ブログより転載(2009年4月)

 



想念と環境



想念と環境には明らかな因果関係がございます。

精神論を軽視されます方は多いものでございますが、

明るい想念で環境は次第に整って行くものでありますことは、

もうこれは疑う余地などこれっぽっちもないのですね。

呪術や占いでは人は幸せにはなれません。

深層心理を利用したかけ引きのような方法でも幸せになることはできないのです。

幸せにするのは神の意に沿った明るい想念と正しい努力だけなのです。

神とは、八百萬の神でも神道の神々でも仏教の仏様方でもありませんよ。

そういった神仏はね、目標なんです。

私の云う神とは大宇宙大心霊、

この高次元をも含めた大自然界を、

私たち全ての存在を生み育てて下さっております光の根源の神のことなんです。

その光の根源の神の意識はこの大自然界に姿となって現れているのですね。

その神の存在を証明する方法は無限にありますでしょう。

大自然界の調和の姿から学べることも無限にありますでしょう。

私たちはその調和の姿を見習って明るい想念、正しい在り方に努め、

この神を微塵も疑ってはいけないのです。

そうしておりますとね、必ずいつかは真の幸せに到達できるのです。


さて、明日からゴールデンウィークが始まります。

連日、どうも晴れて下さるようで嬉しいばかりでございます。

怪我はね、暗い想念が招きます。

充分にご注意下さいまして、

明るい想念で正しく、力一杯に楽しんで下さいますように、

おねげぇしますだ。お代官様。



魔の跳梁



先日から、

清水由貴子さんが自殺されたり、

草g剛さんが公園で裸で何か訳の分からないことをを叫んで捕まったりしまして驚いております。

弱い心、間違った思想や考え方、

心を忘れて五感に振り回される人の愚かさ、

そういったものを感じます。

世紀末といいますか、末法の世の中と言いますか、

間違った政治が行われ、

間違った思想が大多数を占め、

魔の跳梁を許して来た結果が、

今の時勢でございます。

神の子としての信念と愛と勇気を持って不安や不満、五感に惑わされず、

しっかりと大地を踏みしめて何も怖れず、

心の自由を勝ち取って戴き、強く、正しく生きて戴きたいものだと思います。



はちゃめちゃ人生



悪い癖で、私はどうも律儀に考えてしまうところがございます。

あれをしてはいけない、これをしてはいけない、

ってね。

でもね、そんなことはないのです。

貴重な人生なのですから、やりたいことは何をしても良いのです。

制約を設けてしまうから人生が楽しくなくなってしまう。

閉塞してしまう。

人生が楽しくないと余り良い運気も巡っては来ませんね。

ですからね、人生が楽しくないって人は、

たとえばこの際思い切って自由奔放に生きてみる。

はちゃめちゃに生きてみる。

ってえのは如何なもんでしょうか。

自分が楽しくなれることなら何でもやってみる。

勿論、その分の反作用は自分に還って来るのですけど、

責任も自分にあるのですけど、

それを覚悟すれば、どんなことだってしても構わないのです。

神様は絶対に、「するな」とは仰られない。

自由を与えて下さっているのですから。

ですから、ギャンブルにのめり込むもよし、酒池肉林を楽しむもよし、

投資に興じるもよし、放浪するもよし、

まあ、余り他に迷惑が及ぶことはお勧めはしませんけど、

ただね、やるからには真剣にすることなんです。

宝くじを当てようとしますといろいろ調べて良いと云われていることを一通りやってみる。

競馬で大穴を狙うのでも、それなりに勉強する必要がありますでしょう。

専門家に話を聞き、色んなことを知らなくてはいけませんね。

放浪するにしましても、もう徹底的にやってみる。

一年間は帰らないとかね。

そうやって真剣にしないことには、折角のはちゃめちゃ人生が無駄になってしまうのですね。

でね、本当に楽しいことが見付かりましたら、

そこからまた新しい人生の道が拓けて来るのではないかと思いますよ。

それがお仕事になったりするんです。

無駄なことなんて何一つありませんからね。

根性据えてやってみれば良いのです。

そう思いますよ。







河はくねりながら 小さく流れていた

明日も分からぬまま 果てしなく続いていた

どこの異国の見知らぬ大地へ

流れ込むのかも知らないまま


河は大きくなる 流れは豊かになる

どんな河だって 次第に大きくなる

黄河もアマゾンもガンガーだって

もとは覚束ない流れだった


失敗しても良い それは反省の材料になる

挫けても涙しても怒ってもふて腐れても

流れることさえ止めなければ

留まることさえしなければ

いつかは見知らぬ異国の大地を

豊かに潤す流れになる


河は幼いなりに 強く流れていた

何も分からぬまま がむしゃらに流れていた



私的こだわり



こだわりは人それぞれにあるもので、

これだけは譲れない、と頑なに守り続けているものでありながら、

時として、簡単に妥協して手放してしまう、

さりとて、その人の人格の大きな部分を占めるといったようなものであるように思います。

豚のスペアリブを買って参りましてね、

骨から肉を削ぎ落としまして、細かく切りまして、

フライパンでカリッカリになるまで焼くのですね。

そうしますと豚の美味しい脂が大量に溶け出しましてね、

そこに刻んだ大蒜、玉葱を入れて、ご飯を入れて、葱を入れて、卵を入れる。

味付けは塩コショウだけですね。

私的チャーハンのこだわりでございます。

これがまた美味しいの美味しくないの、(どっちなんだい?)

こんなことをしているから太ってしまうのでございまして、

また痩せなきゃいかんなと思うのですけど、

チャーハンってのは本当に美味しい食べ物でございますね。



人生の行き詰まり



人は時として人生に行き詰まります。

そのような時には、たとえばこのように考えてみられましては如何でしょうか?

自分の人生は自分だけのものではないのだ。

人のための人生であり、神様のための人生でもあるのだ。と

有名になってスポットライトを浴びても

名誉や栄光を手にしても

大きな財を成すことができても

それは今生だけ、ほんの短い期間だけのことで

それを来世にまで持って行くことはできない。

それは、たまたま運が良かっただけで、

有名でなくても、

名誉や栄光に恵まれなくても、

大きな財を成すことができなくても、

そんな人の中にも素晴らしい人はいっぱいいるのだ。

必ず上には上が居るのだ。とね。

お金が必要なら、弁才天や観音様、神道の神様方にお願いすれば良いのです。

愛する人と一緒になりたければ愛染明王様にお願いすれば良いのです。

神仏は喜んで協力して下さいます。

それはまた別の話でね、

人のために神様の手足となって力一杯に今生を生きる。

それこそが本当に素晴らしいことで、

そのような人生を送ることができましたら、

自分の魂も満足できるし、

天に徳や宝を積み上げることだってできるのです。

そう考えることができるようになりますとね、

人生もまた輝いて来るのではないかと思いますよ。



ソメイヨシノの終わる頃



「ソメイヨシノの終わる頃、雨が降り」

さて、ソメイヨシノも殆どが葉桜となり、

季節はソメイヨシノから里桜へと移ろって参りまして、

それにしましても今日の雨は一体何なのでしょうね。

毎年、ソメイヨシノが終わる頃に雨が降る。

まるで降り積もった花弁を洗い流すようにね。

その昔、対馬や壱岐の卜部(うらべ)といった人が祭祀の折に川に入って、

病や罪穢れを祓うために細かく千切った紙片を川に撒いた、

何だかその様子に似ているなと感じるのですけど、

「四国(よくに)の卜部等(うらべども)大川道(おほかわぢ)に持ち退(まか)り出でて祓へやれ」

千切るといいますのは、契りで神様との契約ごとなのですね。

「あなたは誰と契りますか 永久の心を結びますか♪」

ってね。



10%の意識



現象は全て心の中の世界から生じている。

これはお釈迦様を初めとして過去に何人もの方が気付いて訴え続けて来られたのであろうと思います。

私達、肉体をまとった人間は、

普段は心の表面の表面意識しか認識しておりませんから、

現象の本質を見極めることなんてできませんけど、

でもね、心の奥底を深く探求しますと次第に本質が見えて参ります。

心の全体の10%程度、ほんの表面意識の部分の認識でありましたものが、

20%、30%と分かるようになってくるのですね。

それから、高次元の心の中の世界へ帰りますと90%まで分かるようになるそうです。

心の奥へ帰るのですから当然そうなるのでしょうね。

100%全てを認識できるのは、神様か如来様。

でもね、10%の意識が20%に増えただけで人生だって違って来る。

全然違うものになって来る筈ですよね。

そう思いませんか?



勿体無い感覚



昔から私は本を読むことが嫌いな人間でございました。

ですから、本は沢山あるのですけど、好きな分野に偏っているのですね。

で、その好きな分野の本も主に「積読」という読書方法でございまして、

パラパラ捲って眺めておりますような感じなんです。

でもね、それでも何回もパラパラしておりますと

内容が次第に見えて来るといったようなこともございまして、

何なんでしょうね、あれって。

不思議に感じるのですけど、いつの間にか全部理解している、なんてことになっているのですね。

でも、そうは申しましても、昔からの読書嫌いの所為で記憶力もかなり悪くて、

人が100覚えるところを1しか覚えていない、程度の進歩具合なのですけど、

ですから人生も、私の場合、牛歩戦術で歩ませて戴いております次第でございます。

記憶できない。

覚えない。

そうしますと、一つのことを大切にするのですね。

ホームページの製作でもね、

こんなことはできないか、あんなことはできないか、

と、色々いじり回してみるようになるのです。

ですから、私のサイトでも、

インデックス形式やガイダンス形式、メニューバー形式、

タブ形式、JAVAを使ったもの、(この2種はUPしておりませんけど、)

と、様々なデザインが入り乱れておりますわけでございます。


パソコンもねジャンクのパソコンを購入して参りまして、

何とか動くようにできないものか、と色々といじり回してみるわけでございます。

そうして壊れたパソコンでも大切にしましてね、

時間を掛けて活かす方法を考えておりますと、

それがいつかは必ず息を吹き返すのですね。

まあ、多少は解剖分解で致命的なことになって捨てられたパソコンも少なくはありませんけどね。


ビジュアルベーシックもそうですね。

ビジュアルベーシックにはキー付きファイルという概念がないのですね。

データベースを使えば良いだけの話なのですから。

でもそうしますとおおごとになりますし、

私もデータベースを覚えて活用する程に器用な人間ではありませんから。

(余り新しいことは覚えたくないというのが正直なところです。)

ですから、キー付きファイルのようなことをプログラムの中でやってしまう。

そういうようなプログラムを組んでしまうのです。


ひとつ覚えたら、また新しいことを次から次に覚える。

それができる人は素晴らしいなと思います。

でもそうしますとね、私の場合、脳の神経とか迷走神経が加熱しちゃうのですね。

学生の頃の試験の前とか、サラリーマンの頃はもう加熱しっぱなしで、

ストレスが半端ないですから、

それはよしこさんにして、別の方法を考えるのです。

あの方法ではダメかな、この方法ではどうだろうか、

ってね、考えるのです。

そうすると案外簡単にできてしまったりするのですね。


人生もそうだと思います。

少ない労力やリソースで色んな方向から考えて、いじり回して、

そうしますとね、欲張って色んなことに手を出さなくても楽しいのですね。

で、案外に新しい発見があったりするのです。

どうもそれが、物を捨てられない勿体無い精神にも繋がっているようですけど、

だってね、思い切り良く捨ててしまうのって勿体無くありませんか?

私はこんな性格なのでそう感じるのかも知れませんけど、

これからもひとつのものを大切に大切にいじり回して行くのだろうなと思います。

それが私の人生なんだろうなってね、そう感じるのです。



夢の話なんですけど



ある日、とても不思議な夢を見たのです。

それでね、ある人に夢の話をしましたところ、

その夢について、その人が詳細に語り始めた。

なんて経験はありませんか?

もうビックリするやら何やらで呆気に取られておりましたら、

その人、もう幾度となくその夢を繰り返し見ていたそうなのです。

不思議なこともあったものです。

いえ、これ全部夢の中でのことなんですけどね。



桜便り



仕事もひと段落しまして、

買い物がてら近くのスーパー裏のどこかの社宅の桜を眺めて参りました。

もう舞い始めておりましてね、

早い桜、ソメイヨシノはこりゃ今週末がピークかなとも感じるのですけど、

空には雲一つない青空が広がっておりましてね、

雄大な空の下で舞うから桜も美しいのだと思うのですね。

これが窮屈な部屋の中で小規模に舞ったところでゴミにしかなんないですものね。

こりゃ部屋に閉じこもっているのはもう本当に勿体無いですね。

それに、小さなことに拘り続ける人間といいますものもまた小さなもので、

本当に勿体無い生きものであるなと感じるのでございます。

「桜舞い、鳥鳴き魚の目は涙」 By おっさん

おお!どこかで聞いたことのある俳句でございますな。



美しきもの



光が、全てのものを美しく見せるのです。

光には、目に見える光もあれば目に見えない光もありますね。

でも目に見えない光でもちゃんと心の中には映っているのです。

心が暗闇になると光が分からなくなります。

それが判断を狂わせるのですね。

愛の心が光を発するのです。

慈悲の心が光を発するのです。

感謝の心が光を発するのです。

そういった心こそが神の光の媒体と成り得るのです。

桜並木

木蓮の花

愛あればこそ私達の心に美しく映えるのですね。

人もそうです。

愛に溢れた人は美しいものです。

真の愛あればこその美しさなのです。


あなたは自分の心に嘘がつけますか?

もし自分の心に嘘がつけるのでしたら、

あなたはきっと悪魔の子なのでしょう。

でもね、自分の心に嘘がつけないのでしたら、

あなたは紛うことなく神様の子供ですね。

そうして真面目に真摯に生きて、人生に立ち向かって、

真の愛と感謝の中に強い光を発しながら生きることができるようになりましたら

環境はどんどん整って参りますでしょう。

職場も、仕事も、家庭も、人間関係も、心身も、経済的なことも、

どんどん調和して参りますでしょう。


美しき花が咲く

万人に陽の光が降り注ぐ

これも神様が私達を愛して下さっております証明でありますように思います。



個人オフィスシステム



今、個人オフィスシステムなるソフトを開発しております。

レジ機能から領収書、納品書、請求書発行、

売掛金、買掛金の管理、在庫の管理、仕入先、取引先、顧客の管理、

それから簡単な会計処理までできる優れものです。

ごくごく単純明快な、当たり前のシステムにしようと、少しずつ少しずつ製作しております。

いつできるかは分かりませんけど、今年中には作りたいと考えております。

で、来年にはパッケージとして5千円で販売しようかなってね。

大手の企業さんはきっと何十万円も取りますでしょうけどね。


今、日本は会社勤めから個人オフィスの時代に移行しつつあるようです。

自民党さんと自民党支持者のおかげでね、今の日本の社会システムは大きく変革しようとしております。

大きなトラックから小回りの利く小型車へ、

時代が中央集権国家から律令国家、武家社会、封建社会、軍事国家、構造的資本主義社会へと

進んで参りましたように、

さらに次の時代へと変わろうとしているのですね。

苦痛があるから変革もある。

この苦痛が余り長くは続かないで欲しいものですけど、

社会はね、どんどんどんどん変化し続けますでしょう。

それが良い変化なのか、悪い変化なのかは、

後になりまして誰の目にも明らかになる日が来るとは思いますけど、

心だけは明るく希望に燃えて、生きる意欲に燃えて、

神を見つめ続ける確かな瞳で、変わらぬ心で、

変革の波を乗り切って戴きたいものだと思いますね。



強要癖



強要癖というものがありますね。

MIXIなどでも読み逃げ厳禁などとしてコメントを残すように強要する。

マイミクさんには必ず毎日コメントを残すことを強要して、

自分がそうして欲しいから他の人にも強要して、自らもその義務を課すのですね。

ご自身のものさしで、ご自身の考え方を押し付けて人の自由な行動に規制を与える。

このような自己中な人が周りにおりましたら困りますでしょうね。

自由が奪われ、時間が奪われ、人権が奪われ、人生が奪われ、争いが絶えず、尊重されず、

もしもこのような方にお子様でも生まれましたら、果たしてどのように育ってしまうのでしょうか?

自由に考えることもできず、何も話さない、ビクビクビクビクして閉じ篭っている、

まあ、間違いなくそのような人間に育ってしまいますでしょうね。

その昔、吉良上野介義央が浅野匠頭長矩に賄賂を要求したが受け入れられず、

高家筆頭という公平性が求められる立場にありながら浅野匠頭長矩をいじめちゃった。

彼もまた強要癖の持ち主だったのでございましょう。

頻繁に一方的な電話をして、それで留守だと「どうして電話に出なかったのか」、「何をしていたのか」

と問いただす。

そういったお心の状態もね、

まず間違いなく強要癖があってのことだと思いますよ。

奪うのは悪魔の想念ですからね。

強要癖も悪魔の息吹のかかった考え方なんです。

ですからね、そうではなくてね、

奪うのではなく、与えること。

相手の立場に立って考えて、相手の気持ちを察して、人権を認めて、尊重して、

より魂も生き方も自由になるように、より楽しく充実して生きられるように、

必要なものを与えて、相手にとって良くなるように考えて差し上げる。

そうしませんとね、

強要癖の人は大きなものを失ってしまうと思いますよ。

気付いていないかも知れませんけどね。