ブログより転載(2009年6月)

 



答えはたぶんどこにもない



悩み、苦しむ。

それでも答えはどこにもない。

誰からも与えてはもらえない。

守護霊様は何かヒントを与えて下さるかも知れない。

でもそれは、答えではない。

答えは自分で、自分なりの答えを導き出さなくてはいけない。


さて、文月でございます。

ベランダにやって参ります雀はどうも特定の三羽。

それがね、私の心が不調和な時には絶対に来ないのですね。

不思議な話でございます。

バキラは一年前は私の腰の辺りまでしかなかったのですけど、

もう今は私の身長を超えようとしております。


全ての答えは簡単に導き出せるものではありませんね。

答えを導き出すことこそが人生であり、

そしてそれは、実在界に戻りました後に明かされることなのかも知れません。



雀の意味



不思議なことにね、

雀が最近ベランダに沢山飛んで来るのです。

そんでもって、チュッチュ チュッチュと鳴いているのです。

今日は朝から祝詞を奏上しておりまして、

そうしますとね、雀さんもそれに合わせてチュッチュ チュッチュ チュッチュ チュッチュ って鳴くのです

で最後のところでフェードアウトして行きますと、

雀さんもその鳴き声をフェードアウトさせるのですね。

ほんまに不思議な出来事でございます。


何がどうなってしまっているのか分からないのですけど、

何を意味しているのかがまったく分からないのですけど、

それでもベランダには雀さんの糞だけが増えて行くのでございまして、

まあ、それでもお蔭様で楽しい日々を過ごさせて戴いているのでございます。


雀、なぜ鳴くの 雀の勝手でしょ♪



苦労といふもの



人生には、苦労が付きものでございます。

人生、苦労してなんぼのものなんですね。

私のように、

苦労を恐れ、毛嫌いして避けよう避けようとする条件反射が若い頃にできてしまっておりますとね、

人生楽しくも何ともない。

誰にも頼らずに自力で苦労を制覇してこそ、

充実感が湧き上がりましてね、

やったぞオレ! 強いぞオレ! 楽しいぞ人生!

ってなるものなんですけど、

私の場合、そのことに気付きましたのがほんの十年前、30代後半の頃でございまして、

なんぼほど遅れてるんやって感じるのですけど、


苦労にも種類がありますね。


人を説得して、分かって貰って、

説得して、妥協させて、

説き伏せて、捩じ伏せて、

って感じの苦労とね、


動いて動いて動き回って、

身を粉にして汗水流して頑張って、

って感じの苦労


勿論そういった苦労も良いのですけど、

自分を変えて行く苦労、成長させる苦労ってものもありますね。

そういった苦労も勿論魂の成長には大切なものでありますように思いますね。


時に応じて、バランス感覚を持って必要な苦労を選択して、

オレは今こういった種類の苦労をして人生を頑張って生きているのだ、

やるねオレ! 頑張れオレ!

って感じで客観的に捉えて下さいますと、

また、人生に対する視点、向き合い方が変わって良いのではないかな、

少しは楽しく、やる気も生じて来るのではないかな、

と考えるのですけど、


如何なもんでおじゃりますやろか?


オーレー オレ オレ オレー♪



重力



神様はね、

光を求めるものは高いところへ、

光を求めないものは低いところへ行く、

という法則を作ったのですね。

その法則がこの世界では重力として現れているのですけど、

光を求めないもの、

つまり、不浄なもの、穢れたものは水に流され、

河を流されて大海の海の底深く沈められるのです。

そうして、プレートの流動がが地球内部にそれを運び、

さらには地球内部で高温で焼き尽くすのですね。

魂の世界でも、

光を求めないものはどんどん地下深く沈み込んで、

その姿を暗闇に棲む魔物に変えて行くのです。


光を求めるものはね、

その重力に引き込まれないように、

たとえ現状を維持するにもエネルギーが要るようになっているのですね。

努力という意思のエネルギー。

でもね、そのエネルギーさえも神様はちゃんと与えて下さっているのです。

ですから、誰だって普通に生きておりましたら、

頑張ろうって力が湧いて来るのです。

私たちはただ、そのエネルギーを活用すれば良いだけなのですね。

努力、実行という行為に変えて行けば良いだけなのですね。


そうしませんとね、

私たちは誰だって重力に引っ張られて、

真っ暗な闇の世界へとどんどん引き込まれて行ってしまうのですから。


人はそれを堕落と云いますね。



法則



さて、大宇宙大自然界の法則には様々なものがありましたね。

代表的なものが、

輪廻転生の法則

光の法則

感謝と愛の法則

作用と反作用の法則

その他にも慣性の法則とか、調和と秩序の法則とか、

沢山沢山ございました。


輪廻転生の法則では、

万物が表の世界と裏の世界を持ち合わせているということ、

如来様でも輪廻転生するのだということ、

望んで、生まれてくる環境を決めて、伴侶を決めて、

約束して、誓って、喜んで希望を持って生まれて来るのだということ、

これは絶対に忘れてはいけないことでございますね。


光の法則は、

神様からの光をどうすれば受け取れるのか、

心は光の量に応じた世界に繋がり、

光の量に応じた世界に籍を置き、

光の量に応じた人と惹かれ合い、

光の量に応じたご縁を得て光の量に応じた人間関係を形成する。

のでしたよね。

そうして守護霊様が光の量を上げて下さろうと気付きや課題を与えて下さる。

その課題は心の次元を上げることでクリアできるのですね。

その課題に不満を持ったりすることなく、

常に前向きに挑み続けることで、私たちはどんどん心の次元を上げていくことができるのですね。


感謝と愛の法則は、

感謝と愛の想念で調和が生まれ、心が輝きだし、

環境も人間関係も改善されるのですね。

心の調和度を上げる、

これは大切なことでございますね。


作用と反作用の法則、

これは正当な労働には正当な報酬が、

与えるものは必ず大きなものを得て、

奪おうとするものは必ず大きなものを失うのでしたよね。

無償の愛と作用と反作用の法則、

たとえばこれを矛盾していると捉えてしまわれます方も多いのですけどね、

無償の愛の心がありましたら、必ず素晴らしい宝石を得ることができるのです。

かってキリスト様はこのように仰られました。

右手のしていることを左手に教えるな、ってね。

そうすれば必ずそのご褒美が戴けるのです。

逆に無償の愛を要求するとどうなるか、

恐らくその人はさらに大きなものを失ってしまわれますでしょう。

このように正法は全てが矛盾することなく、誰の心の中にも存在しているのですね。


慣性の法則はね、

人は死後も魂は生きておりました延長線上の人生を歩み続けるのですね。

不満に塗れて命を失われました方はその魂も不満に塗れておりますでしょうし、

心の苦しみを抱えて命を失われました方は死後にも苦しみ続けますでしょう。

感謝の中に生きた人は死後も感謝の明るい光の世界で生き続けるのですね。

ですから、調和の取れた想念、生活習慣、条件反射の訓練をね、

生きております間に充分にしておかなくてはいけないのです。


調和と秩序の法則はね、

大自然界に存在する全ての存在が自らの意思よりも調和と秩序を優先している。

だからこそ、生き続けることができるのです。

逆に不調和・不秩序では必ず崩壊してしまうのですね。

人もそうですね。

人が環境にもたらした不調和な想念行為は大自然の沢山の命を奪いましたね。

不調和な政治や社会が混乱を招き多くの命を奪っておりますのもそうですね。

ですから私たちは考えなくてはいけないのですね。







さて、夏でございます。

入道雲も見みられるようになりまして、

本格的な夏に突入したことを感じずにはいられないような、

そのような候でございます。

昨夜はもの凄い雷雨がありまして、

今朝にはもうカラっと快晴の夏日和でございます。

夏さんは割り切った性格でよろしおますね。


さて、少し前に花山の旦那が突然に、

「おれはいっぺん江戸に戻ろうと思うんだよ」

と何の前触れもなく最終回を迎えてしまいまして、

少し寂しい想いをしておりましたおっさんでございます。

花山の旦那が江戸に戻る。

そうしますと、当然の如く焼津の半次さんは相方がいなくなってしまうわけでございまして、

これはもう塚地さんを失ってしまったドランクドラゴンのようで、

カツの乗っていないカツ丼のようで、

大変なことになったとまた阿呆なことを考えていたわけでございます。


それで、何か他に良い番組でもないかなと探していたのですけど、

そうしますと、「白昼の死角」というドラマが放送されておりましてね、

これは、法律の抜け穴を利用して詐欺をするという、高木彰光さんの小説で、

昔、角川文庫が映画化もしておりましたドラマの再放送なのですね。

実際にあった光クラブの詐欺事件がネタになっているのですけど、

偽の投資話を持ちかけて多額の出資金を出させ、それも元手に貸金業を行い、

最終的には破綻してしまう。

良くは知りませんけどそのような事件でありましたようです。

それがね、ドラマでは太陽クラブという名称に変わりましてね、

その残党が法律の抜け穴を利用して詐欺をするというものなのです。

詐欺師のテキストのようなドラマでありまして、

恐らくは時代的にも円天や村上ファンド、ライブドア事件等の首謀者を始め

多くの現代企業家がテキストにしていたに違いないというような、

たとえテキストにはしていなくても、かなりの影響を与えたに違いないドラマなんです。

難波金融伝にもその影響は色濃く見ることができますね。


でね、そこに岸辺シローさんも出演されていらっしゃいましてね、

恐らくは岸部さんの人生にも悪影響を与えたのはないかなってね、

おっさんは考えるのですけど、

でもね、それだけ影響力のある番組なのですから、面白いです。

見応えがあります。

思想的に染まらなければ得るものも多いと思いますね。


昼に放送されておりまして、

懐かしく思っておっさんも見ております。

でも、おっさんは影響されることはありませんのでご安心下さいませ。



そうれんの行列



毎朝8時頃になりますと、駅から沢山の葬式の行列が始まります。

苦痛に歪んだ顔で黙々と、ただ死者を追悼するかのようなその行列は

各々の定められた人生の埋葬場所へと消えて行きます。


彼らは、一体何がしたくて生まれて来たのでしょうか?

何を目的に、どこへ向かおうとしているのでしょうか?

利害関係のみで成り立つ人間関係、

互いに利用し合うだけの人間関係、

その人間関係の集合体で成り立つ組織、


病んでいるのはね、人の心なんです。

人の心が病み、

組織が病み、

社会が病み、

そうして葬式の行列が始まるのです。

人生を葬り去る追悼の儀式。


彼らはきっと、この儀式に参加するために生まれて来たのかも知れませんね。

光の世界から、ただ葬式に参列するためだけに生まれてきたのかも知れません。

それも、自分たちの葬式にね。



変化



何やら、変化があるようでございます。

いえ、私の身上に、ですけど、

このところのベランダの雀の集まり具合にしましても、

今年に入りましてからの私自身の気持ちの変化にしましても、

本格的にプログラムを組み始めちゃったことにしましてもそうなのですけど、

何やら変化がありますようで、

昨夜は守護霊様でしょうか、

そういったことに気付かせて下さいました。


そう云いましたら、もうすっかり忘れてしまっていたのですけど、

来年は変化の年なのです。

艮宮と云いましてね、変化の年に当たっているのです。

まあ、厄年でもあるわけなのですけどね、

人の運勢は9年毎に変化するのでございまして、

まあ、それで変化が生じ始めているのかな、って思うのです。


そういいますと、9年前はサイトが本格的に動き出した頃でございまして、

18年前はサラリーマンの頃で大きなプロジェクトが動き出した頃でございました。

27年前は来年からの就職に向けて就職活動を始めた頃でありましたように思います。

ですから、艮宮の年には必ず何かしらの大きな変化が生じていたのですね。

サイトの方はもう全て書き尽くしまして、

どこにもない宇宙最高の魔法なども掲載させて戴いておりまして、

もうこれで曲がりなりにも完成しているのではないかな、

と手前味噌ながら思うのですけど、


次は、何なのだ?

ひょっとして命に関る変化ではあるまいな?

と期待にわくわく胸躍らせているのでございます。

皆様には余りご迷惑を及ぼすことはしたくないと考えてはいるのですけど、

何しろ私も迷える子羊の一人でございまして、

こればかりは迷いつつどこへ導かれるのかも分からないのでございましてね、

何かとご迷惑をお掛けするような事態になりましても、

暖かく、広くて深いお心でお赦し下さいますことを切に願うばかりでございます。

あーめん



愛の暮らし



たとえばね、

地べたを這っている人でも、

高いところにいる人でも、

同じように太陽の光は降り注ぐし、

大地は暖かいのです。


神の愛によって生じた地球という暖かな環境、

そんな中で、人の生み出した上下関係、

地位とか、名誉とか、肩書きとか、金持ちとか、セレブとか、

そんなものは全く意味のないものであってね、

神様はどんな人でも平等に扱って下さる。

特定の人の頭の上だけお日様の陽が射さず、その場所だけ空気が薄く、

その場所だけ気温が低くて、その人の頭の上にだけ雨が降る、

なんてことは決してありえないのです。

いえ、勿論、神様がその人を本当に嫌いになりましたら、

そういった現象も当然のように生じるはずなのですけど、

絶対にそんなことは起こらないのですね。

もしそういった現象があるのでしたら、

それはまず間違いなく、その人自身の心が生み出した地獄なのですけど、


この神様の愛に溢れる大自然の中に、

沢山の人の愛によって作られた家に住み、社会に属し、

愛による恵みを食し、様々な愛によって生み出されたものに囲まれて、

私たちは生活しているのですね。

ですから、当然私たち自身もその愛の創造に積極的に参加するべきであると思いますし、

それが報恩の行為ではないかと思うのです。


権威や地位、名誉、知識や財力を振り翳して、

愛ではなくそういった人間社会だけにしか通用しない無意味な力しか信頼せず、

威張り腐る。

或いはそういった力で、自分の欲のために服従させ、働かせる。

こういった人は自ずと反作用が生じて魂の成長を妨害するようになると思いますし、

人から愛されることもなくなってくると思うのです。


愛だけが、神の意に適うものを生み出すことができるのです。

愛の作用によってのみ、私たちは魂を成長させることができ、

この世界に調和を生み出すことができるのです。

上から目線の愛、なんてありえませんし、

卑屈な愛、といったものもありえないのです。

欲と愛が同居することもありませんし、

自分本位の愛、なんてものも存在し得ないのです。

愛は対等で、見返りを求めないのです。

人の喜びが自分の喜びであるのです。

愛は愚痴を言いませんし、

自分のことも考えないのです。


自分中心だから、求めたくもなり、

愚痴だって生じて来るのです。

自分中心だから、卑屈になったり上から目線になったりするのですね。


愛の創造行為、

いえ、変な意味じゃないですよ。

愛の循環の輪の中にね、

私たちも参加しようとする意識、

そういったものがありますとね、

きっと社会は良くなって下さいます。

それができてこそ、

神様に少しばかり近づいた、と云えるのではないかと思いますね。



この両手に花を抱えて

あの日あなたの部屋を訪ねた

窓を開けた日差しの中で

あなたは笑って迎えた♪



幸せはどこから来るのでしょうか



皆さん、少し考えてみて下さい。

幸せは、どこから来るのでしょうか?

感謝する心は、

人を思い遣る優しい気持ちは、

暖かな心は、

笑顔は、

希望を持って前向きに力一杯生きようとする気持ちは、

正しく人生に向き合おうとする気持ちは、

気付きは、

どこから生まれて来るのでしょうか?


それはね、調和した安らかな心から、

生まれて来るのではありませんか?

健康な心身があって、

神の子としての自覚を持って、

調和した中道の生活を心掛けて、

そうして獲得した調和した心、

安らかな心、

それが神仏の意識と通い合って、

神仏の高い意識、光を受け取れるようになって、

幸せになるための様々な素晴らしいものが得られるのではありませんか?


少なくとも生きることに囚われておりますといけません。

命や生活を守ろうとする意識がありましてはいけません。

執着や依存がありましてもいけません。

自己中心の狭い視野でもいけません。

見栄やプライドがありましてもいけません。

その心は逆に不安を招きますでしょう。


静かにね、心を落ち着けて反省してみて、

静かに静かに、ゆっくりと時を楽しむ。

そういった時間を設けて己の心の動きを眺めてみる。

そんな中にありましてこそ守護霊様から気付きを与えても戴けるのですね。


心配してもしなくても、

裕福に生きるために身を粉にして齷齪動き回っても動き回らなくても、

誰だって死ぬときは死ぬし、

僅かでも寿命が延びるわけでもないのです。

それよりもね、

神仏や守護霊様に御守護や導きが戴けます方がどんなに安全で確実か知れないのですね。

それなら楽しいことだけに邁進して、

心身の健康や中道の暮らし、心の調和にも目を向けて、

日々楽しく頑張っております方がどんなに良いか知れませんね。


その方がきっと人は幸せになれる。

人類はもっと素晴らしくなれる。

魂ももっと成長できる。

と思うのですけどね。



花山大吉に見る作用と反作用現象



さて、毎日欠かすことなく夜中の2時まで起きて、

ケーブルテレビの花山大吉を拝見しておりますおっさんでございます。

この番組は、花山の旦那と焼津の兄貴との掛け合いが楽しみどころとなっているのですけど、

最近はお咲坊という娘さんが加わりましてさらに勢い付いておりますようなことになっておりまして、


ところでね、花山の旦那が相方の焼津の半次に向かって、

「この、ばかたりが!」と毎回激しくも優しく、愛に満ちた言葉で罵るのですけどね、

勿論、これは焼津の兄貴が毎回とんちんかんなことをしでかしてしまうのがいけないのですけど、

でもね、私たちは気付かなくてはいけませんね。

どんなに軽い気持ちでありましてもね、

「この、ばかたりが!」と口に出しますと、

その反作用は必ず生じているのですね。

最近はそれが本当に良く分かるのですけど、


「この、ばかたりが!」って云いますでしょう?

そうしますとね、頭が固くなって、頑固になって、視野が狭くなるのです。

ほんの少しずつでもね、気付かなくても、

間違いなくそういった反作用が生じているのです。

お顔の表情もね、少しずつ強張って頑固顔になって来るのですね。

嘘だとお思いになられるのでしたら、やってみて下さいませ。

毎日口に出して言っておりますと、

きっと一年後には驚くほど物分りの悪い頑固者になっておりますことでございましょう。


ですからね、正しい言葉、正しい言霊を使うように心掛けて、

私たちは想念や生活習慣を正して行かなくてはいけないのですね。

色即是空 空即是色、ってきっとこういうことなのでしょうね。



今更ながら



今更ながら、人は死後どうなるのか、

なんて当たり前過ぎて別段ここに書かせて戴きますこともないのですけど、

意識は、心から生じて参ります。

そして心は、身体とは別の高い次元にあるのですから、

脳が機能しなくなりましても意識は残り、

その意識は心、魂に存在しておりますことを認識します。


この三次元世界のこともね、

心を通して、高い次元から客観的な視点で見ることができるようになりますね。


お釈迦様はね、

深く深く反省していたのです。

毎日毎日木を背にして、前に火を焚いて、

そうしませんと獣に食べられちゃいますから。

そうやって反省の瞑想をしていたのですね。

そうしますと、脳で考えるのではなくて、次第に意識は心の奥に向かいますね。

心の奥で、深く深く反省し、事象を眺めていたのです。

ですからね、心を通して全てのことを知ることができるようになったのですね。


禅宗のお坊さんなどは無我の境地なんて仰られますけど、

心も頭も空っぽにしてしまいますと悪いものが入り込んで参ります。

その隙を作ってしまうのですね。

テレビでは、塚地武雅さんという立派なお名前のお笑いの人がおりますけど、

ぶさいくなのですけど、もの凄く男前な芸人さんですけど、

無我の境地では悟りは開けないのですね。

道元さんでさえ悟りを開くことはできなかったのです。

頭は空っぽにしてもね、

心で深く深く考える。

反省する。

心で感じ、心で想い、心で祈る

それが大切なのですね。



「自虐の詩」に想う



先月の末のことでございます。

ケーブルテレビで「自虐の詩」という映画が放映されておりまして、

これは業田良家さんと仰られます漫画家の方の作品を映画化したものでございますが、

幸江さんが汗水流して稼いだ僅かなお金を巻き上げて、

無職でヤクザ上がりのイサオさんが毎日遊んでいる、

時には警察の厄介になり、毎日のようにちゃぶ台をひっくり返し、

それでも幸江さんは、あさひ屋のマスターの猛アタックにも心動かされることなく、

イサオさんを愛し続ける、という物語なのですけど、

それがね、四コマ漫画で面白おかしく書かれている漫画だったのです。

ですから当然、映画もギャグ満載で面白く仕上げられていると思って見ていたのですけど、


そうではなかったのですね。

それはそれは素晴らしい感動物語でね、

フィクションでは決して心動かされることのないはずの私が、

感動してしまったのです。


それはね、どうして幸江さんがそんなダメ男のイサオさんに愛を捧げ続けるのか、

女の幸せとは何なのか、

といった観点から製作された、

前世を彷彿とさせるような、

美しい物語だったのですね。


前世があって、

前世で約束し合った二人が居て、

その二人が今生また盲目の人生の中、厳しい環境の中で出会って、

共に生きようとする。

それは決して楽で簡単なことではないのですね。

想いをぶつけ合い、

憎しみ合い、

拳で殴り合ってでも、

それでほんの一歩でも同じ方向に進むことができたのなら、

それは素晴らしいことでありますように思います。

時にはそれでも想いが届かないこともあるのです。

苦労しても苦労しても苦労しても、

それでも一緒に居られる幸せ。

決して楽をして手に入れられるなんて安直に考えておりましては、

いけないのです。

覚悟して、

根性を据えて、

向き合って行かなくてはいけないのです。

ご自身の人生と対峙して行かなくてはいけないのです。

逆に、楽して幸せが手に入ったとしましても、

そこには学びも、成長も、喜びも、何もないのです。

気付かずにその幸せを簡単に手放してしまったりするのです。


自虐の詩、

本当に考えさせられる深い深い内容のお話でございました。



水無月に想ふこと



このところ、どうも放浪の虫が騒いでおりまして、

旅立ちたい、旅立ちたい、遊びに行きたい、遊びに行きたい、

と心がストライキを起こしておりますような状態でね、

先立つものはないのですけど、

もう明日にでも行方をくらましてしまいそうな、

そのような気分でございまして。

東京ブックマークで関東を回ってこようかな、なんてね。

瞬間移動でもできると良いのですけどね。

どちらにしましても、暑くなる前にどこかでお休みを戴こうかな、

と、考えておりますのでございます。


ところで、話は全く変わるのですけど、

米には7人の神様が宿っている、なんて云われます。

何の神様かは存じませんけど、それで少し考えてみたのです。

そうですね。まず、創造神の意識が宿っておりますね。

それから、お日様の恵みと雨の恵み、大地の恵みがありましてこそ、なのですから、

太陽と、雨の神様と、大地の神様、

それと田んぼの神様、

そのもの自身の、米の神様、

お百姓様の心も宿っているのでしょうね。

おお、ほんまやー。

ちょうど7人の神様が宿っていやはるやん。

そうなのです。

それが正解かどうかは分かりませんけど、

米には7人の神様が、

いえ、神様なのですから7柱神と数えるべきなのでしょうけど、

宿っていらっしゃるのですね。

ですからね、お、おにぎりは美味しいんだな、

ってことになるのでしょうね。

これはもう本当に、カムサハムニダなことでございますよ。

本当にね。