ブログより転載(2009年8月)

 







スーパーマーケットなどで菓子や玩具を欲しがり駄々をこねる子供がおります。

最近は余り見かけなくなりましたけど、その理由は察しが付きます。

駄々をこねる子供に、殆どの場合お母様は叱り付けて、

「置いて帰るよ」と脅迫しております。

そんなことをしなくてもね、素直に話して上げれば良いのです。

「ごめんね、欲しいものが買ってあげられなくて。家、貧乏だからね。」ってね。

お子様の理解力は凄いですよ。

そうしますと、次からは絶対に駄々をこねなくなります。

子供の心に、「貧乏」ということばが深く突き刺さるのですね。


怒るのか、叱るのか、

どこかで聞いたことを鵜呑みにするのは日本人の悪い癖ですね。

殆どの親御様が、怒ってはいけない、叱らなくてはいけない、と考えていらっしゃる。

でもね、怒るのは相手を尊重して対等に見れているから怒るのです。

叱るのはね、上から目線で見ているから叱れるのです。

日本の家庭はね、殆どのご家庭で家族運営に子供は一切口出しできない。

自分たちのことさえ、自分たちで決めることはできなくて、親御様が全てお決めになられる。

それも上から目線で管理支配しているからなのですね。

一つの考え方に捉われて、視野が狭くなっている。

日本人の悪い癖ですね。

尊重しているからこそ、

一つの魂として認めているからこそ、怒れるのです。

認めず、尊重せず、味方になってあげず、

何の権力も与えず、親の秘密は一切教えず、

子供の隠し事ばかり目くじらを立てて、一方的に叱ってばかりおりましたら、

子供は精神的にも社会的にも、「かたわ」になっちゃいますよ。

そういった「かたわ」の大人たちが今、世の中には溢れているのです。


心を開かずに叱るよりも心を開いて怒る方がどんなに人間らしく健康的かと私は感じますね。

勿論、どんなに怒っても暴力はいけません。

弱いものに暴力を奮う、

それはクズ人間のやることですから。


癖は誰にでもありますね。

勿論、おっさんにも悪い癖がございます。

魂に刻まれた業もそうですね。


今回の選挙では、

盲目的な自民党支持者の中にも自民党の悪い癖を見抜いて下さる人がようやく現れ始めたのかな

と感じます。

でも、遅過ぎるのですけどね、

日本がもうどうしようもなく壊されてしまった後に気付いても遅いのですけど、

まあ、疑問を持つ最初の一歩といったところなのでしょう。


そしてこれからは、たった一つのことさえも鵜呑みにせず、

自分たちの頭で疑い、考え、歩を進めて行って下さいますことを望んでおります。

本当の幸せは、その先にしかないのですからね。

取捨選択もせず、ただお偉い先生のお言葉だからと鵜呑みにして歩を進めておりますだけでは、

その行き着く先は見当も付きませんでしょうからね。

誰のアドバイスもそのままには受け入れずに、一つ一つ考えてご自身で決断する。

根拠を求める。

その姿勢が真の幸せへの近道でございますよ。



夢を見ました



そこは、どこでしょうか。

河沿いのお屋敷のようなところで、

河の上にテラスが突き出ておりましてね、

そこに、私と、私の仲間たちがおりました。


修行時代、

バカをして共に笑い合った仲間たちと大先輩、

その大先輩はね、

人を疑わず、

いつでも笑っていて、

大きなお心で何でも赦して、

何でも認めて、

そうかそうか、って笑っておりました。

お茶目な人でね、

暖かくて、

優しくて、

静かで、

大きさ、深さを感じさせる人でございました。


だから沢山の人からも愛されるのですね。



選挙



報道各社の調査結果によりますと、

どうも今回は民主党の支持率が自民党の支持率を遥かに上回っておりますようで、

やはり今回の政権交代はまず間違いなさそうな情勢でございます。


各選挙区から議員を一名選出するという小選挙区制、

恐らくは自民党の、他政党の議員数を押さえ込みたいという思惑もあってのことだと思いますが、

自民党自らが改革を行った選挙制度で、

自民党が、

恐らく、殆どの自民党議員が敗退するのではないかと思われるのでございます。


ところで、不思議なことに、私と同じ主張を展開しております政党がございます。

共産党なのですけど、

私の拙い判断力で考えますと、

一番正しいこと、一番当たり前の誰にでも分かることをを仰っておられると思うのです。


ところが、他の政党はそうではないのですね。

思いつきや思い込みの激しく偏った、

どちらかと云いますと、

共産党よりも共産主義思考に偏った政策をマニフェストに堂々と掲げていらっしゃるのです。


不思議なことです。


いえ、私は、共産党を支持しているわけではないのですよ。

彼らの最終目標は、「共産」というその政党名の通り、

国民が共に産する管理社会を建設することにあるのです。

共産、とはね、そういうことですよ。

でも、私の考えはそれとは逆なのです。

管理や支配を離れた国民が自由に生き生きと暮らし、

互いに協調し合い、助け合う中から生まれる国家の姿、

それこそが本来の自由な民主主義国家だと思うのです。


そこのところが全く異なるのに、目前の政策でことごとく一致する。

これもまた、不思議なことでございまして、

まあ、多少精神構造がおっさんに近い方がいるのかも知れませんね。



今日も亦医者通いつつがありや



お顔の腫れが随分と治まっては来ているのですけど、

どうもまだ歯茎がグキグキと腫れておりまして、

月曜日にも是非御出で下さいと勅が下りました。


今日これからと明日で僅かばかり溜まっておりますお仕事に精を出すことに致します。


で、考えておりましたのですけど、

これは日頃のストレスとか、鬱憤とか、

愚痴とかが膿となって出て来ているのかも知れないね、

と思うのです。


悪いものを排除する働きが病で、

或いは不摂生や間違った生活習慣を正す働きが病で、

身体の細胞がそういった想念や在り方を敏感に感じ取って反乱を起こすのですね。

そうしなくては身体のご主人様でありますところの私たちが魔に犯されてしまう。

魔に侵されてしまうよりかは病原体に犯される方がマシなのでありまして、

ですから、身体の細胞が身体のご主人様に、お畏れながら、と異議申し立て、

それでも直らなければ反乱さえも覚悟の上で、

ご主人様のために直談判に打って出て下さっているのですね。


そうすることによりましてね、

ご主人様の心身の状態も次の、より神性の高い修行に向かって行けるのでありましてね、

今朝は電車の中でそのようなことをふと考えておりまして、

ああ、そうなのかあ、と私自身深く反省させて戴きましたようなわけでございます。



発端



金曜日に痛み始めたのが始まりでした。

その時、歯医者に予約さえ入れておけば良かったのですけど、

気のせい、として片付けてしまったことが悔やまれてなりません。

そもそも、そこの歯は少し固いものを噛めば腫れ上がり、

何度も抜いてしまおうと考えたのですけど、

まあ、抜いてしまうのもなんだか、で温存しておりましたところだったのです。


それがね、土曜日、日曜日と日を重ねるに従って腫れ上がり、

痛み上がり、

日曜日の夕方には、うーーーーと唸り声を上げる始末で、

正常な判断力も失われて意識も朦朧となっておりました。

お顔も随分と腫れ上がりまして、

こんなに腫れ上がったのはもう幼児期のおたふく風邪以来なかったことなので、

驚きました。


口が半分程しか開かず、

目ン玉も半分しか開かず、

見事、顔の腫れ具合120%達成!

いやまあ、取り敢えずはおめでとうございますってことでね、

月曜日に予約を入れて火曜日に歯医者に飛び込んだのですけど、


食べることもできない、

眠ることもできない、

こんなことはもうナシにして欲しいものだと思います。


全ての魂に今後一切このような苦しみが生じませんように、

神霊に強く願うおっさんでございました。



歯医者で点滴



歯医者、行って参りました。

で、点滴を打って来ました。

ミュータンス菌の敗血症なのでしょうか。

微熱もありまして、

明日明後日も点滴を宣告されました。

で、痛み止めと化膿止めを戴いて参りまして、

酷くなるようなら歯茎を切って膿を出さないといけないよ、と脅かされました。


苦しみもね、

忍耐力を養い魂を強化するための試練なのですから、

有り難く、前向きに向かって参りたいと思うのです。

苦しみの本質的な原因を見極め、適切な方法でその原因を排除する、

それが大切なのでありまして、

生老病死、愛別離苦の苦しみもね、

心を執着させず、心を煩わさせず、

本質的な原因から心を引き離すことなんですね。

そうして必要な苦しみは覚悟して堪え忍ぶ。


ただ、執着すればもっと苦しくなってしまう。


苦しみの間はね、

おっさんも「このやろうとか」「ちくしょう」とか、口走ったりもします。

魂を強化する鍛錬なのですからそれくらいの言葉は出て来て当然だと思うのです。

魂が苦しみと闘う。

決して楽なことではないのですから。

それでも必ず勝たなくてはいけないのですね。

心は必ず苦しみに打ち勝って、心の王国を建設しなくてはいけないのです。



社会を変える力



その昔、お釈迦様はこのように仰られました。

「色は是れ即ち空であり、空は是即ち色である。」

色とは、形に表れたものであり、

空とは、目に見えないもののことでございます。

目に見えないものの表れが物質的な事象となって現れ、

その物質的な事象に対する私たちの向き合い方が目に見えないものを形作るのです。

目に見えないもの、

それはエネルギーであり、想念であり、心であり、神体でありますところの高次元体でございます。

その大宇宙を無限に重ね合わせたような余りにも巨大な高次元神体の、

ほんの氷山の一角のような表れがこの世界であり、

それ以外の目に見えない存在全ては私たちの心の中にあるのです。

そしてこの世界と心の中の世界は互いに影響し合い、働き掛け合い、

神霊の法の下に正しく運営されております。

その全ての現象は、私たちが失敗の中から間違いを見つけ出し、

正しい調和のあり方を学び、身に付け、魂を成長させるための神霊の愛に他ならないことは、

既に明白でございます。


調和に反する行為や想念には必ず反作用が生じ、

心も周りの状況も次第に不調和になって参ります。

調和に基づく行為や想念には必ず神仏のお力添えがあり、ご褒美があり、

心も周りの状況も次第に調和して明るく楽しく安らぎのある幸せな境遇に変わって参ります。

それは例えば浮気一つ取りましても、

浮気をすれば罪の意識が生じ、また廻り回って自分の身にも同じような現象が生じやすくなります。

心は決して安らぐことができず常に不安を抱えることになりますでしょう。

人生の歯車はそういったところから簡単に食い違ってしまうのです。

でも、一筋に奥様を、家族を愛し続ければ、

愛を育み、温かな家庭を気付く努力を遣り甲斐を持って実践しておりましたら、

ご自身のお心は充実感や安らぎに満たされ、真の幸せを実感でき、

また、周りからは信頼され、手本にされて、

周りの環境も次第に調和されて参りますでしょう。


ですからね、自分がされて嫌なことは人にも絶対にしないこと。

客観的に見て正しいと思われる生き方を実践すること。

その生活習慣が身に備わりますと当然ご自身も幸せな境遇となり、

周りにも幸せの輪が広がって参りますでしょう。

一つ一つ考えて間違いを修正し、正しい姿に戻して行く。

そのための材料がこの世界の作用と反作用の法則なのです。

たったひとつの事柄さえも疎かにしてはいけませんよ。

それは必ずご自身の幸せの障害になってしまうのですから。


そうして皆が幸せな境遇に到達して、

幸せの波紋を広げ合うことができるようになった時、

心の中に思う私たちの本当に住み良い幸せな社会がこの世界に実現するのですね。



不思議な体験



まだおっさんの住むマンションの一階にチンピラが住んでおりました頃のことなのですけど、

夜中におっさんが目を覚ましますとね、

何人かの若者がそのチンピラをからかっているのです。

チンピラさんも大きな怒声を上げておりますし、

若者が石をぶつけたり、ガラスを叩き割ったり、

その音が聞こえて来るのですね。


でも実際にはそういった事件はなく、

窓を開けてみても誰もいない、

チンピラも元気に日常と同じように怒りながらも平穏に過ごしているのです。


恐らく阿修羅界の現象がチンピラの想念を介して現れたのだと思うのですけどね、

まあ、こんなことがおました、ってだけなんですけど。

オソロシおまっせ。

気いつけなはれや。



愛の反対 その2



愛の反対を憎しみではなく無関心とする、

私にはその理由が分からなかったのですけど、

最近、色々と調べておりまして、少し分かって参りました。

それはね、

おっさんと他の人とでは日本語の捉え方が違うのです。

何故、日本語の捉え方が異なるのか、

それはちょっと置いておきましょう。

今ここで議論したくはないと思いますしね。


さて、ちょっとこんなことを考えてみて下さいませ。

あなたの人生の中で、あなたが一番どうしようもないと考える人のことを思い出してみて下さい。

恐らく、その人は、ほぼ間違いなく、悪魔よりはマシな人間であるはずです。

あなたが、その人に関する嫌悪感よりも何十倍、何百倍も嫌悪感を感じるその存在が悪魔です。

そうしてね、その悪魔に対してあなたが感じるであろう感情、それが憎しみです。


次に、無関心について考えてみましょう。

たとえばここに、マーキュリーの法則というものがあります。

恐らくあなたはこの法則のことを全く知らない。

興味を持ちたいとも思わないでしょう。

これがね、無関心なのです。

でもね、マーキュリーの法則について探し出して少し学び、

ああ、こんな法則なのだったら自分は関わりたくないと感じて関心を示さないのはね、

無関心ではないのです。

それは無関心より少し憎しみに近付いた感情で、関心の中に入るのです。

そしてもし、その法則のことで、

もう二度と関わりたくないというヘイトな感情を伴って避けたくなるのでしたら、

それは無関心ではなく、憎しみです。


それがおっさんの憎しみと、無関心の解釈です。


その前提で考えてみて下さいませ。

愛の反対は無関心ですか?



訂正と修正



おっさんも人間でございます。

ですから、過ちを犯します。

ほんとうにもうしょっちゅう?過ちを犯しております。

ですから、ここは一つ、訂正なる作業を行って、

もう根本的から遣り直さなくてはいけないかな、ってね

考えるのです。


それでね、根本的に一からまた始めようとしますと、

やはりまた間違えてしまう。

過ちを犯してしまう。

そりゃそうなんですね。

人間なんですもの。

盲目なんですもの。

たかだか10%程度の意識で、

間違いなく完璧にこなす、なんてことは無理なんです。


おっさんはまた最近プログラムを書き始めましたけど、

どうしても間違いが生じてまいります。

その間違いを直しておりますと、また直した部分が間違っている。

なんてことはよくあるのです。

無理なんです。

おっさんに完璧を求める、なんてことはもう、

針の穴にらくだを通すより難しいことなんです。

それをね、さらに訂正して一から作り直そうとしましてもね、

今まで積み上げて来たものもあるんです。

誰の人生だって訂正なんて作業はそうそう簡単に取り掛かれるものではないのですね。


と、そのようなことを考えておりまして、

おっさん気付きました。

そうなんです。

修正で良いのです。

何も訂正しなくても、修正で充分なのです。

訂正はね、実在界に戻って、

100%ではなくともそれに近い意識で、

反省して訂正すれば良いのです。

改まって今全てを訂正しなくても、

いえ、するべきではないのですね。


訂正と修正。

訂正と修正は違いますね。

勿論、訂正できることは訂正するに越すことはありませんでしょう。

でも何も人生まで一から訂正する必要はないのです。

そんなことをしておりますと、折角の現世での短い時間が勿体無いのです。


気楽に行きましょうや。

気楽に考えて人生楽にいきましょうや。

豪快に笑いながらね。



ローストビーフの呪い



おっさんはね、

皆さんもご存知のようにローストビーフ大好き人間じゃあないですか。

こんなに美味しいものがこの地上に存在する。

これはもうこの上なく幸せなことでございましてね、

もし明日、核戦争で地球が滅びるような状況に陥りましたら、

せめて最後の食事は腹一杯ローストビーフを食べようと、

心に固く誓っておるのでございまして、


ですから、時折に夕刻スーパーで半額の見切りシールが貼られる頃合を見計らいまして、

いそいそと買出しに出かけるのですけど、

やはりどうもおっさんと似たようなローストビーフ大好き人間は沢山存在しておりますようでございまして、

ローストビーフは見る影も無い、と、そのような日もあるのでございます。


ですからね、おっさんも命がけでございますよ。

何が何でも半額のローストビーフを手に入れるのだ、と目を血走らせて、

ローストビーフ一直線、

なんてテレビアニメのタイトルのようなことになってしまうのでありましてね、

まあ、おっさんも想像以上に心の狭い人間でありますことが自覚できるのでございます。


ところがね、ところが、

困ったことに、このスーパーの客はね、

半額商品が並べられるのを今か今かとレーゾーコの前で立って待っているのです。

半額商品が並べられたその際に半額商品を獲得する有利な場所を占有して、

じっと突っ立っているのです。

5分でも、10分でも、半額商品が並べられるまでね、

レーゾーコを占拠するのです。

ローストビーフのレーゾーコの前もね、

ローストビーフのレーゾーコを塞ぐかのように、

ローストビーフを買わない沢山の客が突っ立って、

おっさんがローストビーフに手を伸ばすことを妨害するのです。

ったく憎たらしい奥様方でございます。


ですからね、おっさんは奥の手を使うのです。

名付けてローストビーフの呪い作戦。

そうしますと必ずその場所を譲って下さいます。

その効果はもう100%!

それはね、

突っ立っている人の耳元でただ呟くだけなのです。

でね、こう呟くのです。

「わしのローストビーフ、わしのローストビーフ」

これを場所を空けて下さるまで呟くのです。

そうしますとね、本当に、

必ず気味悪がって退いてくれよりますね。



EQ



EQという概念が云われ始めて久しくなりました。

IQが能力の判断基準であるのに対して

EQは社会適応力の判断基準なのですね。

自らの情動を客観的に捉えて管理し、

さらには人の情動を把握して社会の人間関係に適応する能力、

これが即ちEQなのですけど、


おっさんが学生の頃はそんな概念がまだどこにも存在していなかったのですね。

おっさんは学生の頃は虚弱体質でございまして、

よく保健室を利用させて戴いておったのです。

手相にも虚弱体質の線がはっきりとでておりましてね、

外見上でも何となく弱そうな、イメージがあるようでございます。


そうしますと、弱い者を手下に従えたいというような欲求を持つ者もいるのでございまして、

弱そうなおっさんに強引に近付いてきて、

友達になったのだと勘違いしておっさんを強引に連れ回す、

そんな人が時折に現れたりするのでございます。


一方的に近付いて参りますでしょ。

ですからおっさんも無視する理由も見当たらず親しく相手をさせて戴くのです。

そうして暫くしますと次第にイニシアティブを取るようになるのですね。

強引に決め事を作って守らせようとしたり、

歩調を合わせて歩いて下されば良いのにおっさんより一歩先を歩き、

鳥が西向きゃ尾は東、的に好きな方向に行くわけです。

そうしておっさんを振り回すものですから、

おっさんにはデメリットばかりで何のメリットもない、

従って、おっさんは次第に相手にしなくなるわけです。

そうしますとまた、一方的に怒ったり、文句を言ったり、落ち込んだり、


と、そういうことが学生時代から何度もありましてね、

今から考えますとそういった人は余程EQの低い人でありましたわけで、

まあ、外見で人の人格を判断してしまうことも問題なのでしょうけど、

おっさんもそうですけど、人は誰でも外見と内面はまるっきり違いますからね、

それとEQですね。

特に若い頃から人付き合いが苦手、友達が余りできない、遊びの輪に入れない、

そういった人は恐らく集団や人間関係における情動の真理といったものが学習できていないのでしょうね。


といったことをね、

「EQ こころの知能指数」 ダニエル・ゴールマン著

を読みながら考えておりましたわけでございます。


おっさん只今EQのお勉強中!です。



旅の余韻



旅をします

おっさんは風流者でございまして、

時折に旅に出ます。

一年に一回ですか。

資金を遣り繰りして旅をします。

そうしますとね、

まあ誰だってそうだと思いますけど、

心に残るものが必ずあるものでございます。

心に残る場所、

心に残る人、

心に残る風景、

心に残るお店、

何かしら、必ずあるものでございまして、

帰る時にはそういった余韻を心に秘めて、

持ち帰るものでございます。

そして時が経ちますと、

また、行ってみたくなる。

あのお店はまだあるのかな?

とかね、

あの人は今頃どうしているのかな?

とか、

思い出されて仕方のないものでございます。

良い思い出として天国に持ち帰るか、

いそいそと尋ねてみるか、

また訪れて再会を果たすか、

何れにしましても楽しいものであり、

後々のささやかな希望として残るものでございます。


何度も申しますが、

おっさんは旅好きの風流者でございます。

心が風来坊なのでしょうね。

最近は、東尋坊を二、三日ボケーと眺めていたいな、

とか考えます。

ついでにあそこの蕎麦屋にもう一度行ってみようかな、

とかね、

考えます。

いえ、望んではいないのです。

期待してもいないのです。

それがおっさんの宝物で、

考えておりますだけで楽しいのですね。

でもって、これがおっさんの妄想癖でございますね。


おっさんも じいさんの仲間入りかな ジジ臭し



お盆に想ふ



今日は、お盆でございます。

正式には、盂蘭盆会と云いますね。

ご先祖様方は、深い、深いところにいらっしゃいます。

そして魂も、深い、深いところから参ります。

今日はねお盆でありながら、また、終戦の日でもございます。

盲目の人間が過去に犯した過ち、なんです。

深い、深い魂を持ちながら、

浅い、浅い知恵で考えて過ちを犯すのです。

お盆と終戦の日が重なる、

これは教訓ですね。

深く、深く、魂で考えなさいという教訓でありますように思います。


さて、カレーはね、

沢山の食材を煮込みますと深い味になります。

人も沢山の経験によって、

深い深い心を育みます。

今生だけの経験ではありませんよ。

永い、永い魂の積み重ねてきた経験、

宇宙の変化と共に存在し、積み重ねてきた経験、

それが魂を育むのです。

それはね、

人の心も宇宙も同じ仕組みで存在しているのですから、

たった一つの魂でありましても軽々しく扱うべきではないのですね。

どんな魂だって、軽いものじゃない。

深い、深い、存在理由があって存在し、成長して、今ここにあるのです。


そのような魂を有する人間が、

愚かであってはなりませんね。

賢く、聡く、神の子であるという自覚を持って生きなくてはなりません。

どのようなことでもね、

好き嫌いで判断することは簡単でしょう。

見える世界に拘った浅い判断で全てを決めてしまうことも簡単でしょう。

生きております人には見えない深い、深い世界との関わり、

そういた世界からの私たちに対しての想い、

ものごとの根源、

そういったものを推して計る、

そして行動や想念、生活に反映させる。

それがね、私たちには本当に大切なことではないかなってね、

おっさんは想うのですね。



意味あり気な夢のお話



昨夜も、階段を上る夢を見ました。

階段を上るのです。

そうしますと部屋がありましてね、

課題があるのです。

その課題をクリアしまして、

また階段を上るのです。

そうしますと、そこにはまた部屋がありまして、

課題があるのです。

その部屋と階段は無限に続いておりまして、

皆が課題で疲れ果てているのですね。


でね、その部屋にひとつ別の扉があるのです。

誰も気付かないのですけど、

小さな扉があるのです。

その部屋に入ってみますとね、

色彩鮮やかな部屋ですね。

そしてそこにも課題が待っているのです。

でもね、その課題は個性を見つけるための課題でね、

楽しいものなんです。

でね、そので課題をクリアした人は皆がそれぞれに個性を見つけて、

消えて行くのです。


その部屋には一人のじいさんがおりました。

自分で作った紺色のギターケースを傍らに置いて、

何やら読書に熱中しておりました。



お盆



さて、今日はお盆の迎え火を焚いてご先祖様を迎える日でございます。

15日がお盆本番でございまして、

16日に送り火をしてご先祖様に帰って戴くのですね。

本来は7月15日なのですけど、

旧暦の7月15日(9月3日ですね。)が旧盆で、

新暦の7月15日が新盆、

一般的には1カ月遅い8月15日が月遅れ盆として一般的なお盆として認識されておりますようで、


施餓鬼供養をする日なのですね。

お釈迦様のお弟子様で目連様、

そのお母様が餓鬼界で苦しんでいらっしゃる。

ですから、御母様に代わって目連様が貧しい人に施しをした、

と、それが由来でございます。


調和した暮らしと想念、お心でね、

ご先祖様の心の安寧を願って差し上げますこと、

それ以上の供養はないのではないかと思います。

私たちが調和の中に仲良く楽しく暮らしておりますと、

それがご先祖様のお手本にもなりますし、喜んでも下さるのですね。



長渕剛さん



おっさんはね、別に長淵剛さんが嫌いな訳ではないのです。

とても素敵な歌をお作りになられますミュージシャンで、とても魅力のある人だと思うのです。

逆に長渕剛さんも、別におっさんが嫌いということではないと思うのです。

いえ、その前に、長渕剛さんは恐らくおっさんのことを知らないのではないかと思うのです。

おっさんは、迷惑な人でない限り誰とでも仲良くやって行きたいと考えておりますし、

別に長渕剛さんを批判しようだとか、中傷しようだとか、

そんなことは考えたこともないのでありまして、


ところがですね、

どうもおっさんと長渕さんとは、

余り馬が合わないのですね。

先日、おっさんが、

「蝉は愛の実践のために鳴いているのだ」と主張しましたら、

長渕さんは、「蝉はちくしょうと鳴いているのだ」と主張し、

どうにもこうにもかみ合わないのでございます。


おっさんは思うのです。

蝉がちくしょうと鳴いている、と感じるその気持ちは分からないでもないのです。

若い頃の一時期に、そのような感性を、若者なら誰だって持ちますでしょう。

盗んだバイクで走り出したって良いじゃありませんか。

(あ、これは尾崎豊さんですか。)

その気持ちも、分かないこともないのです。


でもさ、少年院に入ってしまいますともう人生どうしようもない。

汚点を背負って生きなくてはいけないのですし、

バイクを盗んで走り出すよりもね、

バイクを盗んで走り出したくなる気持ちを正々堂々と主張して、

逃げたり、弱いものを苛めるのではなくて、強いものに向かって行く、

おっさんはそっちの方がかっこいいと思いますし、

そういった人間の方が好きなのです。


ちゃんと免許を取って、大型のバイクを汗水流して働いたお金で買って、

それを乗り回している人の方が素敵だなって思うのです。

排気量の少ないバイクを盗んで一時感情に任せて走り回っても、

それは自己満足にしかならないのです。


ですから、おっさんは、

若い人にはそういった人間になって貰いたいと思うのです。


ところが、世の中、ルパンがかっこいいって仰られます方が多いのです。

おっさんにはどう考えても銭形のとっつあんの方がかっこいいのです。

ですから、おっさんは「ルパン」は見ないのですけど、


でもね、長渕剛さんは好きですよ。

願わくば、長渕さんにも、

余りおっさんを嫌わないで欲しいと思うのですけど、

恐らくそれは、自意識過剰というものなのでしょう。(爆)

まあ、TSUTAYA DISCUSでDVDでも取り寄せてみようかと思います。

でも、彼、おっさんより年上なんじゃないかなあ。

お若いですね。



盆休みと震災



さて、明日からお盆でございます。

月遅れ盆、ですね。

毎年、お盆の頃になりますと、大きな震災が起こります。

お盆と、年明けに多いのですね。

お盆の頃の震災は、雨が沢山降りました時、或いは豪雨地帯で

年明けの震災は雪の多かった年、或いは豪雪地帯で

発生しておりますように感じます。

雪雨と震災には因果関係があるのではないかな?

と感じるのですけど、何か?


四国では阿波踊りやよさこい祭り一色でございまして、

おっさんもちょいとねじりはちまきして、

ひょっとこのお面なんぞを被りまして、

下唇と鼻の間に爪楊枝を挟みまして、

(あ、これは違うか。)

ちょっと踊ってこようかしらん?などと思うのですけど、

困ったことに色々と問題がありまして、

まあ、家ん中で一人で踊るしか仕方がないのでございます。


震災に遭われました方は御可哀相でございますね。

早く行政の暖かく手厚い救いの手が差し伸べられますことを願うばかりでございますが、

心よりお悔やみ申し上げます。

でもね、まあ、心は明るく楽しく、

阿波踊りによさこい踊り、

踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損♪

とね、心軽やかにお過ごし下さいましたらと思うのです。

悪いことがありましたらまた必ず良いこともあるのです。

それに、楽しくしておりました方が上手く行くのです。

そうでなくては何のための神でありますことか知れませんしね。

慈悲の塊であります神霊が放って置かれますはずがないのです。


ここにね、必ず上手く行く魔法の言葉がございます。

良いですか?一度しか云いませんよ。

その言葉はね、


OK牧場!



末法、宗教の真実



日本の宗教は、殆ど全てが他力本願でございます。

でもって、盲目でございます。

人を救う目的の宗教が盲目で、神仏任せ。

「日蓮さんが云ったから、」とか、

その根拠となるものが何もなくて、

教えもなくて、

信者は仲良し倶楽部に入会するために多額の寄付を支払って、また仏壇を買い、

そのお金で教祖はローマ法王やあちらこちらの大学に巨額の寄付をして称号や地位を買い、

世界各国に大きな宗教施設を作って、


でもね、そこに高橋信次と仰られます方が現れまして、

全ての真実を解き明かして下さった。

それが30年程前の出来事でございます。


その所為で宗教界の様子はがらりと変わりましたね。

まずCという女性が現れて高橋信次先生のものまねを始めましたね。

Jという団体を立ち上げまして、それが後にP研究所なんて名称に変わりました。

S軍団とマスコミから騒がれたこともありましたね。

でもね、彼女は悪魔に利用されただけだったのですね。

私でさえ見抜ける程度の低い魔の言葉を鵜呑みにして、

その魔の言葉と地獄の波動を振り撒いただけだったのです。

まあ、その女性も数年前に亡くなりましたけど、


また、彼女と並行してKのO氏がまた高橋信次先生のものまねを始めましたね。

でも、世俗的な意識しか持たないものですから、彼の書物には全く光がないのです。


多くの宗教団体は相変わらず埃を被ったような教義で盲目な人を迷わせるようなことをやっておりますし、


高橋信次先生の解き明かして下さいました法は、真実は、

どこに行ってしまったのかと思うのですね。

それに最近は人類に神理を受け入れる心の素直さがなくなって来たと感じるのです。

目新しい考え方に扇動されてしまうのですね。

悲しいことです。

それにね、危険なことだと思うのです。

人類は一体どうなってしまったのだろうかと思うのです。



愛の反対、マザーテレサの言葉



マザーテレサさんはね、このように仰られました。

「愛の反対は憎しみではなく無関心です。」

ってね。

そうしてその言葉を鵜呑みにしてしまい、

本質を見抜くこともせずにその間違った観念で人に教え諭そうとしておりますような人がね、

インターネットの世界にはどうも沢山いらっしゃるようで、

困ったことだと感じております。


いいですか?

マザーテレサさんはこのように仰られたのです。

「憎しみも感心があってのことなのですから、」

ってね。

そうして関心という観点で愛の反対の絶対値を取って、

愛の反対を無関心としたのです。

勿論、マザーテレサさんにも、愛の反対は憎しみであるという認識があって、

その上に立っての発言でありますことは間違いないと思いますよ。

そうしてね、

たとえ憎しみであっても、関心を持って下さることにより、

将来的にはその憎しみがそれぞれの神性によって愛や慈悲に変わって行くだろう、と、

そこまで考えての発言ではなかったかと思うのです。


皆様、よおーく考えて下さいませ。

そして是非、本質を見抜けるようになって下さいませ。

愛の反対が無関心でありますわけがないでしょう?

そうして、マザーテレサさんが、本気でそのようにお考えになられておりましたわけがないでしょう?

でもって、その拙い判断力で人を闇に迷わすようなことは絶対に止めて下さいませ。

そうしませんと間違いなく無間地獄に落ちるのですから。

お気を付け下さいませ。



社会が求める人材



今は本当に厳しい時代でございまして、

たとえば企業でありましても、戦力となる人材を求めておりますようで、

そのような中で、

「何でもしますから、あなたの下で働かせて下さい。」

と、これではダメなのでありまして、

自ら行動し、自ら責任を持って行動できる人材、

たとえばね、

「あの、ちょっとこの履歴書見て下さい。どうですか?凄いでしょ?

おたくの会社を少し儲けさせてあげようと思って応募したのですけど、

勿論、お宅の会社を私も利用させて稼がせて貰いますけど、

採用しないと損することになりますよ。どうしますか?」

ってね、

まあ、これを云ってしまいますといけませんけど、

これくらいの意識のあります人でないとね、

どこも採用して下さらないのではないかなと思うのです。

「あ、私の経験は凄いですよ。」

ってね、自身の生き様、武勇伝を話して差し上げるとかね、

勿論、それだけの中身のある頑張りはしておりませんといけませんけど、

転職するにも、求職するにも、

助けて欲しい、といったような甘えがありましては、難しいのですね。

ですから、人生力一杯に頑張っておりませんと、

起業するとか、商売を始めるとかと同じ意気込みで前向きに臨んで下さいませんと

いけませんね。

20代、30代は多少甘えがありましてもいいのかも知れませんけど、

40代となりますとそうもいかない。

ですからね、

常日頃から得意分野を伸ばしておかれますこと、

時間がありましたら勉強勉強、とね、

色んな本を読んで、色んなことをやってみて、

楽しみながらやってみて生きた経験を増やしておかれますことでしょうね。

時代は進んでおりますしね、

何年も前の古い知識がありましても、最新の技術を知っておかなくてはいけませんね。


まあ、たとえばおっさんが求職活動するとしまして、

おっさんが神理とかの知識をひけらかしたところで、

まあ、企業の面接官は胡散臭がるだけだとは思いますけどね。

ほんまに厳しい時代でございます。

財津一郎さんなどはきっと、

「非常に、きびしー」って仰られますでしょうね。



夢の続き



さて、昨日は妖怪コンコンおじさんに起こされたおっさんです。

それからまた眠りに付きまして、

蜂蜜フォンデュなるものが登場しました。

えーっとね、

蜂蜜の中にケーキをどばぁーっと浸けまして食べるのですね。

美味しそうですね。


イチゴとチョコと蜂蜜、

これはスゥイーツ界の三大巨匠なのでありまして、

次にバニラとか、栗とか、あんことか、バナナとかが続くのでございます。

まあ、新し目のところでは、チーズでしょうね。


と、そのようなことを夢の中で考えておりますと、

ふいに、「言葉探しは良いかも知れんね」と閃きましてね、

調和の言葉を捜すのです。

建設、協調、勤勉、博愛、誠実、和睦、思い遣り、尊重、

とね、そのような調和の言葉を捜しておりますとね、

人は誰でもそういった前向きな意識を持つようになると思うのです。

昨夜は寝ながらおっさんはそんなことを考えておりました。


蜂蜜フォンデュ、

それから、調和の言葉探し、

良いと思いますよ。

是非、試してみて下さいませ。



集団的自衛権



今朝は朝からルータにハブを繋いで遊んでおりましたおっさんです。

お陰で、最大7台まで、パソコンをネットに接続できる環境が整いました。

もちろん、7台もパソコンをネットに繋ぐようなことは今のところ有り得ないことなのですけど、

将来的にパソコンをずらっと並べてネットに繋げてみたいな、

なんて密かな野望を持っておりますおっさんでございます。


さて、テレビでは集団的自衛権などといった問題が取り上げられておりまして、

憲法9条を改正するだのと、どうしようもなくくだらない議論がなされているような次第でございまして、


おっさんは思うのです。

素晴らしい日本の平和憲法は絶対に変えたらいかんぜよ。

世界の見本とならなくてはいかんぜよ。

とね。

それにね、もう一国の損得や利害で国家を運営するような時代ではないと思うのです。

世界規模で平和を考えていかんといけないのです。

世界的視野に立った国連が国連軍を有し、

中立公平な立場で世界各国を監視して下さるのなら、

その機能が正しく機能するのなら、

もうどこかの国が軍隊を持つ必要はないのです。

武器だって必要ではないのです。

ただ、国連に積極的に参加して、世界平和に協力する、

そうして各国が軍事費や人材をを国連に回しますと、

国連もどんなに有意義な活動ができることか知れません。


そうしてね、世界がひとつの国家のようになりましたら、

それは素晴らしいことではないかな、とおっさんは思うのです。

ではでは。







八月に入りまして、早5日ばかり過ぎました。

あと二日もしますと立秋でございまして、

暦の上では秋でございます。

それでも蝉は一生懸命に鳴き、短い命を終えて参ります。

ですから道を歩いておりますと、沢山の蝉の亡骸が転がっていたり、

羽をバタつかせて最後の力を振り絞ろうとしておりますような蝉を見かけたりします。

さて、この蝉は何故こんなにも一生懸命に鳴くのでしょうか。

そういいますと、おっさんも色々と思い出すことがございます。


おっさん、昔は薬師丸ひろ子さんが好きだったのです。

若い頃の、彼女がね、本当に好きったのです。

でもおっさんは家族に冷やかされることが分かっておりましたのでね、

そこは隠れ薬師丸ひろ子ファンだったのですけど、

それはもう、松田聖子さんなど足元にも及ばないくらいに好きだったのです。


その、彼女の歌の中にね、

「語り継ぐ愛に」という歌があるのですけど、

火曜サスペンス劇場などで使われておりました歌でね、

おっさんも好きな歌の一つなのですけど、

その歌詞の中にこんなのがございます。

「愛を語り継ぐために皆生まれた。」

そうなのですよ。

神はね、愛そのものなのです。

その愛を地上に広げるために、

愛を語り継ぎ、命を繋ぐために全ての命は生まれているのですね。

そして蝉も、愛の実践のために力一杯に鳴いているのです。

それは間違いなく愛の素晴らしさを全ての命に教えようとする神霊のご配慮なのです。


ところで、愛、の意味はお分かりになられますでしょうか?

生かすエネルギーであり、もっと良くしてあげたいという方向性なのです。

この愛の反対は、憎しみですね。

憎しみはエネルギーを奪うのです。

もっと、悪くさせたいという方向性ですね。


この意味を、勘違いされておられます方は非常に多いようですね。

愛とは、寛容の心である。

愛とは、無償の奉仕、である。

なんてね。

でもね、深いところから見てみて下さいませ。

愛の意味をそのように見誤らせているのは、他ならぬ心の中に潜む魔物なのですよ。

寛容の心、無償の奉仕、はね、愛の意味ではなくて、愛というものの性質を云っているのです。

些細なことだと思われるかも知れませんけどね、

その些細なところに魔の罠があるのです。


皆様、魔物を侮ってはいけませんよ。

少なくとも、生きております人よりは知恵があり、心の中を見抜く力があるのです。

ほんの細かい点で人に真実を見誤らせ、

それを積み重ねて人に間違った考え方を植え付けて洗脳し、

人を暗闇の中に引きずり込むのです。

いわば、そういった戦術のプロ、悪知恵のプロなのです。

そうして想念が曇っている人の心の中に、表面意識の中に、

気付かない間に入り込んでいるのです。


勿論、魔はおっさんの心の中にも入り込みます。

ですから、反省して想念を輝かせて魔を追い出す習慣が必要なのです。

魔が入り込んでおりますと、人生が余り上手く回らなくなります。

入り込まれては反省して追い出し、

追い出しますと今度は守護霊様が護って下さるようになります。

守護霊様は必ず人生が上手く回るように導いて下さいます。

でもね、それを繰り返しておりますおかげで、次第に要領が分かって来る。


おっさんは思うのです。

どなたかの人生が上手く行かない。

それはね、ちょっとしたことが間違っているだけなんです。

ほんのちょっとしたことなんです。

そのちょっとしたことを訂正するだけで、人生はうんと良くなる。

それに気付かせて下さるのは守護霊様でね、

決して魔物ではないのですね。

そうして、魔物は決して愛の心に打ち勝つことはできないのです。



悲しい恋のお話



以前もどこかで書かせて戴いたのですけど、

おっさんの好きなお話ですから、また想い出して書かせて戴こうと思います。

あのね、

りゃんりゃんちゃんはひとし君が大好きなのですね。

馴れ初めはね、りゃんりゃんちゃんがお友達ととあるオープンテラスで食事をしていた時なのですけど、

下着姿にブレザーを羽織っただけの40代位のおじさんが寄って来ましてね、

ブレザーをさっと開いてみせたのです。

痴漢みたいにね。

でも、痴漢じゃなかったのですね。

ブレザーの内側には、フォークとか、スプーンとか、調味料とかが沢山入っておりましてね、

無言ながらもそれが好意であることがりゃんりゃんちゃんに伝わったのですね。

で、何も借りないのは悪いと思って、調味料を借りたのです。

それがねひとし君だったのです。

そこからりゃんりゃんちゃんとひとし君のお付き合いが始まりましてね、


ある日、りゃんりゃんちゃんとひとし君がりゃんりゃんちゃんの家で遊んでおりますとね、

そこにパパが入ってきましてね、

誤解したのですね。

何故なら、ひとし君はいつも下着姿だから。

それでりゃんりゃんちゃんのパパはひとし君に怒ったのです。


そのことで、りゃんりゃんちゃんはりゃんりゃんちゃんのパパを責めましたね。

りゃんりゃんちゃんのパパはりゃんりゃんちゃんに謝るのだけど、

りゃんりゃんちゃんは絶対にパパを赦さないのですね。


そんなある日、ひとし君からりゃんりゃんちゃんに手紙が届きましてね、

そこにはこう書かれていたのです。

「りゃんりゃんちゃんのパパが怒るのでもう遊びません。

あたたかい所に行って働きます。」

ってね。

りゃんりゃんちゃんは泣きましたね。

ひとし君がどこか南の遠いところに行ってしまったのだと思ったのですね。


でも、ひとし君は近くの銭湯で掃除のアルバイトをしていただけだったのです。


どうでしょう?

悲しい恋のお話でしょ?

これは少年あしべという漫画にあったお話なのですけど、

とても美しい恋物語ではないかと思うのです。

おっさんはこのお話が大好きなのです。

で、またどこかで書かせて戴こうと思うのです。(笑)



古神道、いにしえの命観



古神道では、神社は母体であると考えられております。

参道(産道)を通って命の原点に戻り、

己をこの世に送り出して下さった神霊と今一度、向き合う。

この儀式を行うための場所として、神社というものが生まれたのですね。

そうして鳥居を一歩出たところから、新しい命が始まるのです。

ですからこれは、再生の儀式ですね。


己を生んで下さいましたこの神霊を、直霊(なおひ)の大神といいましてね、

この直霊の大神が御魂をお分けして下さいましたから、今己が生きてここにいるのだ、

だから、己の胸の中に直霊の神が宿っているのだ、

古代の人はそこまで悟っていたのですね。


合掌しましてね、

この直霊に意識を向けますと、次第に正しく真っ直ぐに生きようとする意識が生じて参ります。

要はこれ、チャクラの働きなのですけど、

ただ、心の中に神霊の意識があるという事実を踏まえますと、

直霊といいますものも、間違いではないのです。


三種の神器にしましても、

この直霊にしましても、

再生の儀式にしましても、

古代の人の意識が現代人と比べてどれほど高かったか、

本当にそれが彷彿とさせられますね。



笑い



笑い方、にも色々とあるのでございまして、

大まかに分類しますと、

は行の笑い、

ひ行の笑い、

ふ行の笑い、

へ行の笑い、

ほ行の笑い、

とございますね。


は行の笑い方は、

あはは、とか

ハッハッハッ、とかね。

助さんや、角さんや、では参ろうか、ハーッハッハッ、

と、これは黄門様の笑い方ですけど、大らかで気持ちのいいものでございますね。


ひ行の笑い、

これは

ヒヒヒヒ、とか、

イヒヒ、とか、

ヒッヒッヒッ、とか、

これは心の内に何やら悪事を秘めているような笑い方ですね。

笑うセールスマン、とか、

越後屋、お主も悪よのう。いえお代官様こそ。イーッヒッヒッヒッ。

といった状況で使われます笑い方ですね。


ふ行は、

うふふふ、

ふっふっふっ、

ブフー、

何やら胸の内に秘密があって、それが面白くて堪えきれなくなって吹き出してしまうような、

そのような笑い方ですね。

あんたも好きねえ、うふふ、とかね。

誰にも言ったらダメだじょ、ブフー。

って感じですね。


へ行の笑いは、

えへへ、

えへえへえへえへ

えへらえへらえへら、

と、少し変態が入って参りますね。

はにかみが入っていると云いますか、

今日は、帰りにNちゃんといい所に行くんだじょ、えへへ。

宿題忘れて来ちゃった、えへらえへら。

なんて感じですね。


ほ行の笑いは、

おほほ、

おーほっほっほっ、

って感じで、上流階級のお上品さを意識しているといいますか、

あーら、宅のお坊ちゃまは一流企業に勤めておりますのよ、おーほっほっほっ。

この指輪、ん千万円ざますのよ。おほほ。

とか使われますね。


他には、某有名人で、

クェークェークェー、って引き笑いする人もおりまして、

この笑い方には驚いてしまうのですけど、

窒息するんじゃないかって心配にもなって来るのですけど、


あ、ケラケラ、キャッキャッ、といったような笑い方もありますね。

まあ、これは声が高くて、

ヘラヘラ、アハハ、がそのように聞こえるだけなのでしょうけど、


でもそうのように考えて参りますとね、

心の中のことが笑い方にも現れて来るのだといいますことが、

良く分かりますね。

心の中が快晴で晴れ渡っておりますと、

アーハッハッハッ、ってね、

高らかな気持ちのいい笑い声になるのだと思います。

変態が入っていたり、

悪事を隠していたり、

秘密があったりしますと、

それが、えへへ、いひひ、うふふ、に変化して来るのですね。


面白いものだと思います。



人と人との距離



人と人との間には心地良いキョリといいますものがございまして、

これは物理的空間にも、心理的空間にも、適切なキョリを保っておきませんと、

これはえらいことになるのでございます。


たとえ恋人同士でありましても、密接するのはたまにで良いのでありまして、

普段は適度な距離を保ち、互いのプライバシーを尊重するといったことが必要になって参ります。

ズケズケモノを云い、

相手の心の中に土足で踏み込み、

恋人なんだから何をしてもいいだろうとプライバシーそっちのけで、

携帯を盗み見したり、執拗に電話を掛けるなどして束縛(拘束)して、

と、そのようなことをしておりますと必ずその関係は破綻してしまうのでございます。


これはね、家族でも、友人関係でありましても同じなのでありまして、

もし、その適度なキョリが不安を生じるというのでありましたら、

恐らくは、信頼することができていなかったり、

それが理由で心で繋がっているという安心感が欠けているのでありまして、

互いに膝を突き合わせてジックリ話し合ってみることが必要のように感じるのです。


ところがね、このキョリを必要以上に縮めて来ようとする人はいるのですね。

何故、キョリを縮めて来るのか、

それは勿論、何らかの欲心や悪巧みがあるからでございまして、

その人は充分に注意しなくてはいけないのでございます。


社会に及ぼす影響もね、

利を求める者同士が癒着しますと汚職となり、

或いはエコ贔屓が生じ、

力のある者同士が癒着しますと独裁や独占が生じ、

社会に歪みと不公平を生じますからね。

それにね、やはり近付き過ぎは余り気持ちの良いものではありませんね。


これは政党だってそうですし、

企業同士だってそうでありましょう。

暴のつく家業の方だってそうですね。

まあ、暴のつく家業の方がキョリを縮めてこられますともう目も当てられなくなりますけど、


正しい距離を保ち、

互いに客観的な視点でお互いを正しく見て、

同意できるところは同意し、

間違ったところは訂正し合い、

なあなあの関係ではなくお互いを高め合える関係、

そういった対等な関係こそが尊重するということであり、

味方となり、親友となり、ライバルと成り得るのではあるまいか、

素晴らしい人間関係を保てるのではあるまいか、

と思うのです。

まあ、強引にキョリを縮めようとする人に近付き過ぎだよとは云い難いものですけどね、

そこは勇気を持って云わなくてはいけないのかなって思いますね。

難しいことですけどね。



一番煎じは一回限り



お茶はね、先っちょの若い芽だけを摘み取りまして、

揉むのですね。

手で揉みましたものが手揉み茶でありまして、

これは非常に高価なものでございます。

一般庶民が口にしますものは、

機械で揉んだものになってしまうのですけど、


それでもね、お茶は美味しいものでございます。

採れたて揉みたては香りも宜しく、

時が経つにつれまして、香りも減って参ります。

香り高く、透き通った味のするお茶が良いですね。

でも、それを色々とブレンドしたりしますと、

どうしても味が濁って来るのですね。


一番煎じ、二番煎じというものもありますね。

一番煎じはほのかに緑色をしておりましてね、香りも良いのです。

でも二番煎じは薄茶色なのですね。

緑色がでるのは一番煎じだけ、

なのですね。


麦茶は、麦を煎るのですね。

麦の甘い香りはこの季節の暑さでだるくなった心身を癒して下さいます。

この季節には、やはり冷たく冷やした麦茶ですね。


まあ、茶のことは余り詳しくはないのですけど、

お茶ってホンと、良いものですよね。


サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ

(淀川長治さんのような終わり方ですんません。)



心の奥底から



名言、といいますものがございます。

この世界には、沢山ございます。

以前、ある若手のお笑い芸人が亡くなりまして、

一人の部屋でこっそりと死んでいたのですね。

その時にある大物芸人の、

「こいつ、最後に世界一のボケかまして死んでいきよった。」

という言葉が、心の中に残っております。

名言ですね。

素晴らしい名言です。

この若手のお笑い芸人も、

芸人冥利に尽きるというものですね。


人は、命を失いますと心の中の奥深い世界に帰って参ります。

大神霊の慈悲の光の射す方向へ、

神様のお膝元へ、

帰って行くのですね。

そうして、その世界からこちらの世界の事象を眺めますと、

どうしてそのような現象が生じるのかは一目瞭然、なのですね。

現象の生じる根源の世界から事象を眺めるのですから、

それは誰でありましても、100%の覚醒した意識で見通すことができるのです。

こちらの世界では10%程度しか認識できないのに、

あちらの世界からは100%認識できてしまうのです。


偶然か、必然か、

こちらの世界では、そのような論議がなされますこともありますでしょうけど、

実は全て必然なのですね。

そうして、例えば乱数が生じるのにも深い理の由があるわけでございます。

偶然のように見えることでも、深い深い意味があったりするわけでございます。


心で事象を眺めてみる。

そうして頭で考えるのではなくて、心で事象を捉えてみる。

そうしますとね、少しは視野が開けるのです。


ところでね、話は変わりますけど、

心って、どれくらい大きいか皆様はお分かりになられますでしょうか?


ここにね、大きな米びつがあるとします。

そこにぎっしりとお米が入っているのです。

その大きな米びつはさらに大きな倉庫にうずたかく積み上げられております。

そうしてね、そのような倉庫がだだっ広い平原に沢山並んでいるのです。

その米の倉庫の並んだ平原がとある惑星には沢山ありましてね、

その惑星の属する銀河に同じような惑星が数知れず存在するのです。

そのような銀河が無数に存在しております宇宙がね、

あるとお考え下さい。


米はね、一粒一粒が宇宙なのです。

米びつは四次元世界ですね。

倉庫は、五次元世界です。

米の倉庫の並んだ平原は、六次元世界です。

惑星は、七次元世界ですね。

銀河は、八次元世界です。

そうしてこの宇宙が、九次元世界であり、神霊の意識です。

この広い九次元の世界がね、つまり私たちの心なんです。

心は、それほどに大きいのです。

そうして、そこに無限の魂が存在しているのです。

この魂全てが大神霊を構成する細胞なのです。


それを考えますとね、

この世界での悩みなんてちっちゃいちっちゃいものだって分かりますね。