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間違った在り方

 

霊能力

霊能力は、前世で肉体修行をしていたか、今生で厳しい滝行などの修行をしませんと備わらないものですね。

人の心と云いますものには様々な状態がございます。
悟りを開きますと水晶のように透明になり様々なことが見通せるようになって参ります。
霊能者はボーリング玉のように不透明で穴が開いているのですね。
何故不透明かと申しますと、自我我欲や汚れた想念で曇っているからですね。
でもそこに穴が開いておりますから、深層心理と表面意識が同通して、その穴から心の世界(魂の世界)を覗き込むことができるのです。

でも、ボーリング玉のような霊能者は自分の心の中に何が潜んでいるのかも分からない。
見えるものも限られて来るのです。
でもそれは危険なことですからね、一刻も早く心を水晶のように研ぎ澄ます必要があるのですね。

心の正しい霊能者は反省という行為によって心の表面を磨き、守護霊様も心の内側を磨いて下さいます。
また、心の間違った霊能者はいつまでも心の闇に魔を住まわせ、心も真っ黒なままで自らの人生さえも狂わせてしまいます。
動物霊に憑かれて、動物霊の霊能力が得られたとしましても、心が堕落するだけなんです。
地獄霊に憑かれてしまいますともう目も当てられませんね。
身体が痺れ出して、悪寒が出て、皮膚に異常な感覚が生じて、病気がちになって、考え方もマイナスの方向にばかり向かうようになってしまうんです。
精神を患って寝たきりになってしまうこともあるんです。

修行

行者さんなどはやたらと肉体修行して、自我我欲で曇って不透明な深層真理に穴を開けたような状態になることがありますけど、これでは危険過ぎるのですね。
神霊の守護がありませんと、必ず心身に不調を生じてしまうんです。
滝行など命の危険にさらされるようなところまで身体を痛めつけますと、心の深層に意識が通じますからそれが何らかの形で霊感として現れますけど、命を落としてしまう危険と隣り合わせですしね、行場には動物霊などの低俗霊も多いのですよ。
魂が成長して、如来様のように宇宙意識と一体化してそこから得られます観自在力や神通力を得ることは良いのですけどね。

愚痴・誹謗・中傷

人間少しくらいは愚痴を云いたくなることもございます。それは仕方がないのですが、人を悪く想ったり、愚痴を云いたくなりましたら、それを吐き出すのではなくてね、心から反省して、心の在り方を修正するとともに、二度とそういった間違った想念を持たないように心掛けなくてはいけませんね。
そうしますとね、不満や愚痴、人を悪く思う気持ち、そういった暗い想念は次第に消えて、明るい想念に変わって来るんです。

そうしてまた、何故そのように想ったのか、考えたのか、
そこには嫉妬心や自我我欲、好き嫌いで判断する間違った物差しが隠れておりますことにも気付かなくてはいけませんね。
深く、深く、反省して、神様に謝罪し、懺悔して、心を正しい在り方に訂正するべきなんです。
正しく明るい想念で正しく生きることを心掛けるべきなんです。

そうしませんと、人生が間違った闇の方向へ進んでしまいますし、その行為や想念は必ず、何らかの形でその方自身に返って行くんです。
因果応報ですね。
それがこの世界での修行なんです。
その因果応報の修行の中で、気付くこと、成長すること、魂を浄化させて社会の役に
立つこと、万人が楽しく幸せに暮らせる社会を構築する力になること、
それが私達に与えられました使命ですからね。

宗教

神道は日本人の御祖様や日本固有の神様方、主に明神様を奉るものであり、国民の皆様の日々の生活の中に深く根付いておりますものでもございます。
ですから、神道は、信仰する宗教に関らず、日本国民の皆様がお参りし、また御守護戴くべき最も基本の宗教であると思います。

仏教(密教も含めまして)はお釈迦様の教えを守り、世界の、特にインドやネパール辺りの、お釈迦様を始めとする如来様、菩薩様を御奉りしております宗教ですね。
ただ、仏教の教義もお釈迦様の教えからは遠く隔たってしまっておりますようなところもございますが。

実は神仏の側から見ますと、宗教の別なんてものはないのですよ。
悟りを開かれました如来様の下に菩薩様がおられて、
その下に神道の明神様方がおられます。
仲良く一緒に私達を幸せに導いて下さる活動をして下さっているのです。

神棚やお仏壇も人間の都合であるだけでね、
神仏はそのような所に住んではいらっしゃらず、
大空を上座、大地を足台として大自然の中にいるのですよ。

ですからね、私達も心の中に正しく神仏を住まわせて神と共に生きること。
宗教を信仰するのではなく、神仏を信仰し、神仏がいて下さるから頑張れる、そういった義を持って生きることが大切なことではないかと思いますね。

水子霊

水子といいますものは、ご心配になられます必要はないと思いますよ。
何の罪も執着もありませんから、すぐにまた天に帰ってしまうんです。
思いますに、現在の宗教には誤りが多いです。
妊娠3ヶ月以内に中絶されたのでしたら、必ず同じ子供が生まれて下さいます。
子になって下さる約束をした人ですね。
妊娠3ヶ月以降でしたら、その方はもう生まれて下さることができませんけど、反省して、神様にお詫びして、お願いしますと必ず別の方が子として生まれて来て下さいます。

呪術

神仏を利用して願望を叶えさせようとする人間の生み出した術が呪術であるように思います。
その反対に、感謝の気持ちが根底にあり、それでもどうしても幸せにして差し上げたい人がいる。
その時に、精神誠意、信念を持って神仏に祈りお力添えを求める。
勿論、神様に判断を委ねるわけですから、間違った願いは叶いませんでしょう。
それでも自らも力一杯命懸けで頑張るからどうか神様、お力添え下さい、幸せにして差し上げて下さい、
と、これは祝福の祈りと私は呼んでおりますけど、呪術とは明らかに違いますよね。

どちらかと云いますと、やはり私は後者の方が正しい在り方であるように思うのです。

呪術で深層心理に祈りを捧げても、そこに魔物がおりますと、神仏にお願いしております積りが、魔物にお願いしているなんてことになってしまうのです。
心にわだかまりがある。
それだけでも深層心理に闇があり、そこに魔物が潜んでいるかもしれないのです。
恐ろしいことでございます。

ですからね、感謝の気持ちで心を輝かせ、神仏を利用するのではなく、神仏に正しく真っ直ぐにお願いすることが大切ではないかと思いますね。
勿論、他力本願ではなく、自力が基本にありましてこそ神仏もお力添え下さるのだと思います。

呪詛

呪詛もまた呪術に含まれますけど、これはノロイですからね、
そこに介在するのは間違いなく魔物ですからね、
後々必ずしっぺ返しを食らうことになりますね。

お経

お経はね、お釈迦様の教えでございますね。
ですから、唱えるのではなく、理解して実践しなくては何の意味もないものでございます。
唱えれば功徳がある、なんて欲深い人間が考え出したことなんだと思いますね。
ところが実際には功徳のように感じることが生じることがありますね。
一生懸命に唱えたので、善霊様がお力添え下さったのか、動物霊などの低俗霊がいたずら目的で一時的に願いを叶えて下さったか、そんなところでございますよ。
未成仏の霊もね、お経で成仏できると信じておりますから、
読経の声に集まって来るんです。
でも実際にはその方がご自身の人生や心を深く見詰め直して、心の在り方や想念を訂正しませんと成仏できないのですけどね。

僧侶

殆どの住職さんはスピリチュアルな事柄に関して、余り理解していらっしゃいませんね。

お釈迦様の教えて下さいました正しい法は時間の経過と共に形骸化し、人の手によって難しく学問化されてしまい、また、自己中心的な理論がそこに付加され、現代仏教の法は殆ど意味のないものになってしまっているんですね。

因果応報や業因縁といった言葉は知っておりましても、深く考えない、理解の範囲が狭いのでしょうね。
ですから、、その教えに確信を持つに至らず、自己保身や自我我欲のために商売住職(利益)の方を優先させてしまうんです。
そのような低い意識でそんなことばかりしておりますから、動物霊や低俗霊に憑かれた住職さんも沢山いらっしゃるんです。
それで自分が神仏になったような心持ちになって、偉そうな態度を取ったり、感情が安定しなかったりするんですね。

心の正しい住職さんは時には仏教の教えの中に矛盾を感じて悩まれます方もいらっしゃるとは思います。
まだ仏教の中には慈悲といった正しい教えも残っておりますようですから、それが救いとなっているのでしょうね。
真に慈悲をお持ちの住職さんは低俗霊の障りに遭わずに済んでおりますのでしょう。
大勢で盛大な供養しますと、心が伴っておりますから未成仏の霊もそのお心に癒されて成仏して下さったりもするのですね。

祈祷

祈祷は、祈りを捧げることでございますね。
祈祷にも2種類あるように思います。
精神誠意心を込めて神仏に感謝の祈りを捧げる祈祷と、
どちらかと云いますと神仏を利用して無理矢理にでも願いを叶えさせようとする人間本位の祈祷。

前者は祝福で、後者は呪術に含まれると思います。

呪術に含まれます祈祷でも、人や国家の幸せを願う祈祷で真心が伴ったものでしたら全く問題はないのですけど、
心の伴わない祈祷、ましてや我田引水の祈祷や調伏のための祈祷などは悪魔の祈りに繋がるものですから、
恐ろしいことをやっているなあと感じますね。

仏教の仏様の中には夜叉が神格化したような危険な仏様がいらっしゃいましてね、例えばダキニ天や歓喜天(聖天)は約束を違えますと罰があるようですし、信心して功徳を与えるのは一代だけ、子孫は貧しい生活を強いられるといったような仏様もいらっしゃいますね。
でも、功徳がそれだけ素晴らしいから、多くの方が信仰されるのでしょうけど、要は、悪魔を信心しているんです。恐ろしいことでございます。

密教系の寺は信者からの依頼がありましたら何でも引き受けちゃうのでしょうね。
たとえ調伏でありましても信者さんからの依頼は引き受けるのではないかと思いますね。
御依頼者の味方になって引き受けることが慈悲だと勘違いしておりますようなところもあるように思います。

ただ、中には心というものを分かっていらっしゃって、正しい祈祷しか引き受けないなんて仰られます素晴らしい住職さんがいらっしゃるかも知れないですけどね。
そうであって欲しいものだと願うばかりでございます。