのですね。

 

心に立ち帰る瞬間

 

今日は朝から「マンチェスター and リバプール」の歌詞を見て泣いておりました。(笑)

恐らくこの作詞者は我武者羅に生きて来たのでしょう。

故郷を遠く離れて我武者羅に命の営みを続けてきたのですけど、

ある時突然、望まない時間の空白が生じた。

そうですね。誰にでもありそうなことでございます。

さて、何をしようか、この先、どうしようか、とそんなことを考えておりまして、

ふと、故郷に行ってみようと思い立ったのですね。

子供の頃住んでいたマンチェスターとリバプールの街、

そこは日本で云いますと四日市のような工業地帯でね、

騒々しく賑やかで今まで感慨深く思い出すこともなかったのですけど、

戻ってみますと、やはり懐かしいのですね。

慌しく行き交う人達、大きな煙突から吐き出される煙、

それは今も昔と変わることなく日々繰り返されていたのです。

でもそれはどこの街でもみんな同じなんですね、

誰もが幸せになりたくて苦労している、ということに変わりはないわけです。

それで、もう一度ここに住んでみようと思うのですね。

以上、「マンチェスター and リバプール」の歌詞の拡大解釈でございました。