ブログより転載(2008年10月)

 



妨害するもの



与えられた命は、無駄にするものではない、と思います。

私は産まれた時から私の人生を妨害するものがあることを感じておりました。

そうしてそれは、執拗に私を苦しめて、私の人生を暗闇に引き摺り込もうとしておりますように、

感じておりました。

じゃじゃじゃじゃーん♪

でもね、それは実際にはそうではなかった。

神様も、守護霊様も、ご先祖様も大きな愛で見守って下さっておられるのです。

では、何が妨害しているのか、と考えて参りますと、

それは今までの人生で培われた考え方や生活習慣であったり、想念の暗さであったり、

心の狭さであったり、頑固さであったり、と

そういったものが廻り廻って妨害する作用を生じさせていたことが分かったのです。

ただ、日々を愛と感謝の中に倹しく慎ましく生きる。

心を輝かせて笑顔で明るく楽しく生きるんです。

そうしますとどんどん幸せは廻って来るようでございます。

だって、誰でも心の暗い人のところよりは明るい人の方に集まりますものね。


メカニズムってありますね。

例えば、人が一日何も口にしませんと、凡そ500グラム体重が減ります。

二日で1キロ、四日で二キロ、

でも、そこから体重の減少度合いが緩やかになるのです。

これは身体が栄養失調の危機に対応しようとするのですね。

身体の中の変化は私には分かりませんけど、

身体はまた神様の光、エネルギーを最大限に取り込むようになるのですね。

その時に、人は神妙な心持ちになるのですね。

心と身体の調和も取れるようになって、

能力も最大限に前向きに発揮されるようになりましてね、

うわあ、これは何だ!楽しいぞお!!って現象が生じて来るのですね。

ランナーズハイもそうですけど、ダイエットハイとでも言うのでしょうか。

全く同じ作用で生じる現象なんです。

で、その、楽しいなあ、って状態が良いのですよ。

その状態が続きますと、必ず人生が良い方向に180度変わります。

必ず、変わります。

ダイエットということではないのですよ。

腹ペコ状態が続きますと同様の現象が生じるのです。

フルーツトマトもそうですよね。

水を極力与えずに育てられたトマトは果物のように甘くなるのです。


お金だってメカニズムってあるのですよ。

例えば、一杯になるまで絶対に開けない貯金箱を準備するのです。

そうして毎日少しずつでもそこにお金を貯金しておりますと楽しいじゃないですか。

溜まれば溜まるだけ楽しくなって来ますよね。

でもね、絶対に開けてはいけないのです。

そうして、もし一杯になったとしても開けてしまわない方が良いのです。

一杯になりましたら、また今度はもう少し大き目の貯金箱を用意して同じことをするのです。

何年か経ちますと、一杯になった貯金箱が何十個も保管されている、

って状態になりますよね。

でもね、開けてしまいますとそこで楽しみや悦びがなくなってしまいますから、

余り開けない方が良いですね。

そうしておりますと、どんどん金運が良くなってくるのです。

でも開けてしまいましたら、金運も落ちてしまいますね。


貯金箱を開けるのはね、

もうこれ以上財産があっても仕方ないって時か、

一億円程度貯金できた時でしょうね。

貯金箱が、人生も考え方も変えて下さる。

ほんまでんがな。

がながな。



法を犯す権利



つい最近、法を犯す権利について、あるところで少し書かせて戴きました。

勿論、私は法律は遵守しますし、モラルでありましても、
できる限り遵守したいと注意深く生きているような人間でございますけど、
ただ、信念と法律が対立する場合には、信念を優先するべきであると思うのでございます。

昨日も、藩主の命令で親しいものを討ち取れという家臣に与えられた藩主の命令を、
水戸の黄門様が覆させるといった番組が放映されておりましたけど、
考え方は一通りではないのでございまして、

最近の年とった者は、何がなんでも法律は絶対に守らなくてはいけない、
といったような頑なな頭をどうすることもできず、
若い者に思想の押し付けをしてしまうことが多々ありますようでございまして、

ブラックマヨネーズさんに云わせますと、
「大人の視野の狭さを見くびんなよ。」
と仰られるのではないかと思うのです。

でもね、法律が必ず正しい、
法律が全て、日本政府が全てというわけではないのですから、
その頑なな頭をどうにかして、
政府イコール自民党といったような間違った危険思想や、
自民党の言うことは絶対!
といったような王様ゲームならぬ自民党ゲームを一旦置いておかれましてね、

もう少し広い視野で、物事を判断しない広い心で、
穢れのない眼で、
全ての現象を見てくださいましたらどうかと思うのです。

そうしますと、恐らく今まで気付きもしなかったものが見えて来るのです。
地上に蔓延る人の心とか、政治家の思惑とか、色んなものが見えてくると思うのです。
そうしてそれは恐らく、過去のご自身より少し次元の高い視点なのではないかと思うのです。

良いですか?
本当に、法律が全てではないし、
企業に就職することが全てではないのです。
捉われている思想、考え方、
そういったものよりもっと広い視点はないか、
それを突き詰めてまいりますと、恐らくそれは真理、神霊の意識に到達しますでしょう。
宇宙よりも大きな心に到達しますでしょう。

国家なんて、小さいものです。
法律なんて、小さいものです。
宇宙なんて、小さいものです。

釈迦の教えと、国の法律では月とすっぽん、
それは実際に触れた者でありませんと分かりませんでしょうけどね。



気の作用の有りや無しや



大自然界に気の作用があるのかないのか、

それは例えば日本地図などを見ておりますと分かりますね。

海洋沿いは陽気が強過ぎるのです。

大陸沿いは陰気が強過ぎるのです。

ですから、海洋から数キロ入ったところや、

入り江や島で陽気が遮られて、でも余り奥まっていないところ、

そういったところに都市は開けるのですね。

東京もそうですし、名古屋も、神奈川も、大阪も、兵庫も、博多も、札幌もそうなんです。

そしてまた、山には神気があって、それを川が運んでいる。

川のうねった所に気が留まり易く、

山沿いのそういった場所は住宅街として開けて参りますね。

太陽の気も強い影響がありますね。

朝日は万物を生かし、夕日は万物を老いさせるのですね。


生活にも、気の作用を有効に取り入れますと良いに決まっているのですね。

その方が気分も体調も良くなりますでしょうね。


まあ、日本各地に栄えております場所とそうではない場所がございます。

気の作用の他に交通の便といった要因もありますでしょう。

この街は何で栄えているのか、どうして廃れているのか、

そういったことを時に考えておりますと、また面白い発見もできるかも知れませんね。



覚束無い



覚束無い。

その言葉ほど現代社会にマッチする言葉はないように思います。

覚束無い。

事の可否などがはっきりせず気懸かりな様子。

不確かな足取りで未来が憂慮される様子。

それが人類なのです。

どうすればどうなるのか、

何故それが分からないのか私には分からないのです。

価値観は確かに多種多様でありましょう。

それでも真実はただ一つなのです。

価値観が多種多様であるからといって、

真実も多種多様であるということではないのです。

大自然界の法は、ただ一つの結果を導き出すのです。

分かっていて過ちを犯すのは人のサガでございます。

私も良くやります。

でも、狭い視野で周りも見えずに、何も分からずに猪突猛進することは、

危険この上ないことであるように思います。

ですから、覚束無いのです。

筋が一本通っている。なんてことが良く言われます。

あの人は筋が一本通っているね。なんて言われます。

筋が通っているのといないのとでは、人生が全く違ってまいります。

やはり、筋が一本通っております方が、人生は力強く安定して参りますでしょう。

でもね、その筋が神理に沿ったものでありませんと、

正しく目的地まで到達することはできませんでしょう。

或いは目的地自体を誤ってしまっているのかも知れません。

神理という筋を一本ピーンと通して、

正しい判断で、光への道を真っ直ぐに力強く安定感を持って邁進する。

そのような人生が良いに決まっているのではないかと思うのですけど、


このような抽象的な文章は中々ご理解戴けないのかも知れませんね。

でも、察して下さいませ。



親子水入らず



とある番組で、
母と娘で旅行することはあるけど、
父と息子で旅行することはありえないことであるようなことが話題に上っておりまして、

変だと思いませんか?
父息子、水入らずで旅行できて当たり前のはずなのですけど、
実は殆どのご家庭でそうではない。

どうしてかお分かりになられますでしょうか?

不調和な親子関係、
信頼関係の失われた親子関係、
その理由がお分かりになられますでしょうか?

父息子で旅行にも行けない。
心を開いて話し合うこともできない。
そのようなご家族の親御様方は
少し真剣に反省してみて下さいますことではないかと思いますね。

恐らくそのご家庭のご子息様は社会に出ましてから
その家族の在り方が原因で大いに苦しまなくてはいけないのです。
恐らくそのご家庭のご子息様は能力面に於いて他人より劣っているのです。

その原因は多分に親御様にあるのだと思いますよ。
私はもう何も申し上げませんけど、
早い内に反省して御家庭の在り方を軌道修正して下さいますことだと思いますね。
まあ、恐らく遅すぎるのかも知れませんけどね。



げに怖ろしきは人の心



毎年、これでもかという程に似たような事件が発生しております。
昨年は偽装でしたけど、
今年は汚染ですね。

そして毎年凶悪事件が後を絶たず、
一昨日はひき逃げ犯が被害者を3キロも引き摺ってそのまま逃げてしまったとか。

恐ろしい、と思います。
人のすることではないのですね。
人の姿をしておりましても、これは鬼や悪魔の所業でございます。

無知な人間は本当に恐ろしいことを平気でするものだと思います。
入院している子供の顔をカーテンの裏で殴ったり、
逃げ道のない個室ビデオ店に火を付けたり、
歩行者天国にトラックで突っ込み沢山の人を撥ねてさらにナイフで逃げ惑う人を刺したり、

心について余りにも幼稚で、余りにも未熟で、余りにも視野が狭く、余りにも荒廃していて、

でもね、それはそういった人を生み出した社会にも問題はあるのですね。
間違ったことにも気付かず、正しい方法論にも気付かず、本質を見抜く眼もなく、
本当に大切なことを見失ってしまっております全ての人に問題があるのです。

だから今、こんな状況に陥ってしまっているのですよ。
そうして、そのうちに、
人が何百万人命を失いましても、
何千万人、或いは何億人の命が失われましても、
人は無関心になってしまいますでしょう。

天空の城、ラピュタなんてアニメがありましたね。
あのアニメのように悪事が蔓延れば神はたった一言で大地を崩壊してしまいますでしょう。
あの主人公の男の子と女の子のように純真な心と濁りのない眼と勇気、
正義を愛する心を持って下さい。

そうしませんと、本当にもうお終いですよ。







私は何でも物持ちが良いのでございまして、
新茶だって2年も3年も寝かせてしまう。
で、今3年越しの新茶、緑茶を戴いているのですけど、
さっぱり茶の香りが失せてしまっておりますようなことでございまして、
それでも急須で入れる茶は美味しいものでございます。

これが例えば冬の日の、晦日の寝ずの番をする番屋というようなところでは、
薪ストーブの上に大きなおやかんが乗っておりましてね、
シュンシュンと音を立てて蒸気を出している。
これはお茶を美味しく戴くと言いますよりかは、
喉を潤して、また加湿して部屋を暖める目的のものなのですね。

私もおやかんと急須を使いますけど、
時間のあります時には急須を、そうでない時にはおやかんのお茶を戴きます。
また、夏はおやかんの麦茶を、
そしてこれから冬に掛けましては急須の出番も増えて参ります。

ところで、急須の存在感は大きいものでございまして、
例えばひとりものの男の部屋に急須があるのとないのとでは
大きな違いがあるのでございまして、
やはり余裕のあるひとりものは急須を所持しておりますものでございます。
(ほんまかなあ)
これもまあ、一つのステータスでございますね。

まあ、百円ショップで売られておりますような急須なのですけど、
ひとりものの皆様は是非、人生に急須を取り入れて下さいましたら如何かと思うのです。



信じるべきもの、信じるべきではないもの



例えば人生が上手く行かない。
そんなことは誰にでもある至極当たり前のことでございます。
地上にも山があり谷があるからこそ、美しい景色も生まれるのですし、
平坦な道程ばかりの人生では遣り甲斐もなく、従って楽しくもない、
それに魂が成長することもないのです。

でもね、人は上手く行かなくなると不安になりますね。
「ほんま自分あかんたれやなあ」と、とある神様も仰っておられますけど、
ほんまに、あかんで、自分。
さっきから守護霊はほんまにおんねんでっていうてるやろ、
と私も同じように怒りたくもなってしまうのでございます。

守護霊様は誰にでも本当に居て下さっているのですからね、
信じる信じないではなくて、それを疑わないこと、
確信を持って、日々話し掛け、相談しながら、意見を申し述べながら、
一緒に生きておりましたら何も不安になることはないのです。

それを疑ってしまうから不安にもなるし、
正しく生きることさえできなくなって道が途絶えてしまったりするのです。

でもね、守護霊様と二人三脚で毎日を共に歩いておりましたら、
障害も、災いも、病も、何でも大したことがなくて済むのです。

それから、神様や守護霊様に良く思われようとして、良い子ぶっているような人がおりますけど、
猫かぶっても何にもならないのですね。
神様も守護霊様もその偽善は見抜いておられるのです。
魂と魂、でね、信念を持って、云いたいことは何でも言えば良いのです。
守護霊様にだって、「ほんま、自分あかんたれやなあ」と申し上げましても、
別に構わないのです。
そんなこと根に持つようでは守護霊なんて務まりませんからね。

ところで、人は盲目でございまして、
中には、驚くことに、
守護霊様は信じないけど、どこかの宗教団体の教祖様だけは信じている、
なんて脳細胞がショートしているとしか思えない方もいらっしゃいましてね、
それで人類が救われる。自分も幸せになれると頑なに信じていらっしゃる。

宗教といいますものはそういった人の集まりなのですね。
それで高い仏壇を買わされて地獄霊や動物霊の住処をやたらと増やし、
無間地獄行きが約束された教祖の書物を買って、
おまけにその団体の発行する新聞まで購読して、
騙されているとも気付かずに大金を注ぎ込み、信者の獲得に躍起になっているのです。

その信者のお金が財力を生み、
その財力で世界のあちらこちらに豪華な建物が建ち、
教祖は贅沢三昧をして、

でも考えてみて下さいませ。
教祖がお心正しい人物でありましたら、
豪華な建物を建てるお金がありましたら世界中の貧しい人を救おうとされますでしょう。
宗教施設ではなく、井戸や浄水設備、灌がい設備、学校や病院を、
貧困地域に建設しますでしょう。

だってね、神様はこの地球上の大地とそこから得られる恵みを私達に預けて下さった。
それも無償で預けて下さったのです。
それは決して、国が独り占めするためでも、富裕層が山分けするためでもなく、
皆で仲良く使うように貸して下さっているのです。
その慈悲の心を忘れて自分達に都合の良い教えを広め教祖や上層部を潤わせる目的の
宗教施設を増やして行く、
それはね、真に悪霊の所業であるように思いますね。



気学風水



人間には誰にでもそれぞれ、
生まれ年の干支、九星
生まれ月の干支、九星
がございます。

例えば私は、
みずのえ寅、二黒土星の年の、
みずのと酉、一白水星の月に生まれました。

これだけで私の性格や人生の流れが、分かる人には分かってしまうのですけど、
水と土だけですから、お酒が好きな人物だなって分かりますね。
だって、大地は水を吸い込むのですから、おまけに水を持っているのですから、
お酒も湯水のごとく吸い込んでしまうのですね。

また、木も、金も、火もありませんので、
激しくもなく、輝くこともなく、芯の通っていない優柔不断な人物であり、
そういった人生だろうなって分かりますね。

ですからね、金のない人は貴金属を、木のない人は木製品を、
土のない人は石のものを、例えば家具やアクセサリーなどを持つのですね。
それで木、火、土、金、水が揃いましてこそ、
上手く人生が動き出すのです。

火を持たない人はタバコをふかして、
水を持たない人はペットボトルを準備して、
お仕事だってそういったことで相性が決まるのです。

では次に、その木、火、土、金、水をどのように配置するか、
そこからは風水の分野ですね。

大まかには、例えば

北は一白水星
南西は二黒土星
西は七赤金星
北西は六白金星
南は九紫火星
北東は八白土星
東は三碧木星
南東は四緑木星
中央は五黄土星

ほら、どの星がどの場所にあるべきかがこれで分かりますよね。

ところでね、私は金を持っていないからパチンコをします、ってね、
これはどうなんでしょう。
たしかにパチンコの玉は金ですけど、

パチンコ屋さんの中は、強烈な念で溢れておりますよね。
欲望の念ですね。
その念は間違いなく地獄に通じている。
ですから、それは間違いなく何らかの影響を生じさせますでしょうね。



根拠なきああ云えばこう云う



私は口下手です。

ですから何かを話しておりましても途中で何を云わんとしているのかを、

忘れてしまうことが多々あります。

でもそれは、根拠を考えながら話そうとしているからで、

考えながら発言するといいますことの難しさを感じます。

でも、感情から出る言葉は根拠を考えませんので、すぐに出てきます。

宗教関係の方はこの感情から生じる言葉が多いですね。

で、メールなどでお話させて戴きます時に、

発言の根拠を求めますと殆ど根拠になっていないことが多いです。

ああ云えばこう云う的ですね。

根拠が正しく示されましても、別の視点での観方とか問題点を指摘しますと

殆どああ云えばこう云う的になってしまうのですね。

まあ、もっともな話ですけど、

全ての概念が根底で根っこのように張り巡らされている統一した概念を持っておられます人は

絶対に宗教団体になんぞ入りませんでしょうからね。

根拠を積み重ねて考える。

根拠のない概念は信じない。

疑問を解き明かしながら考える癖、

そういったものが人生におきまして本当に大切だなって感じますね。



先生の御本



先生の御本を拝読する。

何の気なしに開けた頁に、必ず私の忘れていることが書かれている。

どこまで行っても先生には追い付けない。

到底追い付けるものではない。

ここに心経という素晴らしい教えがある。

誦するためのものではなく、

理解して、実践するためのものである。

一行一行に深い意味が込められている。

その行間を埋めようとすれば恐らく書物が何十冊も書けるだろうと思う。

全てを理解して心を清めれば、どれだけ安らかな心が得られることか、

そうしてそれを実践することは如何に勇気が必要であることか、

ただ、それを毎日間違いなく実践できるようになれば、

誰でもそれだけで如来になれる。

また、先生はこう仰られる。

「幸福を求めるならば、まず悪の想念から離れることだ。

怒り、憎しみ、そねみ、嫉妬、中傷など、こうした想念を摘み取り、

責任、博愛、勇気、智恵、努力、進歩、調和など、善の想念を抱くように心掛けることだ。

人の幸不幸の根本は毎日の想念と行為の結果に掛かっている。

慈悲は、万生万物に無限の光を与えるもので、

愛は寛容にして助け合い、補い合い許し合う行為といえよう。

心ない者、実践を厭うものには慈悲の光も届かないだろう。

怒りは、そこにどんな理由があるにせよ、その波動はやがて己に返り、

魂の前進を阻むことになる。

己に厳しく他人に寛容、実るほど頭の下がる稲穂かな、の心境になるべきである。

常にとらわれのない柔軟な心は、神の心であり、法の心でもあるからだ。」

どんなに深く暖かなメッセージであろうか。



肩書き



この世界にありまして、

肩書きなどといったものが全くの無意味な物でありますことは、

もう十二分に存じておりますけど、

それでも肩書きがなくては私がどのような仕事をしているのか分かっては戴けませんので、

名詞にも肩書きを書き添えさせておりますけど、

当初の肩書きが気功師、まじない(呪)師でありまして、

次が神道行者でありまして、

さらには個人神職と名乗らせて戴いておりました。


そうしませんと、私のサイトを一瞥しただけの視野の極端に狭い方々より、

「あんさん一体何者なんや」とご質問を受けてしまうことが多々ございまして、

勿論、サイト上にも「あたしゃーねー、こういう者で、こういったことを根拠に、

こういったことをやらせてもろうとるものです。」と

懇切丁寧に説明もさせて戴いているのですけど、

それでも早とちりな悪魔に扇動された連中が低い意識で

「おまえ、何でも屋か」と、このように仰られますものですから、

肩書きを書いて仕事の内容をご理解戴きたいと考えていたのでございます。


勿論、この肩書きは、成長具合を物語るものでも、

ご訪問者様の気を惹く目的のものでもなく、

客観的に見てそう名乗ることが相応しいと思いましたから

そのように名乗らせて戴いておりますだけでございまして、

ですから、中には

私が気功師の頃には気の作用を証し、

私が古神道行者の頃には痩せこけた私が力一杯に修法する私の姿を、

(今は芋洗坂係長もどきでございますよ。)

ご存知の方もいらっしゃるとは思いますけど、

今はもう心を澄ませて正しく生きることのみを課題とさせて戴いております次第でございます。


それでね、

まあ、2〜3年毎に私の気も変化し、

私の仕事の内容も少なからず変化するものですから、

気功師・まじない師から古神道行者、個人神職とね、

そうしてこれからは正法者見習いとして

お仕事をさせて戴きたいと考えております次第でございます。

そうして将来には正法者、さらに覚者へと、

その歩みを進めて行きたいと考えております次第でございます。

勿論、命が持てばの話ですけどね。



ハングル



どこの国にも尊い方はいらっしゃるものでございまして、

今更ながらホ・ジュンの物語を、

そうしてそのモデルとなった方のことに想いを廻らせておりますけど、

彼はあれですね。

自らの心に誠実であったからこそ、偉業を成し遂げることができたのですね。


そういったこともありまして少し私もハングルを覚えてみたいと考えていたのですけど、

環境も整いましたところで、

先日よりyoutubeのハングル講座の動画を何十本もダウンロードしまして、

メディアプレィヤーで繰り返しランダム再生して見ております。

焦り過ぎるところが私の悪い癖なのですけど、

気長にハングル脳を養ってみようかと思うのです。


で、先日から毎日何時間も見ているのですけど、

そうしますとハングル文字の構成が何となく理解できました。


ところで、韓国と日本は共通した言葉が沢山ありますね。

感謝とか、安寧とか、カバンとか、

少し読み方が違っておりましてももともとは同じ漢字なのですね。

思いますに、今の若い人たちは知らないかも知れませんけど、

その昔、朝鮮半島に日本人村が存在しておりまして、

日本が朝鮮半島を支配しておりました時期があるのですね。

その関係で、日本の漢字の読み方が残っているのかも知れないなあと思うのですけど、

そうではないのかも知れませんけど、

日本人に取りましては、

ですから一番とっつき易い異国語ではないかと思うのです。


韓国を含めアジアと日本は過去にも色々とありましたけど、

それもまだ解決には程遠いような状況であるようにも思えますけど、

それはさておいて、過去の過ちは過去の過ちとして、

これからは両国が愛し合い、赦し合い、仲良くして行けたらと思うのです。


だって魂には国籍なんてありませんからね。