ブログより転載(2008年6月)

 




行をしてみようかと思う。

今までしたこともない厳しい行。

それは自分のためでもなく、

ただ愛するもののために、

命を掛けてみようかと思う。

これは神様とのこんくらべで、

神様が私の命を哀れんで下さるのなら、

神様は必ず折れて下さる。

そうして必ず願いは成就するはずだ。

勿論、神様を試したりすることは正しいことではない。

ただ、愛するもののためなら、

神様は赦して下さると思う。

そうでなくて何が神だろうかと思う。

暖かな気持ちの分かる神様なら、

必ず分かって下さると思う。


人生の旅


ある朝、遂に私が目覚めることがなくても、

可哀想だなんて思わなくて良いよ。

私は、御恩返しの旅に出掛けたのだから。

葬式も要らないし、

坊さんを呼んでお経を上げる必要もない。

そんなお馬鹿なことをする位なら、

そのお金をもっと有意義に遣うことだ。

私はただ、

ゆっくり歩いてきた道を、

そこからもゆっくり歩いて行くさ。

そうして、呼んでくれたらいつでも行くから、

何も思い煩うことはないよ。

魂は、

鎧を被っていようといまいと、

何も変わることはないのだからね。


理想的な親子関係


実在界からこの現象界に「おんぎゃー」と転生して、
両親に祝福されて産まれ出でて参りまして、
年を重ね、経験を積んで参りますと、
当然のように親子の関係も変化して来るものでございます。

幼児期、これは両親の完全な保護の下に知識を積め込み、
現世で生きるための下地を作る期間ですね。

そうして、学童期に入りますと、次第に一人でできることが増えて参りまして、
自我も次第に完成して参ります。
少しずつ両親の保護を離れて、行動の自由度も広がって参ります。
でもまだ責任の所在は両親にありますからね、
子供の喧嘩に親が出る、とか、
子供の尻拭いを親がする、といったことも当然ある話でございます。

さらに自我が確立しまして、成人となり、
親の脛を齧らずとも自分の足で立ち、自分の手で未来を切り拓いて行く、
経済的にも社会的にも自立して生活する。
当然二十歳を過ぎますとそうなっていて戴きたいものでございますが、
それは現代におきましては少し無理なことなのかも知れませんね。

そうして、親子の関係は対等になりまして、
子は両親を「オヤジ」「おふくろ」と呼び、
両親も子を認めて意志を尊重し、自分のことは全て任せてしまうようになり、
と、これが本来の姿ではないかと思うのです。

会社の退社時刻になりますと、
「もしもし、お母さん?あ、僕だけど、今から帰ります。」
なんて恥ずかし気もなく電話しておられます方がたまにおられますけど、
或いは会社員にもなって大人同士の話し合いの中に両親が入って来る、
なんてこともありますけど、

これはまだ、親子の関係におきまして、成人できていないのではないかと思うのです。

これが、
「あ、もしもし、おふくろ?今から行くからメシ食わしてくれないかなあ。」、とか
「あ、かあちゃん?今から帰るからね。愛してるよ。」とかだったら良いのですけど、
(この「かあちゃん」は勿論嫁さんのことですね。)

両親を大切にすることと、成人していないことは違いますからね、
たとえば30才にもなって乳離れできていらっしゃらない人などは本当に恥ずかしいものだと思いますね。

でも、子が正しく成人して親子が対等な関係になりますと、
子も親も幸せになれると思うのです。
私の家庭は北朝鮮のような一種独特な家庭で、最後までそれが叶いませんでしたけど、
そのような関係になることができていたら良かったのになあ、
私も罪を背負い込まずにすんだのになあ、と思うのです。


奥歯にものが挟まった少年


奥歯にものが挟まった少年、っていますよね?
私もそうだったのですけど、
声が小さくおどおどして、いつも何かに怯えているのです。
人の気持ちに神経質過ぎるほど気を遣って、
感情が絶対に言葉としてでてくることがない。

私もそうだったのですけど、
これは抑圧された環境に居たからそうなったのですね。
魂が萎縮していて、自我が確立しておらず、
能力が最大限に発揮されず、
記憶力も集中力もない、運動神経だって人より劣っていて、
たとえばサッカーなどの団体競技では
遠慮して自分から絶対にゴールシュートを取りには行かないのです。

で、こう云った人は非行に走るのですね。
タガが飛んで抑圧が爆発してしまうのですね。
それは正常な反応なのです。
その時に爆発しないまま、30代後半まで抑圧を受け続けておりますと、
タガが外れた時にはとんでもなく凶暴になってしまいますね。
或いは、とんでもなく正義感に目覚めてしまう。

私は後者だったから良かったのですけど、
とんでもなく凶暴になってしまった人は恐らく、
無分別な大量殺傷事件なんてしでかしてしまうのでしょうね。
それは想像には難くないのです。

抑圧から逃れて、生活の自由と魂の自由を取り戻し、
魂の声がそのまま身体の口を通じて表現することができるようになる。
それは早い方が良いですね。

魂の浄化はその後のことなんです。

怒りも、悲しみも、不満も、あらゆる感情、欲求、思惑が
全て自在に発言できるようになりましてから、
その後に想念を正して、
怒りや、悲しみ、不満、好ましくない感情、欲求、思惑が生じないように
しなくてはいけないのです。
感謝する習慣を持ち、愛を育み、慈悲を育まなくてはいけないのです。

だって、怒ることもできない不自由な魂が健康な心を育める道理はありませんからね。

素晴らしい魂を不具にしてしまわないこと、
犯罪者にしてしまわないこと、
病ませてしまわないこと、

気付かなかった、では済まされませんからね、
注意深く、思慮深く、なって下さることだと思います。


大概


大きくまとめてみましょう。

まず、運気を良くして幸せになる方法ですね。

1.胃腸を健康にすること
2.楽しく力一杯
3.気分を高揚させること
4.神仏や守護霊様との関わりを強化すること
5.魂をレベルUPさせること
6.邪気を祓うこと
7.丹田を養い御魂鎮めすること
8.良い気を吸収すること

これに尽きますね。

1.胃腸を健康にする。

ですから一汁一菜、腹八分目が良いのです。
これを一年続けますと運勢が驚くほど良くなるよと、水野南北先生も云っておられます。

2.楽しく力一杯。

仕事でも何でも日中は楽しく遣り甲斐をもってすることです。
そうしますと充実感も得られますし、気分も爽やかになりますね。
それが良い運気を運んで下さるのです。
笑顔も大切ですよ。

3.気分を高揚させること。

音楽を流したり、好きな歌を歌ったり、楽しいことを探して実行するのですね。
音楽はクラシックやジャズが良いですね。
流しておりますと次第に気分も晴れ渡って参ります。
逆に歌謡曲、特に演歌は左脳を使いますからいけませんね。

4.神仏や守護霊様との関わりを強化すること。

心を鎮めて心の中で話し掛けて様々なことをお願いしてみられますと良いと思いますよ。
就寝前が良いですね。屋外で散歩しながら、夜空を眺めながらが良いです。
反省して心の曇りを祓いますとさらに良いですね。
夜は念が届き易いですし、集中もできますからね。
(サイトの祈りのページが参考になるのではないかと思います。)
それから、疑わないことです。神仏の存在に確信を持てるようになることです。

5.魂をレベルUPさせること。

反省して、懺悔して、罪を償うことと、
満足して、感謝して、恩に報いること、
反省は過去の人生の反省と、日々の反省ですね。
日々の反省は、生活、想念、行為が調和した状態になっているか(八正道)を
客観的な中道のモノサシで省みることですね。
そうして間違いや偏りがありましたら懺悔して修正することです。
それから、調和を心掛け、愛の心、慈悲の心を育むことです。
人に優しく、この優しい気持ちが大切でございますよ。

6.邪気を祓うこと。

これはサイトにまとめて詳しく書かせて戴いておりますけど、
正中線上と鬼門から裏鬼門を結ぶ線上は汚さないことですね。
汚れ物や水もいけませんね。
それから、入り口の盛り塩も良いですね。
部屋の換気を良くして、観葉植物などを置き、また火で清めることも良いですよ。
身体の邪気もお茶が綺麗にして下さいますね。

7.丹田を養い御魂鎮めすること。

下っ腹に力を入れて祝詞とか御真言を大きな声で奏上するのですね。
古神道の法で鎮魂もありますけど、
魂が丹田に留まっておりますと健康にもなりますし、勇気も湧いて参ります。

8.良い気を吸収すること

神社の気や早朝の気などは良いですね。
日の出を見ながら深呼吸(日拝行)、
これを続けておりますと正しく生きる信念が生じて来ると思いますよ。


これだけやっておりますと、人生がかなりの部分で思うままになって来るはずですよ。


那智の火祭り


7月15日はお盆でございます。

旧暦の7月15日、これは旧盆で今年は8月15日でございまして、
丁度、月遅れ盆と重なっておりまして驚いております。

7月14日に那智の火祭りがある。
これはお盆の一日前ということで覚えているのですけど、

熊野古道、熊野大社、那智の滝、那智の火祭りと見所も多いようですから、
一度旅にでも出かけてみても良いかなと考えております。
那智勝浦って有名ですものね。
旅行会社のパンフレットでも見たことがありますしね。

魂の鎮魂には「火」が使われることが多いですね。
花火大会もそうですし、
夏の夕に汗を流しながら大きな火、松明を背負って、
でも見ております方は涼を感じるのですね。

行きたいですね。那智。


トークンリング


複数台のコンピュターを接続させてネットワークを構築しようとする際には、
決まりごとが大切になって参ります。
これは人間社会におきましても全く同じことなのですけど、
例えば通信プロトコル、通信を行なう上での決まりごとですね。
人間社会では、日本語とか、英語とか、電話とか手紙とかメールとか、そういった決まりごとです。
有名なプロトコルにはイーサーネットというものがありますね。
それと余り知られていない?もので、トークンリングというものもあります。
トークンリングはIBMさんが生み出したプロトコルでございますが、

トークンリングはトークンというものに情報を乗せて回線上にデータを送る仕組みなのですけど、
このトー君は必ず発信したパソコンに戻って来るのですね。
トークンリングはトー君のわっかなのです。
ですから戻って来るのです。

ウィルスを送り出せばそれが戻って来る。
人を誉めればそれが自分に戻って来る。
人をけなしても、それが自分自身に戻って来るのです。
そうしてその念で深層心理の中の一番深い部分の神様の意識によって、
自らの処遇を決定付けられることになるのですけど、
これを罪と云いますね。

人を赦すことのできない魂は自分自身をも赦すことはできない。
分かってはいるのですけど、難しいものでございます。

神様の意識はコンピューターにおきましてはオペレーティングシステムに相当しますね。
全くコンピューターの世界と人間界はソックリでございます。


夢日記


赤茶けた鉄の階段を上がったり下がったり、

どうもここは幽界のようです。

各階に大地が広がっています。

老婆に「鬼を知りませんか?」と訪ねると、

私を井戸の前に連れて行って、

杖で井戸を突付きながら何やら奇妙な呪文を唱え始めた。

目の前に何か沢山の白いものが動いている。

「何か見えます。」と云いますと、老婆は、「そうか、見えるか。見納めじゃ。」と

老婆と別れて階段を2階程登りますと、ケシの花が沢山咲いておりました。


みぷう風


私の名前はアレン、ママはミランダ。
ママにはアレンダという姉がいて、遠く離れた街に住んでいる。
私はまだ会ったことがないのだけど。
アレンダにはマリーとミリーという名前の双子の女の子と、
アランというお兄さんがいるらしい。

ある時ママが、「大切な話があるから来て」とアレンをアレンダのところへ連れて行ったの。
マリーとミリーはちょっと違うけど、ソックリ。
一緒だとその違いはすぐに分かるけど、別々に見ていると分からない。
でもね、マリーとミリーより、マリーとアレンの方が似ているの。
「これはどういうこと」ってママに聞いた時、ママは悪戯っぽく笑ってみせたわ。
私の本当のママはどっち?


ある時ミランダ家族とアレンダ家族で旅行したの。
300年後の未来へタイムトラベル。
そこでアレンダの孫達に会ったわ。
そこにアランとソックリの男の子がいてびっくり。
性格から何から何までアランに似ていたの。

旅行から帰って来て一ヶ月経った頃かな。
アランが日中行方不明になる日が何日か続いたの。
その時着ていた服が300年後の彼のものと同じように見えた。
「これどういうこと」ってアランに聞いた時、アランは悪戯っぽく笑ってみせたわ。
アラン、騙したわね?


こんな夢見ました。(爆)


少林サッカー


少林サッカーという映画がありましてね、
殆どの方は間違いなくご存知だと思うのですけどね、

神懸りした少林拳は物凄い力を発揮するものなのですけど、
少林拳という素晴らしいものを持っておりながら、
目まぐるしく動く企業や社会の歯車となって身も粉にして、
命を削りながら働いております間に自分を見失ってしまった兄弟達。

少林拳なんてすっかり忘れていた、
いや、過去の栄光に囚われていると嘆くしかできなくなってしまう、
だから思い出さないようにしていたのですけど、
その兄弟達がサッカーをすることになるのです。

人生のリハビリのようなサッカー

そのサッカーの練習を通して、次第に少林拳の感覚が蘇って参りましてね、
最後にはトーナメントで優勝するというお話なのです。

私も感覚を失ってしまうことが多いです。
生活が乱れますとどうしてもそうなります。
そんな時は私の発言はどうしようもなくお間抜けです。
本当に、嫌になりますよ。

でもね、生活を正して、丹田にしっかりと魂を鎮めますと、感覚は蘇って参ります。
行者が行に入って暫くしますと得られる感覚ですね。
集中力や感性が研ぎ澄まされた感覚です。
安らかで安心感があり、暖かくて、自信に満ちて、楽しい感覚です。
本当に、「よくお戻り下さいました。」って気持ちになります。

さて戻って下さいましたところで仕事に掛かりますか。


皆様へ


この世界は空蝉の世界でございます。
私達の身体もいつかは必ず朽ち果てるもの、
でも、この身体が私達ではなく実は私達も霊的な存在であるのだと知ることができましたら、
そうして、私達が死というものを恐れずにおりましたら、
私達はこの世界のどのような事象にも煩わされることはなくなりますでしょう。

与えられました今生での命を力の限り生きて、
そうしますと必ず霊的なサポートが得られるのです。
たとえそうでなくても、
死を恐れぬ私達に何の未練がありますでしょうか?
生きる道が閉ざされましたら、元の世界へ帰るだけのことでございます。

生きる、
ただ息をしておりますだけでも、それは生きていると云えますでしょう。
でも、それでは勿体無いですよね。
できることを一つでも二つでも力一杯に挑戦して、
それでこそ命は輝くのです。
人生が楽しくなるのです。

疲れましたら休んで良いのですし、遊んでも良いのです。
神様も、誰もそんなことで責めたりはしないのです。
そうして、今生を力一杯に生き甲斐を持って命を楽しんで、
命の終焉を迎えます時には、「ああ、今生はよく頑張ったな」と
そうなりますと、それは本当に有意義な人生ではありませんでしょうか?
充実感と、悦び、
何の悔いも残さず神様の元へ帰ることができましたら、
来世にも希望が持てますでしょう。

そのような生き方をね、
私達はしなくてはいけないのだと思いますよ。


今更アンゴルモア


ノストラダムスが予言した1999年7の月

その事件は既に発生していたのだ、と
私は確信しているのですけど、

予言の文章はこのようなものでございました。
「1999年7の月に空から恐怖の大王が降ってくる
アンゴルモアの大王を蘇らさんと・・・」

2001年9月11日に悲しい事件が起こりましたね。
予言書に記されました年の凡そ2年後になりますが、
ニューヨークの世界貿易センタービルの二つの建物に旅客機が二機突っ込み、
ビルは跡形もなく崩壊ました。
人口で云いますと2つの街がそっくり消滅してしまったことになるそうです。

旧約聖書には、ソドムとゴモラの2つの町が
空から降る硫黄と炎により、鋭い音と閃光を伴って消滅したという記述がございますね。

ソドムとゴモラ、

ソドム アンド ゴモラ

アンドゴモラ

アンゴルモア

旅客機という紛れもない恐怖の大王によって、
ソドムとゴモラの事件は再び蘇ってしまったのです。
2年の遅れが生じましたのは、神様方が食い止めて下さっておられましたからでしょう。


友情と愛情


もしもあなたの友情が
不安定で周りのものに寄りかかる大きな岩だったらどうだろうか?
或いは友達の足元をすくうシャベルだったら、
或いは友達の頭上に振り下ろされるハンマーだったら、
全てを奪い取ろうとする悪巧みだったらどうだろうか?

友達はきっと、そんな友情は要らないというでしょう。
だから友情は真に差し伸べられる手でなくてはいけませんね。

もしもあなたの愛情が
ネチャネチャまとわりつく納豆だったらどうだろうか?
執拗に貼り付くガムテープだったら、
ヒリヒリするようなカラシだったら、
凍えるようなドライアイスだったら、
ガチガチに固めてしまうセメントだったらどうだろうか?

誰もがきっと、そんな愛情はいらないというでしょう。
だから愛情は真に人を生かそうとする暖かな想いでなくてはいけませんね。





気と云いますものは、誰にでも見れますし、臭いだってあるのです。

ここに気が見えるよと教えて差し上げますと殆どの方が気を見ることができるのです。

気の見方を教えて差し上げますと、それでも殆どの方が気を見て驚くのです。

感性を研ぎ澄ましますと、

家の中がどのような気で満ちているのかも分かるようになるのですけど、

殆どの人が気と云いますものに鈍感でございますね。

気が見えるようになりましたら、

どのような動きで気がより放出されるのか、

想念の状態は、時間帯は、と

色々とやってみたくなるのではないかと思うのですけど、

実際にはそうではないのですね。

気がある程度解明されましたら、

次は光(オーラ)へと進んで行って戴きたいものなのですけどね。

どうしてそういった素晴らしい力を自分のものにしようとなさらないのか、

私から見ますと不可思議この上ないのですね。


実は近々、光療法のセミナーでも始めようかなあと思っているのですけど、

私のサイトにも殆どヒントのようなものを書いているのですし、

誰でも簡単に究明できることを何で今更、改めてセミナーを始めなくてはいけないのか、

する価値のあることなのか非常に悩んでおります。


光療法はキリスト様の行っておられました治療法なのですね。

お釈迦様もされておられましたようでございます。

高橋先生も行なっておられました。

理論はもう全て書き尽くしているのですけどね、

勿体無いことに誰も余り読んで下さっておられないのではないかと思います。

困ったものです。


魔王の思惑、対立する二つの世界


ここに魔王の思惑と思われる恐ろしい概念がございます。

この宇宙は神の支配する光の世界と魔王の支配する闇の世界が対立している場所である。

いいですか?これは完全な間違いですよ。
魔王が広めようとしております危険な概念なんです。

この文章を一時間も声に出して読み上げておりますと
心が圧迫されて苦しくなってくると思いますよ。

最近、この危険な概念が人々の間で広がっておりますようで、

恐ろしいことだと思います。

いいですか?
光の反対が闇ではないのですよ。
光のない場所が闇なのです。
闇は光には勝つことがありません。
そうして全ての存在は光で作られているのだということ、
ですから、私達全ての人間が、たとえ魔王でありましても神様の子供だということを
忘れてはいけませんよ。

ですから、正しくはこのように認識して下さいませんといけません。

この宇宙は高次元体であります神の高い意識によって作られ、
調和の法の下に管理されております世界です。
残念なことに時として調和の法に逆らう魂が闇に棲んでおりますことがございます。
それは神が私達に神と同等の能力、即ち光と闇を選択する権利、自由を、
お与えくださいましたことで可能になったことであり、
幼くて愚かな魂は間違った選択をしてしまうこともあるということでございます。
魔王も、苦しみの中から真理に到達し、いずれ光の世界に戻ることになりますでしょう。
彼らも神の子なんですから。


産まれた頃の記憶


先日、何かの拍子に産まれた頃の記憶が蘇りました。

襖の前に、私は寝かされておりまして、

そこに割烹着を着た人がおりました。

薄暗い場所でね、

「なんか薄暗い所に来ちゃったな」って感じておりました。


昨夜は、ピーマン、もとい、サラリーマンだった頃の夢を見ておりました。

仕事が嫌で客先から逃げ出そうとしていたのですけど、

何だか帰してもらえそうにない雰囲気で、

逃げ出す機会を窺っていたという変な夢なのです。


あの頃は本当に仕事が嫌でしたからね。(笑)


元凶


誰だって自分が一番可愛いものでございます。

でもそれが、全ての元凶なんです。
自分が一番可愛いのですから、当然自分に良くなるように、
自分に利益が沢山入って来るように考えます。
ですから自分に甘く、人に厳しくなって、いじめや犯罪にも展開してしまうのです。

自分のことばかり考え、自分に良くなることばかり主張しておりましたら、
社会がそういった人達ばかりでしたら、この世界は阿修羅界になってしまいますね。
血みどろの争いが絶えなくなってしまいます。

ですからね、まず理解して差し上げることなんです。

どのような悪人でも自分が一番可愛いのだと、
理解して、赦して差し上げることなんです。
自分のことはさて置き、相手の立場に立って、
相手が少しでも良くなるように考えてあげることなんです。

理解して赦して差し上げますことができますとね、
御自身も光に包まれて安らぎの境地に到達できるのです。

でももしそれが嫌だというのでしたらね、
そんな人は地獄に落ちれば良いのです。
真っ暗な極寒の地獄の闇の中で反省すれば良いのです。
それが自身の幸せになるのですから。


ちなみに、このようなネタがありました。

「先輩、私、自分のことが好きなんです。」
「奇遇だなあ。僕も、自分のことが好きなんだ。」

キャッチアンドリリース
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友達以上 自分未満 ♪