神様・守護霊様


不動明王様

不動明王という神様がいらっしゃいます。
菩薩様の中で最も強い神様でございます。
この不動明王様の御真言で火界咒というものがございます。

「のうまく さらば たたぎゃていぎゃく さらば ぼっけいびゃく さらばたたら
た せんだ
 まかろしゃだ けん ぎゃきぎゃき さらば びきんなんうんたらた かんまん」

不動明王様は火焔に包まれて右手に剣を持ち、
牙を剥き出した口をひん曲げて悪を睨み付けております。
この不動明王様になったつもりで御真言を唱えますと
不動明王様のエネルギーを受け取ることができます。
何事にも負けぬ強い意思が生じて参ります。
両手の指を内側に組み人差し指を立て合わせますと、
不動明王様の根本印になります。
この根本印を結び唱えてみて下さい。

じつはこれは願望を叶える御真言でございます。
私はこの御真言は
「自分で願望を成就させる能力」を得るものだと感じております。
是非唱えて戴き、強い人生をお進み下さいますようお願い申し上げます。


守護霊様

守護霊様は過去に地上で生活していた人間の魂でございます。
人間は身体を失いますと魂として天上界での生活を始めます。
(そうでない魂も沢山おりますが。)

天上界でね、
生きていた時の人としての在り方を深く反省します。
魂は真心そのものでございますから、本当に深く反省します。
でも、まだまだ弱い魂でございます。
ですから地上に新しく生れた人を守り、御自身の魂の修行も行なうために守護霊にな
られるのです。
(御先祖様が付いて下さる場合もございます。)

でもやはり人の魂でございますから、挫けることもございます。
守っている人の心が正しくなければ、嫌になり離れてしまいます。
その人の心の曇りが酷ければ、守ることもできなくなります。
守護霊様自身の心が曇ってしまうこともございます。
地上はやはり厳しい世界ですから、使命を忘れてしまわれることもあるのでしょう
ね。
守護霊様は直接意識を与えることで意思を伝達します。
(特別な使命のある方には別のはっきりした形でもコンタクトを取ります。)
ですから、悪いことをすれば自責の念が生じます。
守護霊様が教えて下さるのです。
悪いことを平気で行なえる人にはきっと守護霊様は付いていらっしゃらないのでしょ
う。

正しい心を持ち努力されておりますと、守護霊様に愛され
心に思った願望を守護霊様が聞いて下さり、叶えて下さるようになります。
守護霊様も頑張って下さいます。


神の喜びと悲しみ

新しく生まれた魂に神の意識が宿り、
神のおられる方向へ歩き出しますと神は喜んで下さいます。
ですが、悪の意識が芽生え神に背を向けてしまいますと、
神の悲しみはどれほどのものなのでしょうか。
美しい心を持つ故に、
喜びも、悲しみも一際深く大きいものでございます。

神が喜んで下さり、
「よかったね、頑張ったね」って言って下さいますとね、
感動で涙が溢れ出します。
どのような方でもそうなります。
心が洗われたように爽やかな心持ちになるんです。

神はね、
猫の子一匹、犬の子一匹の悲しみにも、
ご自身のことのように共感なされます。
これだけ深い愛情をお持ちなのですから、
悪の意識を持ってしまっておられる方も決して見捨てることはございませんよ。

ただね、
正しいものを妨害しようとされますと烈火の如く怒ります。
愛情があるからお叱りになられるんです。


神様の御名前

神様には本名がございます。
とある悪質な宗教団体が建物の名前として使っていたクシティガルバ、
これは地蔵菩薩様の御名前でございます。
地蔵菩薩様はね、実は国常立尊(くにとこたちのみこと)様なんですよ。
古事記では一番最初に登場する神様です。

私達が親しくさせて戴いている神様では、観音様もそのお一方ですね。
聖観音(しょうかんのん)様 アリャーバ ロキテスバーラ様
という御名前でございます。


地獄

地獄の閻魔様はイェーマ様という御名前です。
閻魔王(イェーマラージャ)とも呼ばれております。
悟りを開き自ら望んで地獄に入られました。
罪深き亡者に天の意識を持たせるためでございます。

心に人を傷つけるトゲを持った亡者は針の山に登らせます。
怒りや憎しみ、恨みの念を燃え上がらせている亡者は釜茹でにされます。
肉欲に溺れる亡者は血の池地獄に溺れさせます。
誰とも仲良くせず自己中心に振舞う亡者は誰もいない孤独な世界に置き去りにされま
す。
各々の罪を悟らせる最適な方法で罰を与えます。
亡者はその厳しい環境で自ら誤りを正さなければなりません。


悪夢

恐い夢を見ました。
夢の中で眠っておりますと、鋭い剣が床の下から突き刺さるんです。
幾度も繰り返し、私が寝ている場所の周りを突き刺すんです。
それが今度は壁から、
私の姿が壁の向こうから見えているように、
私のいる場所の近くを突いて来るんです。
逃げても逃げても剣が追い掛けて来るんです。

いや、命ぐらい取られても別に構わないのですが、
相当恐ろしい雰囲気がございまして、
顔面蒼白で心臓の鼓動は鳴りっぱなしでございました。

起きて考えますとね、
あの剣は不動明王様がお持ちになっている利剣でございました。
近頃お前はさぼりすぎる。
ぐうたら寝こけているばかりでちっとも成長せん。
というお叱りであったように思います。

真に有り難く申し訳のないことでございます。
精進しなくてはなりませんね。


守護霊様

昔の友人でね、
お顔の彫りの深い、外国人のようなお顔立ちの人がおりました。
純粋な日本人なんですけど、異国情緒溢れるお顔立ちなんです。
ある時、宴会でその友人が呑み過ぎましてね、
意識をなくしてしまわれたんです。
意識がないのに、「OK、OK」って仰っておられるんですね。

急性のアルコール中毒で脳が麻痺しているんですね。
恐らく彼の守護霊さんは外国人で、
彼の生命を守るために身体の中に入って下さっているんですね。
それで周りの人を安心させるために、
大丈夫、大丈夫と言っているんです。

意識が催眠によって生前までさかのぼりますと身体の活動が停止する恐れがありま
す。
それを防ぐために守護霊様が代りに身体に入って話しをなされるんですね。
もしかしますと、守護霊様も催眠に掛かるのかも知れませんね。


石畳の道

私が子供の頃にはね、
まだあちらこちらに石畳の道がございました。
路地裏などに入ってみますと石畳が敷かれていたりしまして、
濃紺が砂埃をかぶって灰色っぽくなっているアスファルトよりもね、
心が和らげると云いますか、
何だか落ち付くような、
気分が軽くなるような感じがしたものでございます。

神戸の海岸の近くの通りなども、
昔は石畳があったように記憶しております。
でも今は殆どがアスファルトに変わってしまっているんですね。
寂しいような気がします。

京都にはまだ石畳の道が残っているようですね。
歴史の町でございますからね。

少し前にテレビコマーシャルで、
「丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条・・・」
(まるたけえびすにおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき、
しあやぶったかまつまんごじょう)
というようなわらべ歌が使われておりました。
京都市の北から南へ、
通りの名前の頭を取って並べただけのものでございますけれども、

昔は、石畳の情緒豊かな道でございましたので、
わらべ歌にして唄い伝えられて歴史に残っているのでございましょう。
これがアスファルトの道でしたら、
誰も歌にして残そうなどとは考えなかったのではないかと思います。
そうして、
人はこの歌を唄いながら蛸薬師様を御参詣したり、
魚の棚に魚を買いに行ったりしていたのでございましょう。

まあ、私の推測にしか過ぎませんが。

蛸薬師様はね、
修行僧が病気の母のために蛸を買って来たんですね。
壷に蛸を隠してお堂に帰ろうとしますと、
人々が蛸の生臭い臭いを嗅ぎ取りまして、
「おい、生臭坊主!ちょっとその壷の中を見せてみろ」
と強引にその壷の蓋を取ろうとするんです。
修行僧が薬師如来様に助けを求めますと、
蛸が有難い経典に変わっていたという言い伝えでございます。

だから蛸薬師様なんですね。
きっと御母様の御病気も良くなられたことでございましょう。


御釈迦様

御釈迦様が慈しみの心の大切さにお気付きになられましたのはね、
長い修行の旅の途中でございました。
食べるものも食べずに、
誰にも負けない厳しい修行のために、
目は落ち窪み、頬は痩せこけ、
身体は骨川筋衛門だったようでございます。
それでも心は安らぐどころか、
ますます暗く沈んで行くんですね。

村の娘さんがね、
山羊の乳を差し出しまして、
これで栄養を付けて下さいと申し上げまして、

御釈迦様はね、
それが慈しみの心であること、
今の自分に取って、それがどれだけ有難い思い遣りであるか、
厳しい修行でも悟れなかったものを、
この娘さんが教えて下さったんだ。
ということを理解しまして、
厳しい修行をしても何にもならないことを思い知らされたんです。

山羊の乳を戴いた後は厳しい修行も止めまして、
心安らかに過去を反省する毎日でございました。
間も無く菩提樹の下で悟りを得られたんですね。


達磨様

10月5日は達磨様の命日でございました。

達磨様はボーデイ・ダルマ様という御名前でございます。
この方も御釈迦様と同じく南インドのとある国の王子様でございました。
少林寺で9年間壁に向って座禅を組み続けまして、
ようやく悟りを開かれました。

七転び八起き、
失敗してもまた何度でもやり直せば良い。
そのような教えが達磨人形の御姿になり残っておりますね。
石の上にも三年などといった教えもございますが、

達磨様の強い御意志でございますね。
「諦めるな!」という厳しくも暖かい達磨様の愛でございますね。


地蔵菩薩

お地蔵様はね、神様方の中で一番慈悲深い神様でございます。
右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っておりまして、
この錫杖で地獄の囚人を救い上げるんですね。
そうしまして無言で先に立って歩いて下さる。
人の歩むべき道を教えて下さるんです。

地蔵和賛(じぞうわさん)という物語りがございます。
一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、
というフレーズで有名でございますが、

親を残して早死にした幼子が、
父母の居ぬ淋しさや例えようもない不安に慄きながら、
父母に会いたい余りに泣きじゃくりながら、
父母、兄弟の心の平穏と幸せを願いまして、
賽の河原で石を積む物語りでございます。

地獄の鬼が現れましてね、
子の生前の我侭を責め、親の不甲斐なさを責めまして、
折角積み上げました石を足蹴にして崩して行くんです。

そこにお地蔵様が現れまして、
地蔵様がその子の親代わりになり、救い上げるというお話でございます。

辛く悲しい物語りでございますが、お地蔵様の御登場に安堵しまして、
有り難さに涙がこぼれて参ります。
子供にもお優しくて、
本当に慈悲深い神様でございますね。

「帰命頂礼地蔵尊、これはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる、
賽の河原の物語り、聞くにつけても哀れなり。」
「哀れなるかな幼子が、立ち回るにも拝むにも、ただ父恋し母恋し、恋し恋しと泣く
声は、
この世の声とはこと変り、悲しさ哀れさ骨も身も、砕けて通るばかりなり。」

(親の声)
「残せし着物を見ては泣き、手遊び見ては思い出し、たっしゃな子供を見るにつけ、
なぜに我が子は死んだかと、嘆き悲しむ哀れさよ。」

「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母様と、さま幼(いとけ)なる手を合わ
せ、
礼拝回向ぞしおらしや、みっつ積んでは故里の、兄弟が身と回向する。」

(鬼の声)
「やい、子供、汝等は何をする、娑婆と思いて甘えるか、
汝等の父母は供養はすれど、ただ明け暮れに嘆くばかり、
親の嘆きは汝等が苦患を受くる種となる。
汝等罪なく思うかや、母の母乳が出ないとき、お前は泣く泣く無理を云い」

「峰の嵐を吹くときは、父が呼びしと起き上がり、
水の流れを聞くときは、母が呼ぶかと馳せ下り、
辺りを見れども母もなし、父を呼べども父も来ず、母を呼べども母とても、
知らぬが死出の山路なり、この苦しみを如何にせん、
こけつ転びつ憧れて、会いたや見たや恋しやと、もだえ嘆くぞ哀れなり。」


そう云いましたら、田植地蔵などという昔話もございました。

父と幼い娘の二人暮しでございましたが、
御父様が病の床に臥せりまして田植ができない。
貧しさ故に田植ができなければ食べて行くこともできません。

信心深い娘様が地蔵様に拝みましたところ、
次の日には田に水が張られ、苗が植え付けられていたんですね。
娘様が慌ててお地蔵様のもとに掛けつけますとね、
お地蔵様の下半身が泥だらけになっていたそうでございます。

本当に、無言で先に立って歩いて下さる、慈悲深い神様でございます。
でもね、本当は地蔵様は慈悲を備えた閻魔様のもうひとつのお姿であったりします。


阿弥陀如来

阿弥陀様のことをお話しさせて戴きますね。

お釈迦様が法を説いておられます時に、
御弟子様の中にサーリプットラさんとアーナンダさんという御名前の方がいらっしゃ
いました。
サーリプットラさんは知恵に優れ、またアーナンダさんは理解力に優れておりまし
た。

お釈迦様がこの二人を呼びまして、こう仰られました。
「アーナンダよ、あなたはすぐに私を頼るが、私が死んだら一体どうするつもりなん
だね。
大自然に存在する法(真理)、万人の心の中に存在する法、
あなたがたはこれを燈明にして生きていかなければならない。
サーリプットラよ、この法はすなわちアミタ(知恵と慈悲)であるぞ。
この法は永遠に輝き、宇宙の遥か彼方まで照らし出すものです。」
とね。

さて御釈迦様が御入滅なされまして、
御弟子様方はこのアミタを永遠に忘れないためにそれを仏の姿に彫り上げまして、
アミタの象徴としておりました。
これがその阿弥陀様なんですね。


信仰

キリスト様がね、
こんなことを仰っておられました。
「ほんの芥子だね程の信仰があれば山を動かすことだってできる。」
ってね。

キリスト様の御弟子様のお一人がね、
聖書が手元になく詳細も覚えてはおりませんが、
キリスト様を通して神様を信仰していらっしゃいましたからね、
キリスト様が海の上にお立ちになられ、
「ここまで海の上を渡っていらっしゃい。」て仰られた時に、
易々とその海の上に立って歩くことができたんです。

でもね、
突然不安になられて神様を疑っちゃった。
そうしたら海の中に落っこちちゃったんです。

皆様は神様の存在を確信していらっしゃいますでしょうか?

私にも神様は見えませんが、
神様の存在を疑うようなことは決してありません。
神様に様々なことをお話しし、お願いを聞いて戴いております。
そうしましたら本当に不思議な現象が起こったりします。

神様のお心をお教え下さいとお願いしましてね、
先ほど易占いをしてみたんです。
地天泰(ちてんたい)という卦が出ました。
天地が強く交わっているという卦ですね。
大吉です。

あなたは神様を信じていらっしゃいますか?
なんてね、
道を歩いておりましたらよく声を掛けられますけど、

神様は間違い無くいらっしゃるんです。
信じる信じないのレベルではないんですね。

皆様、信仰して無駄なことは絶対にありませんよ。
宗教に入信することが信仰だと思っている人もいらっしゃるかも知れませんが、
皆様の心の内にいらっしゃられる神様、
皆様のすぐ身近にいらっしゃられる神様、
そんな神様方を生活の中に取り入れること、
それが本当の信仰というものではないかと思います。

宗教に入ることで信仰から離れてしまわれるケースも多いようでございます。

神様に感謝申し上げ、お願い申し上げ、
神様がいて下さるから一際強い力が出る。
そんな生活をしておりますとね、
病気も、困難も、艱難辛苦なんて簡単に乗り越えられるのではないかと思えて参りま
す。


目病み地蔵

京都には眼を患ったお地蔵様がいらっしゃいましてね、

京都の鴨川は昔から洪水が何度もございまして、
沢山の方が水害の被害に遭われました。

今年も水害は沢山ございましたが、
昔はより被害が大きく復旧に要する人も手間も大きかったのではないかと思います。

それでね、洪水の時に雨を止ませて戴くためにね、
「雨やみ地蔵」として御祀りされたものでございました。

宗円さんと仰る信心深い御老人がいらっしゃいましてね、
眼病を患い、片眼の視力を失っておりました。

ある時このお地蔵様が宗円さんの夢枕にお立ちになられまして、
この寺に湧く阿伽水で眼を洗いなさいと仰られたそうですね。
でね、その通りにしましたら眼病がすっかり治っちゃった。
その代わりにお地蔵様の片眼が濁っちゃったんです。

本当に有った話しでございますよ。

それでね、このお地蔵様はね、
「雨やみ地蔵」の「あ」が取れて「めやみ地蔵」と呼ばれているそうでございます。

信心が無駄になることなんて絶対にありませんね。
もちろん信仰の対象は神様或いは真理・大自然といったものでなくてはなりません
よ。
幾ら生き神様と呼ばれているような人でありましてもね、
教祖様といったような人でありましてもね、
世俗に塗れ生きている人間を信仰の対象にましても何の御利益もありませんからね。