心の話題


貧しい心

貧しい心の正体についてお話したいと思います。

皆さんは毎日の食事がどれだけ多くの人の努力によってもたらされたものか知ってい
ますか?
自然の恵みの素晴らしさを知っていますか?
例えば一度の食事が大根一本だったとします。
おそらく殆どの人が不平を云うでしょう。
いきなり顔つきに陰りが現れ、もっと食べたいと不満を漏らすでしょう。
確かに栄養価は低いかも知れません。
でもね、大根一本で2人の大人が満腹になります。
何故、自然の恵みに感謝できないのでしょうか?
今日も食事を戴くことができると感謝できないのでしょうか?

心を忘れた人達。
幸せを忘れた人達。
そして心まで貧しくなってしまったようです。
感謝する心を失い、そして得たものと云えば
精神病や成人病、犯罪、貧困そして社会の崩壊です。

自然の恵みに感謝すること。
先祖に感謝すること。
生きていることに感謝すること。
全てのものに感謝すること。

それだけで幸せが訪れるはずなんですけどね。
感謝の心を持たない人なんて、
神も、先祖も、私でさえも、
力になってあげたいなんて思いませんよ!


縁と云うもの

縁と云うものを信じない方も居られますが、縁は確かに存在します。
親子の縁、先祖の縁、職場の縁、結婚の縁
縁を閉ざすということは、人生を閉じるということに繋がります。
居場所が未だ見つからないという方
縁を大切になさって下さい。
きっと、そこに明るい未来が開けています。

親を大切にすること
先祖を大切にすること
友人を大切にすること
心を大切にすること
愛しみの心を持つこと
優しくあること
感謝の心を持つこと
怒りや恨みを持たぬこと

当たり前のことですが
疎かにされ易いものです。

幸せを見つけること
それは容易いことではありません。
真実を見抜く眼差し
不変の真理を見出そうとする姿勢
それが幸せの第一歩です。
幸せは近くにあるものです。
心安らかに眼を閉じて
真実を見つめて下さい。

幸せへの縁が
きっと見えるはずです。


試練

日本は今、大不況の真っ只中にいます。
中国や韓国の盛況ぶりに比べれば木枯しの吹き荒ぶ凍て付いた真冬のようです。
企業が飽くなき利益追求の精神のもとに分をわきまえず行動した結果です。
不良債権にしてもそうです。
失業者の増加にしてもそうです。
狂牛病問題にしてもそうです。
倒産にしてもそうです。

お金は経済を円滑に行う道具でしかありません。
その道具を最終目的にして行動した結果
多くの人や企業が
感謝し満足することを忘れ
自分さえよければ良いと考え
暴走してしまったのです。
楽しければ良いという考え方も
自己中心のなにものでもありません。

金銭欲にとりつかれ
自らは贅沢を繰り返し
他人には厳しく冷酷で
心を忘れ
愛を忘れ
義を忘れ
その結果
なるべくしてなった不景気です。
見方を変えれば
自ら与えた試練とも云えるでしょう。

今
お遍路さんが急増していると聞きます。
自らの人生を見つめ神仏に救いを求める
その気持ちは痛いほどに分かります。

そうして
この闇が晴れたとき
多くの人が感謝の心を取り戻し
阪神大震災の時のように
助け合いながら
楽しく生活していることを
願って止みません。


偉人たちの言葉

心を正し姿勢を正し謙虚に誠実に生活する
己に厳しく一切の贅沢を慎む
生きていることに感謝し両親や先祖を大切に敬う
人との縁を大切にし礼儀を疎かにしない
毎日反省し行いを改めるよう心がける
子や孫を暖かく見守り良きアドバイスを与える努力を怠らない
弱いものを助け決して暴力を振わない
怒り恨み妬み謗りの感情を持たない
金銭、性、名声などの欲におぼれない

こういったことを守らせるために過去の偉人達は「神」という存在を作り上げまし
た。


繰り返し繰り返す秋の暮れ

食べ物の語源は賜りものでございます
ご飯は「食べる」のではなく「賜る」のです
大自然の恵みに感謝し
必要以上の量は食べず
無駄をせず
良く噛み
楽しく、美味しく戴かなくてはなりません

私達の身体も大自然からお借りしているだけで
時が来れば返さなくてはならないのです
その借り物である身体を
暴飲暴食などによって患わせることなく
傷つけることなく
これもまた感謝の心を持って
大切に使わせて戴かなくてはなりません

それは人間としての努めであり
神に愛されるものでございます


暖かな気持ち

青空、大地、海、光、風、水、樹・・・
私達全ての人がこの大自然より平等に愛を受けております。
博愛とでも云うのでしょうか。
大きな愛で包んで下さっております。
一見、何の役にも立っていないように見えて、
実は生命を守って下さっています。
生命を育んで下さっています。

折々、そういった大自然の暖かな心に触れておりますと
人間の愛が如何に小さなものかを思い知らされます。
好き嫌いでものごとを判断し、
人を避け、退け、特定の人にしか愛を与えない。
これが如何に冷たく頑なな心かと気付かされます。

暖かな心は万人に愛されるものでございます。
皆様、是非暖かな気持ちを大切になさって下さい。


神様の気持ち

時々、悲しくなる時があります。
人は何の為に貴重な命を与えられているのでしょうか。
神様は何の為に存在しておられるのでしょうか。
そういったことにも気付かずに自分達の幸せだけを追い求める。
そんな人が多過ぎるように思います。
皆で仲良くして、調和された美しい社会を建設する為ではないのでしょうか。
そのために神様は力を注いで下さっておられるのではないのでしょうか。
そのご褒美として 幸せな家庭や子孫、穏やかな心、豊かな人生が保証されるのだと
思います。

そのような人は神様に見捨てられるはずがございません。


孤独

私達全ての人の心や身体には暖かい血が流れております。
地球の母体には常に新しい魂が生まれ、育まれております。
大地に、樹に、海に、そして人に生命が鼓動しております。
地球上の人、魂全てが仲間であり、親しき友人でございます。
神は仲良くしろと仰られております。
それはあたかも自分達の子供の兄弟喧嘩をやめさせるかのようです。

他人の幸せを妬み
他人の人生を妨害し
自己の幸せのみを追求し
自己の権利ばかりを主張する
そんな人にはそれが分からないようです。
だから孤独になってしまうのですね。


人の心を揺さぶるもの

情熱は魂の叫びでございます。
ですからそれは人の心を揺さぶります。
本当に強く揺さぶります。
たとえそこに真理がなくとも、
その人にとっての命を掛けての魂の叫びであれば、
神をも、宇宙をも動かします。

自らの心を信じ、自らに信念を持ち、
思いきり魂の叫びをぶつけてみて下さい。
間違いなく、どのような願いでも叶いますでしょう。
命懸けで、
力ずくで、
心から願う願望を叶えて下さい。
聞いたこともない程の大きな魂の叫びを、私に聞かせて下さい。

美しいものも人の心を揺さぶります。
ですから人は美しいものに憧れます。
人は美しいものを手に入れますと、
磨きをかけて大切に扱います。
美しさにも感動を覚えます。
でも暫くしますとその美しさに慣れてしまい、
さらに美しいものを探し始めます。
折角手に入れた美しいものに飽き、
磨きをかけることも止め、
汚れるままに放置してしまいます。

これを欲と言います。
欲は足ることを覚えなければ尽きることがありません。
手に入れたものの美しさを見失わず大切にし、
さらに美しいものを捜し求める。
そして決して手の届かぬものは追い求めない。
それはなんと美しい行為であるかと思います。

そしてまた、
私達の心の中にはとてつもなく美しいものが眠っております。
物質的な美しさは時間の経過とともに劣化しますが、
心の中の美しいものは
磨き続ける限り決して劣化することはございません。


悟りに至る道

悟りって何でしょうか?
以前にもこういったお話をさせて戴いたことがございますね。
何のためにって、
それは全ての人が幸せになるためでございますよ。
それ以外の目的で悟りを得るなんてことはあり得ません。
そのこと自体も宗教と勘違いされる方もいらっしゃいますが、
とんでもない。
宗教や精神世界とは全く違うものでございますよ。

物事の本質を見極め、常に正しい判断を出せる。
苦しんでいる人がおりましたらその鎖を解いて差し上げられる。
正しい道を指し示して差し上げられる。
それが悟りでございます。

真心、
思い遣り、
心からの優しさ、
誠実さ、
勇気、
忍耐、

現在、こういったことを多くの方が見失っておられますよね。
大切なことでありながら、
欲や煩悩に溺れて見向きもされないようでございます。

こういったことに注意を向け、
日々反省し努力を重ねておりますと心が軽くなって参ります。
こういった気持ちが神に向きますとそれが「義」になります。
人に向きますと「愛」や「慈悲」になります。

そうして更に
正しい生活習慣、正しい条件反射を身につけ、
判断力を研ぎ澄まし、欲をなくす努力をする。
これは本当に難しいものでございます。
修行僧などが荒行を行いますが、
こういった生活を維持し継続することの方がはるかに厳しい修行でございます。

こういった生活を続けておりますとやがては悟りが開け、
観自在の菩薩になるわけです。
心の周りのくもりがなくなりますので、
あらゆることが一瞬の間に見通せるんですね。

生命に囚われ、
自己の利益や欲に囚われている人には、
如何に遠い道程でありましょうか。


知性

人間って人より多少知識があると鼻が高くなりますね。
他人と知識の量を比べたがるんです。
こういったものは知性ではありませんね。
知識が人格を蝕むんです。
豊富な知識があっても自慢することにしか使われない。
そういった人は知識なんて持たない方が良いです。
霊性のある人間の意識ではなく哺乳類の意識です。
可哀想な人達です。

お金も知識も決して多ければ良いというものではありませんね。


一歩

季節はずれの話しで恐縮ではございますが、
毎年、初詣にあるお寺にお参りをさせて戴いております。
今年は布袋様を戴いて参りましたが、
この布袋様には秘密がございましてね。
一年目は小さな布袋様。
二年目は少し大きな布袋様。
三年目はもうひとまわり大きな布袋様。
といったように毎年、より大きな布袋様を戴いて帰る決まりになっております。

以前にこのようなことを書かせて戴きました。
「一歩進めば次の一歩が見えて参ります。」
「毎日が新しい人生の始まりでございます。
一日一日を精一杯力の限り生きておりましたら、
必ず何歩かずつは前進します。」と

でも、現実はそんなに簡単なものじゃないですね。
挫けることもございます。

布袋様を見ておりますとね、
やはり人はこの布袋様と同じように年々大きくなって行かなくてはなりません。
歯をくいしばってでも、毎年成長して行けるように頑張らなくてはなりません。
神様に遣わされた魂である以上、
正しい道を歩もうとする神様の子である以上、
それは決して反古にしてはならない約束事なのだと、そう思います。


感情

人には感情というものがございます。
正しい感情は理性や知性を育てます。
ですが、悪い感情は理性や知性の発育を妨げるものでございます。
感情を野放しにしておりますと、
次第に我欲が増え、苦しみが増えて参ります。
しっかりと御自身の心で感情を管理しなくてはなりません。

夫婦の関係であっても、
舅や姑と嫁の関係であっても、
親と子といった関係であっても、
御自身の感情のなすがままに行動し、
相手に迷惑を掛けておりましたら良い関係は築けませんね。

そうして、後でしっぺ返しを食らい、
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
私はなんて不幸なんだろうかと考える。
自業自得でございますよね。
ものごとの道理というものでございますよ。


幸せ

私が一人暮しを始めましたのもちょうど今頃の時期でございました。
入社して、少しずつ貯金を貯めまして、
ボロボロの下宿屋の一室を借りたんですね。
風呂、トイレ付き2万2千円。
陽の光が全く射し込まない暗くて汚い部屋で、
テレビもラジオもない暮らしでございました。
それでも、その頃は楽しかったですよ。

どこかの部屋でテレビを見ているようで、
その頃流行していた「ケンちゃん」なんて歌がかすかに聞こえて来るんですね。
良い歌だなあと思いながら聞いておりました。

ですからね、
幸せなんて収入や貯蓄額、恋愛なんてものとは関係ないんですね。
幸せだと感じれる自由な心が本当に幸せなんだと思いますよ。
少なくとも私はそうでしたから。


魂

優しくなろうとすることはそれほどにまで難しいことなんでしょうか?

もちろん厳しく接することが必要な場合もございますが、
美しいものも邪悪なものも全て両手に抱き締めましてね
「私はあなたを愛しています。」
「憎しみなんか捨てておしまいなさい。」
「魂を授かったということはとても素晴らしいことなんですよ。」
御自身に言い聞かせるようにそうつぶやいてみて下さい。
邪悪なものであっても悟って成仏して下さいます。

光りを放ち、
全てのものを美しい光りで包み込むんですね。
欲の愛では絶対に光りは放てません。
純粋に、幸せになって欲しいと願う気持ちが魂を輝かせるのです。

でも私がこれをしますと、異性であれば嫌がられますね。
同性でしたらもっと嫌がられます。

命はね、
自分のために使うこともできますし、
他人のために使うこともできます。
でもね、
御自身だけ良くなろうとしておりますと、どんどん悪くなります。
愚痴が増え、どんどん魂が暗闇に包み込まれます。
或いは怒りと憎しみでで真赤に輝く阿修羅になってしまいます。

命を掛けてでもこの人に幸せになってもらいたい。
そう思える心が何かを動かすんですね。


前向きな生き方

人間って、どうしてこんなに弱いんでしょうね。
振られたとか、捨てられたとか、不運だとか・・・。
悩んでもどうしようもないことで悩んでおられますよね。

皆様にはもっと前向きに、
力強く生きて戴きたいと思います。
そうして、
人が幸せに楽しく暮らして行くためのお力になって戴きたいと思います。
そうしますとそれが皆様にとって、
本当に幸せなことだと感じることができるようになりますでしょう。

歩くことを拒みダダをこねているようでは成長はありません。
苦しみも増すばかりでございます。
心の傷を癒すためにも、
心に背負った重い荷物を下ろすためにも、
目的地に向って歩き続けなくてはなりません。

皆様はもう充分に認識されていらっしゃるではありませんか。
自分に優しく人には厳しい、
それがどんなに身勝手で愛されない人格なのか、
自分に厳しく人には優しく、
それがどんなに素晴らしいことなのか。

義とは何か、愛とは何か、人間が生きている理由、
そんなことを過去に書かせて戴きました。
どうか忘れないで下さい。
自分には関係のないことだと放ってしまわないで下さい。

もう何人もの方がね、
感謝の気持ちを育て上げ、
神への奉仕の心を持ち、
様々な方法で他人の幸せのために心を砕かれていらっしゃいます。

満足して感謝します。
感謝しましたら、次は誰かの幸せを願って差し上げることです。
そうしましたら、何か活動せずにはいられなくなりますでしょう。
心が満たされて、信用も、地位も。名誉も上がります。
さらに大きな満足が得られます。

逆にね、
不満や悪口は信用を損ねます。
さらにレベルの低い仲間を呼び集めてしまいます。
不満がさらに状態を悪化させてしまうんですね。
その行き付く先は悪魔です。
悪魔は黒光りしておりますよ。
私は嫌いですね。


人間

何故人は堕落しようとばかりするんでしょうかね?
食を貪り、大酒を食らい、人を傷つけ、欲に溺れ、自己中心で、
あたかも天国ではなく地獄を目指しているような生き方を好んでいるように見えま
す。
私も例外ではありませんけどね。
己を律し大自然の法則に則った秩序正しい生活を続けることが如何に難しいか、
幾度も挫けては立ち上がり、それを繰り返しては悩み苦しんでおります。

強い信念を持つ、正しい理念を持つ、
それだけではどうしようもない業が人間には刻み込まれているように思います。

大自然に森羅万象があるように、
四季の移ろいがあるように、
人の運勢にも森羅万象がございます。
そうして様々な運・不運に巡り合います。

良運には歓喜してうつつを抜かし、不運には泣き叫び自暴自棄になるんですね。
そうして目的や高い理念を見失い、努力することを止め、
流されて行くんでしょうね。

不運はね、
御自身の所業から来るものもございます。
偶発的なものもございます。
でもね、
私はこれは神様や大自然からのプレゼントであると考えます。

心を大切にし、縁を大切にし、
慈愛と慎みと真心と信念を持っておりましたら、
そうして互いに助け合い、支え合って生活しておりましたら、
どのような不運も乗り越えられるものだと思うのですが。
不運を乗り切ることができましたら一回り強くもなれますし。
でも、人は他人の不運をやたらと喜ぶばかりなんですね。

私たちが互いに支え合い万人が幸せに暮らすことのできる、
そんな社会を建設することは難しいことなんでしょうか?

きっとね、今の人の多くは心の中に神様が住んでいらっしゃらないんですね。
神様から遠く隔たったところにいらっしゃるんでしょうね。
私もね、ほんの数年前までは神様なんて見向きもしませんでしたからね。
それは良く解かります。
ですから私のような人間が、
愛だとか、義だとか、
社会への献身や平和を願う心を訴え、
問題意識を持って戴こうと考ても無駄なんでしょうね。

我だとか、楽だとか、
社会への依存心や自分さえ良ければ楽しければといった気持ち、
悪知恵や体裁意識ばかりを増長させるんでしょうね。
うーん、私も余りよろしくない気持ちを持ってしまうことがありますから。

やはりね、神様は大切でございます。
私も常に心の中に神様を抱いていたいと思っております。


瞳を大きく見開きましてね、
上目遣いで神様を想い深く呼吸するんです。
神様の気を吸い込むような気持ちで呼吸するんですね。
そうしますと、心が少し清らかになります。

そんなことをある方に申し述べました。
数日しましてメールを賜りました。
「全てのものが輝いて見えるんです。」
ってね。

お試し下さいませ。


突然何を云い出すのやら

やはりね、
真っ直ぐに生きて下さらないと、困ります。
私も困りますし皆さんも困ります。
今は悪の勢力の方が強いんですから。

地上を堕落と混乱を招く地獄にしてはなりませんよ。
神の世界にしなくてはなりませんよ。

天の波動はとても細かな粒子で清々しく爽やかなものでございます。
逆に地獄の波動は粗く、粘りのあるものでございます。
地上に地獄の波動を満たしてはいけません。

楽しく、前向きに真っ直ぐに生きる。
それが地上を天の波動で満たす唯一の方法でございます。
いい加減、適当、放漫、悪知恵。
そういったものが地獄の波動の侵入を許してしまうんです。


散文

スーパーでは早くも鮎が店頭に並んでおりました。
塩焼きが美味しそうでございますね。
来月あたりには川に下り簗(やな)が仕掛けられましてね、
産卵のために川を下って来る鮎を取るんですね。
日本ならではの情緒豊かな涼やかな光景でございます。

私は今日も死者を供養するための御真言ばかり3時間程唱えまして、
くたくたになりまして、
バッハのトッカータとフーガなどを口ずさんでおります。(爆)

成仏できない方がやたらと増えておりますからね。

実は癒しもね、死者の供養も、胎蔵界の意識なんですね。
丹田や下丹田に力を入れましてね、
優しい気持ちで人の幸せや死者の成仏を願って差し上げる、
そうしますと胎蔵界の意識になりまして、癒しの波動が生じるんですね。

その気持ちが心を軽くするんです。
神様も感応して御力を貸して下さるんです。
運気も、急上昇するんですよ。

私もね、これからはもっと死者の供養に力を注がなくてはいけないと考えておりま
す。


散文

年末には正月用の大きな漆塗りの椀を買って参りまして、
これで汁物やらを戴いておりますが、
やっぱり漆塗りは温か味があって良いですね。
魂が安らぐようでございます。
百円なんですけどね。

昨年私が百円ショップで購入したヒット商品は、
1位 小さな土鍋
2位 漆塗りの椀
3位 玉子焼き用の鉄板
といったところでございましょうか。

本格的な焼き物の皿なども売られておりましてね、
これもやはり温か味のあるものでございました。
両手に取りまして掌に乗せてみますとね、
なんだかこれも欲しくなってしまいます。

それぞれにそれぞれの素晴らしい感触と温か味がございます。
眺めて手で触れまして温かさを感じて感動して差し上げますとね、
焼き物も、塗りものも、
生まれてきた価値があろうというものでございます。

この焼きものを見ておりましたらね、
やはり百円でもちゃんとお心が入っているのではないかと思えて参りまして、
目を閉じて心を澄ましてみましたら本当に何か伝わって参りました。

小さな火の中でじっくりと何時間も掛けて焼かれ、
癒され浄化されて生まれてきたお皿のようでございます。
念が入り込みますと粘土ですから、なかなか抜け出さない。
火で癒されることでその質が変化し、
料理を飾り人の役に立つ美しい器に生まれ変わったのですね。
嬉しいと云っているように感じます。

ところで、日本語には言霊というものがございますね。
水を湛えたものが「わん」、椀でもあり、湾でもございます。
皿は良く分かりませんが「砂嵐」もしくは「砂乱」ではないでしょうか。
鉢は「浜路」、鍋は「波辺」、釜は「風間」、
そんなような気がします。
海に囲まれた国ですからね、海や浜と関係があるんでしょうね。

ちなみに長いものは「はし」もしくは「あし」、
だだっ広いものは「はら」、奥深いものは「い」、
丸く膨らんだものは「かめ」でございますね。
漢字に当てはめてみますと良く分かります。

年末にはメリケン粉を買って参りましてね、
水で解いて汁に浮かせた水団(すいとん)を戴きました。
安くて腹持ちも良いんですよ。
名付けて「すいとんの術」!なーんちゃって。(古)