ブログより転載(2008年7月)

 

開運できる人とできない人


開運、できませーん。って仰られます方が時折にいらっしゃるのですが、
何故か殆どの方が、「自分には問題がないはずなのに」と考えていらっしゃる。

これは面白いことでございますよ。

そうしてまた、ご自分のことに終始して、その心には、
不満や不安、依存心がうずまいているのですね。

それで開運なんてとてもではないですけど、叶いませんね。
でも視野が狭くなっておりますから、それが分からない。
こうしたらどうでしょうか?って教えて差し上げましても、
視野が狭い故に表面的な理解しかできないのですね。

では、どうすれば開運できるのでしょうか?

運気はね、楽しい楽しいと力一杯に頑張っております時にどんどん良くなって行くのです。
広い視野とバランス感覚。中道というバランス感覚ですね。
それから、原則他力本願ではいけません。
強い信念と自立心で遣り甲斐を持って前向きに挑んでおります時に、
霊的なサポートは得られるものでございます。
ただ、それに期待してもいけない。

音楽も良いのです。
笑顔も良いのです。
自然に触れることも良いのです。
ウィンドウショッピングも良いのです。
楽しくなれることを探していつも明るくウキウキ。
ウキーウキーではありませんよ。
それでは猿ですからね。(爆)

でもそんな時に心に不安や不満といった暗い念が渦巻いておりますと、
それではダメなんです。
人生、何をする時も明るくウキウキ。
仕事だってそうですよ。
楽しく笑顔で頑張っちゃう。
天使はそんな渦の中にいるのです。
暗い念の渦の中には天使はいないのです。
そこにいるのは魔物ですよ。魔物。


結婚式の披露宴


結婚式の披露宴で親戚のおじさんが必ずするであろう「3つの袋」の話に代わるものを考えてみる の巻。

必ず心掛けて欲しい3つの心

1.真心
2.遊び心
3.互いを思い遣る心

必ず守って欲しい3つの約束

1.共に学び成長するという約束
2.互いに赦し合うという約束
3.添い遂げるという約束

必ず育んで欲しい3つの宝物

1.憎しみではなく愛という宝物を育むのだということ
2.幸せという宝物を育むのだということ
3.子宝を生み育てるということ

でも、これでは面白味が全くないですね。
やはり「3つの袋」に勝るものはないのかも知れませんね。(爆)





生まれてきますでしょ?
その時にはみんな大きな心を持った大きな自分なんです。
それがね、学校へ行きだしたりしますと、不満を持ってしまうのですね。

嫌だ嫌だ。学校なんて行きたくない。
算数の先生が嫌いだ。
人参が嫌いだ。ピーマンが嫌いだ。
こんな服嫌だ。
ってね。

そうしてそれが原因でどんどん心が小さくなってくる。
小さな自分になって行って、小さな枠に縛られて行って、
で、人生の自由度も狭まってくるのですね。

自分の人生なんですから自分で幾らでも思う通りにできるのですけど、
それさえもできなくなってくる。

その殻をどうやって破るのか。なんです。
神理に気付いて、さて、どうやって大きな自分を取り戻すか、
考えるのですね。

悩んでおりましてもその殻は破れない。
何かを始めないことには破れないんです。

あなたなら、どうしますか?
どうやってその殻を破りますか?

例えば、大声で御真言を唱えてみる。
例えば、修行をしてみる。
例えば、旅をしてみる。
例えば、大きなことを始めてみる。
例えば、サブリミナルテープ。
例えば、例えば、例えば、

どんなことだって良いのです。
でもね、命がけで真剣にやってみることなんです。
だめだったらまた別の方法を試せば良いんです。

でも、それをしない限り、大きな自分を取り戻すことはできないのですよ。
そうして頑固爺さんや頑固ばあさんで一生を終えるか、
人生につまづいて悲運の生涯を閉じるか。

そんなことは絶対に止めて下さいね。
そんな弱々しい人生を送る積もりなのでしたら、怒りますよ。
方法はね、幾らでもあるのです。
でも、明らかに間違った方法は試さないほうが良い。

まあ、頑張って下さいませ。


霊雲


今夜は不動明王様の雲が現れておりました。
私のサイトにもありますお札の図柄ような雲なんです。
ような、と申しましてもまるっきりそのままで、
炎が燃え盛っております形がくっきりと現れておりました。

これは不動明王様がそのようにして下さいましたわけではなくて、
私の心の中の状態が現れているのですね。
大自然界の法則で、
不動明王様の意識をになれば、それがこの世界に形として現れるのですね。

不動明王様のような菩薩様の中でも高い所におられます方は、
直接私なんぞにお力添え下さいませんからね。
全て指導霊様を通してなんです。
私の念も滅多なことでは届きませんし。

ところで、人生には目標が4種類ありますね。

チャレンジ目標と、
目標と、
妥協案と、
最低ライン。

まるでどこかの会社の予算案みたいですけど。(笑)
でもね、そうなんです。

優しい神様や守護霊様、特に菩薩様などは妥協案を提示されるようですね。
厳しい神様や守護霊様、特に如来様などはチャレンジ目標を掲げて、
私達に発破を掛けて下さる。
でもね、妥協案に甘えておりますと今生は余り成長できませんね。
人生も楽しくないですし。
やはりチャレンジ目標に挑んでおります方が遣り甲斐があって
人生が楽しいものだと思うのです。

これを下回ったらいかんぞというギリギリのラインが最低ラインですね。
最低ラインを下回りますと守護霊様が護れなくなりますから、
そんな時に災いは生じますね。

だってそうでしょ?
守護霊様が護って下さっておりましたら、災いなんて起きるはずがないのです。
守護霊様が護れなくて悪いものを追い払えないから、
災いが起きるのです。

折角生まれて来たのですから、せめて前世で自ら計画し約束した目標は
クリアしたいものですね。
そうして、神の子供として、力一杯前向きにチャレンジ目標に挑んで行きたいものだと、
思いますね。

皆様はそう思われませんでしょうか?


高橋信次先生


彼はお釈迦様であったと私は確信しているのですけど、
彼には守護霊と指導霊にモーゼ様とキリスト様が付いておられたのですね。
ある時にモーゼ様とキリスト様に悟るように脅されまして、
「悪魔なら改心させてやろう」と決意するのです。
それこそが先生の真の使命だったのですね。

そうして先生は如来であるところの心を取り戻しまして
沢山の人に、反省と八正道に基く調和した生活、想念、行為の大切さを教えて行ったのです。

彼の周りには沢山の、釈迦時代の弟子達が集まりました。
そうして、先生の光の強さと教えの正しさ故に沢山の人が心眼を取り戻し、
沢山の人が前世の記憶を取り戻したのです。

高い次元から正しく導かれましたら、前世の記憶までは取り戻せるのですね。
(それが即ち悟りということではありませんけど。)
導かれていない私達が心眼や前世の記憶を取り戻すことは困難なことであるのですけど、
(心眼は巷の低レベルの霊能力ではありませんよ。)

今、彼のように沢山の人の心を調和させることのできる人がおりますでしょうか?
残念ながら世界中どこを探しましても一人もおりませんね。
彼と同等の力を持つ人が現れましたら、
私はすぐにでも馳せ参じてその教えに従いたいと考えているのですけどね。


出稼ぎ大国、日本


最近はテレビで頻繁に介護士のことが報道されておりまして、

昨夜は認知症の御老人のことが取り上げられておりました。

脳の機能が衰えてしまうのでしょうね。

毎朝自己紹介から始まる認知症の御老人とのお付き合い。

余程辛抱強い人でありませんと無理でしょうね。

きつい、給料が安い、汚い、

そういった理由で介護士さんの数はどんどん減少しておりますようで、

その反対にインドネシアなどでは日本向けの介護士を養成していたりするようです。

日本は良い出稼ぎのターゲット国になってしまっているのですね。

また円が海外に流出して、日本人は貧しくなりますね。

日本人を放っておいてアジアの諸外国人ばかり養っている日本政府は、

本当にお馬鹿なんだと思います。

日本はさらに出生率が低下して、老人が増え、犯罪が増えて、

認知症の御老人も勿論増えますでしょうね。

出稼ぎ大国、日本!

老人大国、日本!

認知症大国、日本!

でもね、介護士さんのあれだけの愛がありましたら、

認知症は必ず良くなる方向へ持って行けるはずなのです。

医学は心がない前提のものですから当然ではありますでしょうけど、

その方法を日本の医療関係者が知らないのは本当に残念なことだと思うのですね。

認知症の患者さんが減りましたら介護士さんも少しは楽になりますでしょうし、

海外の出稼ぎ労働者に頼る必要もなくなると思うのです。

なんで一生懸命に働いて下さっておられます介護士さんの食いぶちを

出稼ぎ労働者に奪われるようなことを平気でするのかなって思うのです。

福田さん、舛添さん、馬鹿も休み休みにして下さい。

3のつく日くらいはまともになって下さい。

って思うのですよ。


ソドムとゴモラの街


ソドムとゴモラの街を
神はその光と炎によって焼き払われた。

堕落した者の
命から魂を引き剥がし、
最も相応しい修行の場所へと送られたのだ。

神はそれをいとも簡単にやってのける。
そうしてこの世界にも
心正しき者が皆無になれば、
神は同じくその光と炎で
この世界を焼き払ってしまわれるだろう。

神の愛は堕落した者には一層に厳しく
容赦なしに私達を私達の心に相応しい世界へと送ってしまわれるのだ。
厳しき愛を以って。


法、その2


間違った法もある。

低い次元の法もある。

魔は自らの権威と立場を保つために間違った法を広めるだろう。

自己満足のために低い次元の法を広めるものも多いだろう。

未熟な者はその見極めさえできない。

そうして、自ら危険に足を踏み入れて後悔するのだ。

疑うこと。

自らが心の底から納得できるまで疑い、見極める、

その訓練も大切なものだと思う。

最初に人が躓くのは、まず誰のために生きるのか、ということ。

それは勿論自分のために生きるのだ。

ただ、自分のことだけに終始していてもそこからは何も生まれない。

心は暗く深く沈んで行くだけだろう。

人のために神の愛の中に生きてこそ、

その愛は、その慈悲は、その暖かな想いは幸せを生むのだ。

そうして必ずまた自分に戻って来る。

大きくなって戻って来る。

それこそが神の子としての真の幸せなのだ。

真の歓びなのだ。

そこから自他同一ということも理解できるだろう。

心も一段と成長できるだろう。

愛だって、優しさだって、信念だって、心の強さだって、

一段と大きくなり逞しくもなれるのだ。





法は全てを超越させて下さる。

波紋も生じない湖面のような安らかな心を与えて下さる。

たとえ地球がそこに住むものの心の貧しさによって

住むことが適わない星になってしまっても、

心の奥深くにはそれさえも超越させて下さる神理の宝石がある。

なにものにも乱されることのない絶対の神理の法石がある。

たとえ食糧難で多くの人が食べることさえできなくなってしまっても、

人間にしか通用しない権力者が社会を悪魔の棲家に変えてしまっても、

他人事のように「可哀想だなあ」と客観的に見ていることができる。

その苦しみを逃れさせることができるのは法しかない。

苦しみを逃れるために心の次元を上げる、それが法なのだ。

そうして、法は老婆心で人に多くのことを語らせる。

その声に耳を貸さないものは苦しみの中でいつまでも悶え苦しむのかも知れない。

法を知ること。

そうして心を更に高い次元に昇華させること。

いかなる苦しみも及ばない高いところまで。


命の価値


何を探してさ迷っているのか

心の綺麗だったあなたが

今生では道を踏み外している

苦しみに喘いでいる

誰のために生きているのか

何のために生きているのか

何をするために約束して

生まれて来たのか

かけがえのないもの

一番の宝物は一体何なのかを

見失っている

花を見て綺麗だという

ならばその花のように

何故生きようとしないのか

どこにいて何をしているか

ここでは余りそれは重要ではない

どのように生きたかが重要なのだ

どれだけ愛したか

どれだけ慈しんだか

どれだけ赦したか

どれだけ育んだか

どれだけ輝いたか

その光の分量が命の価値になるのだ

迷うことはない

あなたはあなたの綺麗な心に戻って

真っ直ぐに生きることだ


変わる時


変わる、変わらなくては、変われば、変わる時、変われ!

人は、変わることができるものでございます。

今よりもう一段高いステップに立ち、

大きな視野で、

もう一回り大きくなり、

社会からも認められ、

自らの力で生き抜き成功を収めて、

その方法はもう既に私の中で確立されております。

そうして、私は生まれ変わったのだと思います。

変わることを求めれば必ず変われるのです。

たった3日でもその方法さえ正しければ人は変われるのです。

でも変わることを怖れて変わろうとしなければ、

人はいつまで経っても愚かな生き方を続けますでしょう。

年長者だから聡いなんてことはないのですよ。

老人でも頑固で偏屈、自己中心で人に迷惑を掛けている人は沢山おります。

過ちを過ちとも気付かず呑気に周りに迷惑ばかり掛けている政治家、教育者、経営者、

自分の子供でさえ立派に育てられないだらしのない親、

殆どがそうではありませんでしょうか?

人は、変わらなくてはなりません。

変わりなさい。変わることです。変わらなくてはなりません。

変われ!もっともっと正しい在り方を求め、光を求めて生きなくてはなりません。

人よ、与えられた生ぬるい環境に甘えるな。

自分のことは自分でできるようになりなさい。


若い人へ


若い人へ

私もまだまだ若いのですけど、

高校生の方はバイク等に興味を示されますね。

格好良い生き方に憧れてギターを始めたり、

バイクの後ろに女の子を乗せて粋がったり、

確かにそれは魅力的な生き方でございましょう。

でもね、それも全て親御様の存在あってのことでございます。

たとえば外でそういった格好良い生き方を求めておりましても、

親御様を邪険にして、親孝行もせず生意気な口を叩いたり、と

それは人間として本当に格好の悪い生き方でございます。

親御様への感謝は勿論のこと、社会に対しての道義も弁えた上で、

ご自身の自由な生き方、格好の良い生き方も許されるのだといいますことを、

しっかりと認識して下さいますことでございますよ。

それが格好の良い立派な大人、立派な社会人なのですから。

自分の物差しで格好良い生き方をしておりましても、

客観的な周りの人の物差しで、

それがとんでもなく格好悪い生き方でありましたら嫌でしょう?


想念と言葉の調和


言葉には、想いを伝えるという目的がございます。

想念がそのまま言葉として生じて来る。
それは自然な現象でありまして、人はできればそうであったほうが良いのです。
何故ならそれが実在界では当たり前のことですし、
それが調和というものでございます。
それに、言葉と想念がバラバラでは次第に不調和になってしまいますでしょう。

間違った想念を抱えながら、それを言葉としては隠そうとする。
これは一般的な人の行動様式でございます。
ここに2つも間違いがあるのですね。
まずね、間違った想念を生じさせないようにしなくてはいけないのですね。
次に、想念を言葉として隠してはいけないのです。

隠した言葉は、いずれ実在界に戻りました際に、皆の前で全て暴かれます。
「なんだ、こいつこんなこと考えてたのか。」って云われます。(爆)

ここに会話する毎に私をいらつかせる人物がおりました。
間違った想念を抱えながらその想念が言葉として出てくるのですね。
ご自身では気付いておられないのですけど、その殆どが嫌味なのです。
(私も似たようなものかも知れません。)
反省の習慣がないのですね。
想念を正しますともっと皆から愛されるのになあって思うのです。

そりゃ言葉を隠した方が人間関係は上手く行きますでしょう。
でもね、心から生じる言葉が素直に言葉として現れる人の方が、
想念を綺麗な状態に保っている人の方が、
皆から愛されると思いますよ。
その方が、実在界に戻ってから苦しむなんてこともありませんしね。


五体の本質


私達、生きております全てのものには身体が与えられておりまして、
この身体は神、即ち高次元体の形を写しておりますことは
どこかでお話させて戴いておりますけど、

腕は、愛と慈悲を顕しているのですね。
愛と慈悲を持って奉仕しなさいという意味なのではないかと思います。

そして両足は、信仰と義を顕しているのですね。
人は信仰と義によって大地に立つことができるのです。

万物の存在の根源であります神を信じて、
私達が神様の子供であることを自覚して、
そうして義を持ち、勇気を奮い立たせて、
それで人は大地に力強く立つことができるのです。

目は、耳は何故頭部に存在するのか、
それは高い所から見なさい、聞きなさいと、
そうすることで視野が広がり、危険を回避することができるのです。
ということなのでしょうね。

高い所と云いますのは、勿論位置的な問題だけではなくて、
精神的な高い次元でもあるのですね。


心を開く


この創造神の意識の中の世界にありましては、

問題には必ずその答えが存在し、

悩みには必ず解決策があるのです。

それが神様のお慈悲、神様の愛ですね。

ところがその神様のお慈悲や愛も、

狭い視野と頑ななお心では答えを得ることができないのです。


心を開くこと、

素の自分をさらけ出すこと、

ありのままの姿で何も恥じることはないのです。

心を開いて全てを受け入れ、

神様の愛の光の中に全てを委ねることなんです。


幼子のように素直で感受性豊かに

そうして経験を積み重ねるごとに愛に溢れ慈悲に溢れ

心を丸く豊かに

人生を実りある豊かなものに

どんなものでも受け入れ

誰とでも心を開いて笑い合える


そんな人生は如何でしょうか?


振り返る時


自らを振り返る時は反省の時だけで良いのだということ

反省してまた心を明るく輝かせれば、

また外に向かって力強く歩き出せば良いのです。

内側に反省して、外に向けて光を放ち懸命に生きて、

定められた道をただ歩めば良いのです。


そうして、疲れたら休めば良い。

充実感を伴う心地良い疲れは明日への希望を与えて下さいますでしょう。

それに、前向きな調和の中では、人は余り疲れないものでございます。


不安なんか持つからややこしくなってしまうのです。

守護霊様は間違いなくそこに居て下さっておられるのですから、

安心して、全て任せて、

私達は生かされるままに、

ただ与えられた道を力一杯に歩くしかないのです。


その中に真の幸せがあるのだと思いますよ。


縮図


神様は実在界とそっくりに、この世界をお造りになられました。

天は高い場所にあり、陰は低いところにできるのです。

太陽が神様で、お月様が守護霊様、無数の星たちが魂の仲間達で、

地球は命を育む母体なのです。

神様の愛である光は万物を照らし、

私達が迷いに入ってしまわないように、

その進む道をも照らして下さっておられます。

夜は母の愛である月の光が私達を照らし、静かに見守って下さっているのです。

守護霊様は必ずお救い下さるのです。

それに気付かぬ魂は自己中心、自己保身、自我我欲に明け暮れているから、

守護霊様の声さえ届かない。

その暗い想念が月の光、太陽の光さえ遮ってしまうのです。

暗闇に潜むものは間違いなく悪いものなんですね。

盗人、詐欺師、殺人犯、

霊の世界でもそれは同じなんです。

妖怪、悪魔、鬼、地獄霊。

心の隙を突くものだって同じです。

神様の法がこの世界に現象となって現れております所以でございます。

あちらの世界の投影がこの現象界であり、

この世界はあちらの世界の縮図なんですね。


七夕


今日は七夕でございます。

お星様はいつも定められた場所で輝いております。

そうして、気付けばいつのまにか毒されている自分というものがおります。

不満という毒。

愚痴という毒。

人は何故この与えられた素晴らしい環境に不満など持つのでしょうか。

自らの境遇を哀れんだりするのでしょうか。


私達は定められた場所でただ輝き続けることが大切なのですね。

あのお星様のようにね。


夢日記


トゥーインクンという名の付いた小道がございます。
そこは暗く細い道で、トゥーインクンという鬼が住んでいると云われておりました。
そこを通るためには、「トゥーインクン」と云いながら通らなくてはいけない。
「トゥーインクン」と云っておりますと、鬼は動けなくなるのです。
その代わりに空から沢山のものが降って来るのですね。
その鬼が投げて来るのです。

私達が空から降ってまいりますものを除けながら、
「トゥーインクン」と声を合わせて歩いておりますと、迎えの方が来て下さいました。
その方が、トゥーインクン、とは日本語で「まーだだよ」という意味だと教えて下さいました。

最近、幽界に行っておりますことが多いです。
やはり布団を引かずに床にそのまま寝ておりますと寝苦しくて
どうしても幽界に行ってしまうのですね。


夢日記


昨夜は岩石の講義を受けておりました。

海の中で砂が堆積してできたものが堆積岩。
これはもろい岩です。
茶系の色で年輪のような縞模様があることが特徴です。
それがプレートの移動や地面の隆起などによって、持ち上げられて行くのですね。
その間、長い年月と圧力や熱が加わりまして、
次第に硬い岩となり、
圧力と熱が加わりましたものは、そこに含まれる分子によって様々な色が生じて参ります。
花崗岩や龍紋岩・鉱石ですね。
龍紋岩は縞模様が龍のようにくねっているのが特徴です。
それから、マグマによって溶かされ、火山の噴火によって地上に現れ、
溶岩が冷えて固まったものが火山岩です。

標高の高い場所で岩から崩れ落ちた岩は角張って大きいものですね。
それが雨や河の水に流されて角が取れて参ります。
丸く小さくなって行くのですね。

って、こんな内容の講義。


アイデンティティーの成立


人にも大宇宙大自然界の万物に見られるような、
引力と斥力といった互いに相反する2つの力が働いていますね。
人にどう思われるか、といった斥力と
魂の声に忠実であろうとする引力ですね。

斥力が大きい人は社会的な平衡感覚を身に付けている従順な性格ですけど、
心は疲れてしまいますね。
たとえば幼少期に問題があって、
常に人の顔色を窺っているような人はとかく心に問題を抱えがちですね。
こういった人は勇気を持ってご自身の魂の言葉を表に出すことが必要ですね。

引力が大きい人は我が強く個性のある性格ですけど、
社会的には人間関係を器用にこなして信用を得ることが難しいですね。
たとえば我侭に育てられて、
人の気持ちを察することに無頓着な人、空気が読めない人は沢山の人から嫌われますね。
こういった人は我を抑えて周りに視線を向ける訓練が必要ですね。

ここでも勿論、中道の在り方が大切でありますことは云うまでもないのですけど、

また、別の指標で、
ご自身のことばかり考えておられます方と、
ご自身のことには無頓着で人のことばかりに目が行ってしまわれます方がおられますね。

ご自身のことばかり考えておられます方は、
お心が狭くうじうじと悩み込む人が多いですね。

人のことばかりに目が行ってしまわれます方は、
人に厳しくて陰険だったりお節介焼きだったりして兎角口うるさくなりますね。

ここでもまた、中道が大切でございますね。

人と自分

誰でも自分が一番可愛いのですから、
自分には厳しい目に、人には優しい目に、
そうして社会における自分というものの存在を客観的な視点で捉えて、
常に均衡の取れた状態に保つ努力と、
ご自身の心に素直になって、勇気を持って発言する、行動する努力、
そういったものが大切なのでしょうね。

どうもこの件はもう少し深く掘り下げて考えてみる価値がありそうでございます。
日を改めてもう少し考えて参ります。


尊きもの、敬うべきもの


尊きもの、敬うべきものは、自らの心と悟りをお開きになられました仏だけで良いのです。

勿論、先を行く者を手本とすることは大切ですけど、

宝石と生ゴミのどちらに近いかと云いますと、生ゴミに近いのです。

神と獣のどちらに近いかと云いますと、獣に近いのです。

仏を見抜けず、世俗に塗れた先達を師と仰ぎ、

大いなる悟りの機会を逃してしまわれましても、

恐らくそれはご自身の業によるものでありましょうけど、

何と勿体無いことかと思います。

悟りをお開きになられました仏やその弟子に

猿を「仏陀さん、これが私の師でございます。」と紹介されましても、

師の素晴らしさを幾ら説明されましても、

仏やその弟子が猿に仕えることは絶対にないのです。

2千年強の歳月を経て転生されて生まれて参りました仏陀釈尊、

高橋信次先生を見抜けなかった私も、

今となりましては愚か者であったとしか云えませんけど、

彼を超える者が現在のどこにおりますでしょうか。

仏は転生しない、と、仏もあらゆるものが神の法の下に転生する。

神は私達人間の幸せだけを願って下さっておられる、と、

神は大自然に含まれる万物に調和の道を示して下さっておられる。

神が神罰を下す、と、

神が神罰を下すのではない。自らの中に存在する真実の心についた嘘が自らを裁くのである。

欲しい物を引き寄せて贅沢な暮し、満足する暮しをすることが真の幸せである、と、

与えられた範囲で満足し、

その範囲で力一杯に生きぬく努力が徳となり、天に宝を蓄えるのである。

そのどちらが正しいのかも見抜けないから、

魔の洗礼をも受けなくてはいけなくなってしまうのです。

心が闇の状態で魔を導こうとすれば、当然魔はご自身の心を支配しようとしますでしょう。

それを理解しないまま自らが師である、尊師である、と名乗り出るものがおりますから、

私は恐ろしい。

それは魔に憑依された者をただ増やすことにしかならないからです。

まず教祖が魔に支配され、

次々に弟子達が魔にやられるのです。

それがどこの団体か、

全てですよ、全て。

それは仏陀釈尊の正法、高橋信次先生の正法を知らないから。

宇宙の、大自然界の法を理解していないから。


残念なことに、私が高橋信次先生のことを申し上げましても、

新手の新興宗教の教祖ではないか?怪しいのではないか?

と疑われます方も多いことと思います。

神も悪魔も見抜けない人が仏を見抜けるわけはありませんでしょう。

でも、どこかの宗教(仏教、神道も含めて)や精神世界系の団体に走るくらいでしたら、

その前にまず彼のことを良く知って欲しいと思いますね。

それで道を踏み外さずにすむのでしたら、それは願ってもないことでございます。