ブログより転載(2009年1月)

 



恵方巻きの正しい作法



えー、まあ、そういうことでね、

恵方巻きの正しい食らい付き方なのですけど、

今年は東北東のようですね。

東北東と云いましても、真東の、ちょと北寄りの方角なんですけど、

そこに歳徳神様がいらっしゃるのですね。

で、なんでその方角を向いて恵方巻き、

つまり巻き寿司の太巻きを食らい付かなきゃあかんのか、は存じませんけど、

大きな口をあけて、お前なんか齧ってやるぞという意思表示をするのでしょうね。

その年の悪いもんが来んように、

「来たら噛み殺してやっかんな」ということなのだと思うのですけど、

もしそうなのでしたらね、

これはもう大きなめんたまで悪いものを睨み付けて、

「齧ってやるぞ」って気持ちで大きな口をあけて齧り付く、

そうしますとね、悪いものも怯えてこっちには来なくなるってなことになるのですね。

でも逆にその年の良い作用を噛み付いて自分のものにするってな考え方もありますよね。

としますと、太巻きは良いものなんです。

ですから口一杯に頬張って食べるのが宜しかろうと思います。


大きなめんたまで悪いものを睨み付けて、「噛み殺すぞテメ」、

その一方でこれでもかってほどにその年の良い作用、幸運に

お口いっぱい食らい付いて頬張るのですね。

そのようなお心構えが良ろしかろうと思います。


あ、食らい付くのは2月3日ですよ。



アナログ放送からデジタル放送へ



アマチュア無線なんてものが流行っておりました時代がございました。

今はどうなのかは知りませんけど、

私も免許を持ってはおりますけど、

そんなわけで多少は電気や電磁波といったものが分かります。

いえ、ほんの少しだけなんです。

でね、例えば交流電源から電気を取りましてコイルを繋いだとします。

そうしますと、交流ですから、右からコイルへ電流が流れまして、

次に左からコイルへ電流が流れる、といったようなことを繰り返します。

回路がね右から、左から、右から、左から

くるっくるくるっくると電流が流れる共振回路になるわけです。

でも、コイルは交流の電流を通さないのですね。

そこで電流が消滅してしまう。

実は、それはコイルの特性でね、

電流が流れようとするのを妨害する向きに電磁波が生じるからなんです。

その電磁波がね、空中に放たれましてね、

フレミングの法則で磁界が電界を作り、電界が磁界を作り、

電磁波、つまり電波が空中を伝わっていくのですね。

これは理系の人でしたらご存知のことだと思いますけど、

ですから電化製品の近くでラジオなんかを聞いておりますと、

ブーン、って言うでしょ?ブーン、って。

コイルがアンテナになるのですね。

逆にコイルを電波が飛びやすいように改良したものがアンテナなんです。

でね、その回路に声の信号を乗っけるのです。

トランジスタなんかで信号を増幅しましてね。

マイクなどは音の振動を磁力で取り出して電流に変えるデバイスですね。

そうしますと、声が電波となって飛んで行くのですね。

デジタル放送はね、その信号が1と0なんです。

波があるかないか、あったら1、なければ0。

波形の崩れた信号を1と認識するのか、0と認識するのかは、

機器によりましてその程度が異なりますでしょうけど、

最近のデジタル技術は凄いですね。

その信号の波形をさらに幾つもまとめて別のもっと周波数の大きな波形に乗せて

送信したりしておりますようですね。

(ちなみにこれはサブリミナル音楽の波形もそうなのです。

音楽の波形の上に声の波形が乗っているのです。)

でもね、基本が分かりますと何も難しいことではないのですね。

まあ、その基本に幾つもの智恵の積み重ねがありまして

デジタル放送も実現しているのですけど、

神霊の分野も同じように智恵の積み重ねで解明していくことは可能なんです。

さて、人間の科学は神霊を解明するまでに至りますでしょうか。

どうでしょ。



演じる



今日は中村勘三郎さん一門の歌舞伎のドキュメント番組を拝見しておりました。

やっぱり歌舞伎は良いですねえ。

どうすれば演技に説得力が生じるか、

本当にあるのですね。説得力の生じる動作といいますものがね。

それはまるで言霊の動作版のような、

味があって美しく、しかも説得力を与える動作なんです。

光なんでしょうね。

魂から演じるから光が出る。

それが所作の美しさと相まって観客が感動するのですね。

まず形を練習して、

何度も練習して身につけて、

それが自然にできるようになりましたら、

今度は全身全霊、心で、魂で演じることを身に教え込むのですね。

だから伝わるのです。

見栄えだけでしたらこうは伝わっては来ないのですね。

そうして勘三郎さんのように名人クラスになりましたら、

すっと役に入り込む、

役の人物に成り代わるのですね。

きっと演じております時は、観客を喜ばせたい、その一心なんでしょう。


歌舞伎も人を喜ばせ、人を癒すものなんでしょうね。

そうしてまた、正法、神理といったものも、

人に癒しと安らぎ、幸せをを与えるものだと思います。

精進の道にありましては、どちらも本質は同じなのですね。

正法、神理を人に伝えたい、

歌舞伎の素晴らしさを伝えたい、

そうして人に伝えて欲しい、

そこに関わる者の想いは、どの道にありましても同じなのだと思います。


歌舞伎。

本当に素晴らしいものですね。



業を生む輪廻と調和に向かう輪廻



今の社会は不調和な状態にございます。
ですから、万人に理不尽な出来事に遭遇して心を歪めてしまうリスクが襲い掛かります。

理不尽な出来事に遭遇して、多くの人はこのように考えますね。

「周りの環境が自分を認めて下さらない。」
「周りの人が自分を分かって下さらない。」

実はこれがね、輪廻を生じさせる間違った考え方、
マイナス思考の極みでありますことにお気付き下さいませんといけませんね。

こういった考え方は心を腐らせてしまい、
さらに悪化しますと、自暴自棄、暴力的、自虐的、酒に溺れる、といった状況に陥ります。

人との関係も強引になり、次第に孤立して行くことになりますね。

そうして寂しさから心にぽっかり穴が開いたような状態になりましてね、
そこに地獄霊がつけ込み、人生を狂わせて行くのですね。

そうなりますと、最初の、「周りの人が・・・」という気持ちがさらに強化されて生じて参ります。


業を生む輪廻ですね。
これが人生を狂わせてしまうのですよ。


この世界では、誰もが未熟なんです。
未熟ですから、一人が理解されることを求めますと、
周りの皆も求め合うようになってしまいます。

それがね、周りの環境を悪化させて地獄を創り出してしまうのです。


求めるのではなく、与えること。
神理を知って、或いは神理に気付き、心を立たせる。


そうしましてね、
自分のことはまず横に置いておかれましてね、
こちらから理解して差し上げよう、
皆のことを分かって差し上げよう、与えて差し上げよう
とするのです。

そうしますと、その気持ちは
思い遣り合い助け合う暖かな人間関係を生み出しますでしょう。

そうして次第に相互理解が深まりましてね、
皆が幸せになれるのです。


こちらは業が消えて調和が生じる輪廻ですね。


子育てだってお子様に求めるばかりでは正しく育っては下さらない。

求めたり、奪ったりするのではなく、まず与えること。
大切でございますよ。



やわらか心で人は幸せになれる



と、そう思うのです。

やわらか心、

それはどんな心かと云いますとね、

ごめんね〜

とか

ありがとうね〜

とか

誰にでも心を込めて云えるような心ですね。

口が先でも心はついて来ますからね、

嘘でもいいからそれが云えるようになりますと、

人はぜ〜ったいに幸せになれるんです。

心を込めて云えるようになりますと、さらに感情が篭ります。

感動して、悦びに震えるようになります。

心の自由度がアップして感受性も豊かになりますし、

魂も綺麗になります。

周りの環境も整って参ります。

様々な善い影響が現れて参ります。

難しいですけどね。

やわらか心はやわらか豆腐を作るより何千倍も難しいのです。

勇気が要ります。

人を赦す気持ちが要ります。

信頼する気持ちが要ります。

愛が要ります。

神様への義が要ります。

神様の光なくては絶対になしえないことなんです。

でも、できるようにならなくてはいけないのです。

調和社会の住人となるためには必須課題なのです。



大きな力



そうです。大きな力ですね。

以前に、「覚悟」ということについて書かせて戴きましたけど、

人には誰でも大きな力が働いておりますことは、

疑いようのない事実なんですね。

その力には幾ら逆らっても、あがいても、どうにもならない。

ご自身を内面から強く揺さぶり、

まるでベルトコンベアーのように運ばれて行く大きな力。

それは「覚悟」することにより、よりスムースに運ばれて行くのです。

じたばたしない。

心を研ぎ澄まして、その大きな力に身を任せるしかないんですね。

そうして、定められた場所、

それはご自身が生まれる前に前世で定めたご自身の使命、学び、修行の内容なんです。

ただ、不調和な想念や行為、生活はその到達を遅らせてしまいます。

人生、

誰の人生でありましても、

思い起こしてみますと似たような現象が繰り返し生じておりますことが分かります。

そこに意味があるのです。

ばらばらな出来事のように思えても、根底では繋がっているのですね。

ひとつのひとつがたったひとつの氷山の一角でしかなかった、

そうして大きな力は間違いなくそこに導いて下さろうとしているんです。

そうして、目的地点まで到達しますと、

やがて全ての現象の謎が解けて参ります。

そこからが本当の人生なのでしょうね。

人と人、

誰の人生にもその人が今に至る過程がございます。

過去世から現在の今に至るまでの、国や生まれ育った環境、

両親や兄弟、どのような仕事をして、どのような思想を持ち、

どのような経験を積み重ね、どのような信仰をして来たのか、

そうして今生でご縁を得てありえない確立で出会うことのできた友人なんです。

学びのために現れて下さったのです。

それに気付きますと人間関係もまた違ったものになって来ると思います。


昨夜、私の魂は就寝中にもの凄く偉大な方を訪ねておりました。

私は子犬程度の大きさでね、子犬とじゃれあって遊んでいたのですけど、

その人は私の何倍も大きなお姿をしておりましたよ。

で、私のことでどこかに電話して下さっておりました。

実在界にも文明はありますからね。

地球の文明よりも遥かに進んでいる文明ですよ。

で、その電話の相手の方が、

同じく巨大な、

長い黒髪で鼻の高い、美しい女の人でありまして、

ショールをもてあそびながら、

「ぼしぼし、あ、そうでずべえ」と鼻詰まりのような声で楽しそうに

電話の応対をされておられました。

電話の相手が見えるのですね。あちらの世界は。

で、目が覚めますとそんなことをぼんやりと考えていたのです。

「光の扉」

なんだかそんな言葉が頭の中に残っておりました。

さて、私もさらに大きな力でこれからも運ばれて行かなくてはいけません。

覚悟して、素直な心で、無理をせずに頑張って参りたいと思います。


無理をせずに頑張る。

これは大切なことでございますね。

今生の使命や学び、修行の目的から外れたことは幾ら頑張ってもどうにもならない。

上手く行くはずがないのですね。

ですから、素直な心で、覚悟して、

その大きな力を信頼して、進んで参りたいと思うわけでございます。



心因性の病



今の時代のように、社会が病んでおりますと、

どうしても精神や神経に不調和が生じる人は増えるものでございます。

心に原因があって生じる精神や神経の病、

いわゆる心因性の病ですね。

沢山の人が自分はうつ病ではないか、とか、パニック障害ではないか、

などと心配したりするようでございます。

昔の病名で云いますと、うつ病やパニック障害、

逆に強迫神経症や抑うつ神経症、自律神経神経症かなと、ご心配なされます方は少ないようです。

電車や沢山の人の中で苦しくなる、

これは自律神経失調症ですね。

強い不安が原因で苦しくなるようでしたら不安神経症かも知れませんね。

パニック障害は脳がパニックするのですね。

それで明らかな異常を本人が認識して恐れおののくのですね。

ですから、逆にパニック障害かなとご心配になられます程度の方は、

まず間違いなくパニック障害ではないのです。

やる気、意欲が出ない、集中力や記憶力がなくなる、

これは抑うつ神経症ですね。

うつ病はその上に悲しみに暮れますね。人生を悲観したり、

これは周りの方が気付いて診察を受けさせませんと危険なことになる。

ですから、うつ病かな、パニック障害かな、と思われます程度の方は

まずその可能性は低いでしょうね。

うつ病とかパニック障害は、ご自身ではっきりと分かりますからね。

まあ、病気になりたい気持ちも分からなくはありませんけど、

どちらにしましても時には別の病や脳の腫瘍などが隠れておりますこともあるようですから、

早急に診察を受けて適切な対処をなされますことではないかと思いますね。



悲しみ叫ぶ声



大地からは沢山の、悲しみ叫ぶ声が聞こえて参りますようで、

神様方も哀れんで下さっているのではないかと思いますけど、

私もつい先ほどまで、焼肉用の野菜のカットに追われておりまして

野菜を切りながら色々と考えておったのですけど、

数十円もありましたらキャベツなんて腹一杯戴けるのですね。

朝スーパーで見切りされておりますものを買って来て、

たとえば魚の荒を調理して戴く、

ひもじい時にはキャベツを齧って、

ってね、そのような経験を持っておられます方が、

派遣村に一体どれだけいらっしゃるのだろうか、と思うのです。

恐らくは殆どいらっしゃらないのではないかと思いますけど、

街にはファストフードが溢れ、

携帯ですぐに誰とでも連絡が取れる。

一日中開いているマンがl喫茶やネットカフェもあり、

ですから、そんな生活形態なんて考えも及ばないのではないかと思います。

でもね、キャベツを齧ってみて、初めて分かることもあるのですよ。

そんな経験さえしていないから、智恵も湧いてこない、

生きる智恵さえ出てこず、一歩を踏み出すことさえできない。

贅沢ばかり身に付いてその結果お金に振り回されて、

皆が感謝の気持ちも忘れて自己中心的な生き方をする。

その結果が派遣切りといったことにも繋がっているのではありませんでしょうか?

携帯なんて持たなくても良いのです。

その方が経費も掛かりませんでしょうし、私だって持っていない。

まあ、私の場合は自ら進んで貧乏しておりますようなものですけど、、、

ところで、

少し前に、派遣村で何か事業でも考えてみれば良いというような発言をしましたけど、

例えば野菜を安く仕入れて、良く洗って細かく切って、

必要な分だけ路肩で販売するようなことも良いのではないかと思いますよ。

炊き出しだって皆で美味しいものを沢山作って販売すれば、

そんな風に色々と智恵を出して考えますと何だってできると思うのですけどね。

私でしたら利用すると思いますけど。



御徴−おしるし−



今日は、恵比寿神社にお参りに行っておりまして、

電車に乗ろうとして切符を購入した直後に、一度目の御徴がございました。

神様からの御徴ですね。

それから、駅に着きまして、道を歩いて降ります時に二度目の御徴がございました。

私と、その方にしか分からない御徴ですね。

でも過去に証されております御徴ですから、それはまず間違いないのです。

三度目の御徴が、神社でおみくじを引かせて戴きました時ですね。

大吉でございました。

御神殿では祝詞が奏上されておりまして、

神楽殿では巫女さんが神楽を舞っておりました。

こんなにタイミングよく次から次へと有り難い御徴がありまして、

これはまあ、後にどんなにラッキーなことがあるかも知れんね。

と、喜んで帰って参りましたわけでございますが、

まあ、期待せずにいることにします。

神様や善霊様方はそういった御徴を、実は誰にでも、

良く現わして下さっているのだと思いますね。

そうしてそれに気付くことも、きっと、

神様や善霊様方との良好な関係を築く上で大切なことでありますように思いますね。



覚悟



私は忠臣蔵が好きでしてね、

吉良上野介の周りに大石内蔵助とその配下47士が恭しく畏まりまして、

大石内蔵助が吉良上野介に短刀を差し出し、

「吉良殿、そろそろお覚悟を」と申し上げるのです。

そうしますと、吉良上野介は、

「いやじゃ、いやじゃ、まだ死にとうはない。」と首を横に振るのです。


このところ、近畿圏ではタクシー強盗が頻発しておりますようでございます。

捕まった一人の容疑者は、やはり派遣切りの被害者でありましたようで、

昨日は昨日で私のところにチェーンメールが送られておりました。

同じ文章を何人かに回さないとどうのこうのというやつですね。

国政上の問題もありますでしょう。

人の心の冷たさもありますでしょう。

育った環境も当然の如くありますでしょう。

様々な原因があっての犯行なのかも知れません。

でもね、どうして、自分さえ良ければと考えるのでしょうか。

自分はどうなっても良い、周りに迷惑は掛けたくない。

と、何故そのように思えないのでしょうか。

それは決して他の問題に責任転嫁できない、ご自身のお心の弱さ、未熟さ、

ではないかと思いますよ。

覚悟すること。

自分はどうなっても良いのだと、死をも恐れない覚悟をするのです。

その時に、人は心からの想いが強い念になって守護霊様に伝わりますね。

綺麗な光が放たれるから悪いものも離れざるを得なくなって、

そうして魂からの声が出るようになるのです。

守護霊様もようやく護って差し上げることができるようになるのです。

だから私は、「一度地獄を見てみたら良いよ」と申し上げるのです。

地獄を見て自らの覚悟の再確認をする。

覚悟をさらに強固なものにして魂を強化し、浄化するのです。

「いやじゃいやじゃ」と人に迷惑ばかり掛けておりますようでは、救えないのです。

でも一旦覚悟をしますと、どんなに人は強くなれますでしょうか。


ですから、人は泣き虫ではいけませんよ。

自分のことで泣いておりましたら余計に弱くなってしまう。

地獄さえも恐れぬ覚悟で命の限り力強く生きるのです。

その覚悟が、ご自身を救いますでしょう。

守護霊様が必ず救って下さるのです。

その決意を持って、私たちは生まれて来ているのです。

そうして、たとえ身体は滅んでも魂は決して滅ぶことはないのです。


どうか、そろそろお覚悟を、なさって下さいませ。

私も、その覚悟で生きておりますよ。



人、そのいとおしきもの



私がこの仕事をするようになりましてから、

賜りましたメールが、変なのを除きまして1万件を大きく超え、

もう1万5千件に届こうかという状況でございます。

本当に有り難いばかりでございます。

殆どの方はお会いしたこともない方ばかりなのですけど、

皆さん、同じなのですね。

そりゃ多少はマイナス思考の人や自我のお強い方はいらっしゃいますけど、

思考形態はなんら変わることがないのです。

お美しい方も、それなりの方も、

考え方は何一つ違わないのです。

でもね、それが実際にお会いしてみますと、外見に振り回される。

どうしても外見から判断してしまい、本質的なところが見えないのですね。

ですから、人間理解といった点ではね、

メールで沢山の方とお話させて戴きます機会を戴きました分だけ、

私は本当に幸せであったと感じております。

そうしてまた、猫ちゃんもね、ワンちゃんも、異国の人も、

思考形態にさほどの違いはないのですね。

木の妖精だって人と同じ姿をしているのです。


愛を持って接すれば必ず愛が返って来るのです。

怒りをもって接すれば必ず怒りが返って来るのです。

理解しようとしておりますと、互いに分かり合えるのです。

利用しよう、理解させようとしておりますと、互いがいがみ合わなくてはならなくなるのです。

それさえ知っておりましたら、皆が同じなのですから必ず分かり合うことができるのです。

仲良くできるのです。

できるはずなのです。

社会もきっともっと良くなるはずなのです。

そう思います。



少しだけ、習慣を変えてみる



去年のクリスマスに、とあるスーパーで手羽焼きというものを購入しました。

一枚150円程度の手羽焼きなのですが、

店のおばちゃんはいっぱい並んだ手羽焼きの中から、いっちゃん小さいのを選んで

袋に入れて下さいました。

誠意がないなあと感じるのですね。商売も下手だなあてね。

お客様はリピーターになって下さるでしょうか?

口コミで良い噂は広まるでしょうか?

逆に悪い噂ばかり広がってしまうのではないかと思うのですけど、

でもね、これが逆にいっちゃん大きい手羽先を選んで下さるお店でありましたら、

間違いなくお客様はリピーターになって下さり、良い口コミも広がると思うのですね。

ほんの些細なことなんです。

少しだけ考え方を変えるだけで、

その結果は月とすっぽん程に良くなってくると思うのです。

嘘でも、小さな手羽先を何本かダミーで並べておけば良いのです。


また、先日、近くの駅の蕎麦屋に、チャーシューカレー丼の広告が貼られておりましてね、

その写真には丼に分厚いチャーシューが何枚かデンと居座っております写真が、

掲載されておりました。

それで注文してみたのですけど、

チャーシューなんてどこにも姿が見えないのですね。

肉の欠片さえ入っていないのです。

こんなのはもう論外ですね。

お店の人の誠実さ、人柄までも、その程度が知れてしまいますね。

どこのお店にもディスプレイといったものがございます。

大きなトンカツの乗ったカツ丼、

でも実際に戴いてみますとトンカツはそんなには大きくない。

ディスプレイにはご丁寧に、「実際の商品とは異なることがございます。」

なんて書かれているのですね。

でもね、これがもし、ディスプレイが小さなトンカツで、

実際に戴いてみますと驚くほどに大きなトンカツでありましたら、

口コミで噂がどんどん広まりますでしょうね。

お店は愛されて沢山のリピーター客で溢れ返りますでしょう。

少しだけのことで、中傷されるか、愛されるか、

少しだけ智恵を働かせて、習慣を変えてみる。


人だってそうですね。

幾ら着飾っておりましても内面の貧しい人よりかは、

ぼろを着ておりましても内面は沢山の素晴らしいもので溢れている。

そんな人が本当に愛されるのではないかなって思いますね。

私もそのような人になりたいものでございますけど、

多少シタタカな誠意でありましても良いではありませんか。

それでお客様が喜んで下さる。

誠意が微塵もなく、自分が得をすることばかり考えてお客様を嫌な気持ちにさせてしまう、

そんなお店よりかはなんぼか良いと思うのですね。



毎年大きくなって行くもの



私の家では、この6年間、毎年布袋様が大きくなって参りましたわけでございますが、

大きくなって参りますものは別に布袋様に限らず、

海では鰤と云いますような出世魚も、

つばすからはまちへ、はまちからぶりへと、

より大きく、より美味しく、より脂が乗って参りますもので、

恐らくは殆どの方が、つばすよりははまちが好きで、

はまちよりはぶりが好きなのではないかと思うのです。

私も今朝、ぶりの切り落とし157円をお刺身で戴きましたけど、

今の時期はぶりが本当に美味しい時季でございますね。

そしてまた、人も毎年大きくなっていかなくてはいけないものでございます。

友人を持つにしましても、

利用して助けてもらうだけの人間関係は友人であるとは考え難いものでございまして、

助けて差し上げるためのご友人、助け合い支え合い、励ましあう友人関係が、

真に魂の成長にための友人関係であると感じるのでございます。

そしてまた、人生に対する向き合い方にしましても、

向き合い方如何で魂をどれだけ大きく成長させられるかが変わって参りますものでございます。

人間には運命なんてものはないと、私はそのように考えるのですけど、

人には、使命と、その向き合い方、関わり方しかないのだ、と思うのです。

慈愛を持って調和の方向に努力する。

それだけのことではないかと思うのです。

そうすることによって命が輝き、魂も大きくなって行くのです。

ところで、調和って、難しい言葉ですね。

協調も調和に含まれますし、

プラス思考で力一杯に、

楽しく、周りの環境を生かすように関わる、といったことも、

調和に含まれます。

柔軟に、遣り甲斐を持って楽しく、智恵を振り絞って、堅実に、建設的に、

犠牲を厭わず、努力を厭わず、

未来に向かって輪廻が良い方向に転がって行くように、

そういったことが全て調和の中に含まれているのです。

樹が花を咲かせるように、全体として一つの美を、調和の姿を構成するように、

愛が命を育み、命が愛を育むように、

全ての命が命の中に悦びを得るように、

全ての存在が悦んで愛を大きくする調和の営みを、

大神霊のそのお望みになられるところの在り方を、

その光の道を悦びに満ちて邁進するように、

私たちは永遠にその調和の姿を維持し続けて行かなくてはいけないのです。

布袋様も7年でまた小さな布袋様に戻ってしまってはいけないのですね。