ブログより転載(2007年4月)

 

霊的病気・失調の治療

少し霊的な病・失調の治療ということに関して、方法論を書かせて戴きたいと思いま
す。

幽体(霊体)は光でございます。
不調和な想念や行為がもとで、何らかの霊的な憑依を受ける、
そうしますと、幽体のその輝く光の中に黒点が現れるわけですね。

太陽と同じですね。

治療には、まず想念や行為を調和の取れた正しい在り方に修正する必要がございま
す。
次に、その幽体の中の悪の意識、エネルギーを吸い取る悪霊、
そういったものを拭い去ることが必要でございます。

心の汚れを拭い取るように雑巾がけする、
それも効果があるんです。
黒点を光で満たすつもりで、息吹術で吹き払う、
それでも良いのです。

なーにも難しいことではないですし、これだと毎日続けられますでしょう?

勿論、大声を上げて気迫で追い払ってしまう方法もありますけど。

どんな病気でありましても
必ず幽体上もその場所が暗くなっておりますようでございますから、
有効性はあると思いますよ。


終わりと始まり

最近、銃撃事件が立て続けに発生しておりますようで、
ものごとは重なるものでございます。
そこには、必ず偶然ではない何かの力が働いております。

終わりの始まりの始まりの終わりな〜のだ〜

バカボンのパパさんが以前そんなことを仰っておられました。
これはものごとの本質を見抜いた素晴らしい言葉だと思います。

始まりから終わりまでの1クールは、
3時間、3日、3週間、3ヶ月、3年、と
必ず3の付く期間でものごとは移り変わっていく、

このことはもう呪術家や占術家の間では常識のようなことなのですけど、
実はこの”3”が”3”ではなくて”7”なのだと仰られます方もいらっしゃいま
す。

どちらも正しいのでしょう。

そうしてまた、終わりは必ず始まりであるということ。
これもまた、大切な事柄であるように思います。


調和、普通の在り方

人には必ず弱い部分がある。
身体的にも、精神的にも、人生にも、心の状態でも、
完璧な人間なんて存在しない。
そこに人間の生まれて来た意味を感じる。
人間の素晴らしさを感じる。
弱い部分が、またチャームポイントや長所になったりもするのだから。

完璧な人間、それはアンドロイドを意味すると思われる。

人は偏った生活を続けると病気になる。
必ず、病気になる。
ただ健康的に年齢を重ねるだけでも機能不全になって行くのだから、
それは当然のことだと思う。
身体が、私達の真の姿でないことがこれだけでも理解できる。

心も、偏った在り方を続けていると病気になる。
身体の病なら、或いは心の病のほんの一部の解明された病なら、
医学の力で治すこともできる。
でも、医学は魂、霊体というものが存在しない前提のものであるから、
その領域も自ずと限られて来る。

人は、余りにも霊能力に興味を持ち過ぎる。
霊能力の恐ろしい面を全く考えようとしないで、むやみに霊能力を求め過ぎる。
心が幼稚なまま霊能力を得た時に、どのようになってしまうのか。
人は余りにもそういったことを知らなさ過ぎる。
そうして、時には霊的な病にかかってしまう。
これはお医者様には治せない病である。
そういった方面の術者も存在するが、高額な上に偽者も多い。
だから霊的な病にはかからない方が良いことは云うまでもない。

ところが、霊的なことをお仕事にされている人もいる。
でも、考えて欲しい。
再び最初の文章を思い出して欲しい。
偏った在り方を続けていると必ず病気になるのだということを。

私が治すのだ。これは偏った考え方である。
必ず治せるのだ。これは間違った考え方である。
本来、霊的な力は神様が与えて下さるものである。
純粋な人の想い、真心、願い、願うことの正しさ、他との兼ね合い、全体との調和、
そういったことを鑑みて神様が叶えて下さるものなのだ。
だから、叶うこともあるし、叶わないこともある。
願わなくても叶うこともあり、命懸けで願っても叶わないこともある。
全てを見極めて神様が叶えて下さるのである。
そこに術者の思惑が微塵たりとも入る余地はないのである。

神を、霊的なことをお金儲けに利用する、
神のことで人を騙す、
こういったことも偏った在り方である。
神の冒涜なのだ。

神とは、名前ばかりのものではない。
確実に存在するのである。
そうして、不調和な在り方(行為、想念)にはそれを悟らせるための反作用が生じる
仕組みを、
法を提供して下さっているのだ。

偏った不調和な在り方、
霊的なことについて調和を忘れたまま、不調和な在り方を続けているとどうなるか、
そこには必ず好ましからざる霊的な現象が発生する。
痺れや悪寒、圧迫感、マイナスの想念、災い
そういった現象が生じてしまうのだ。

だから人は神や霊に関しては正しく考え、
調和のある在り方を心掛けなくてはいけないように思う。
間違いに気付けば直ぐに訂正し、神に謝罪することだと思う。
そうして、できるだけ、普通の在り方、当然そうあるべき姿を維持するべきであると
思う。
人が正しく生きる道を全うすることだと思うのだ。


 最先端科学

以前、私共のサイトで、霊界の仕組みと題する最先端科学的掲示をさせて戴きました。
科学は、科学的考察のもとに、どんどん先に道が開けて来るものでございます。

心の最も中心に位置する場所に神の意識があり、
その周りに調和の意識があり、
その周りに愛や慈悲の意識がある。
さらにその周りに八正道があるのです。

それは私共のサイトの霊界の仕組みのページを見て下さいましたら、
そこに詳しく書かせて戴いておりますけど、

輪廻転生で魂が赤ちゃんの中に入ります時には、
この八正道の意識が無くなってしまうのですね。
判断力や生活週間、条件反射が無くなってしまうのです。
これは魂のその部分を削り取って輪廻転生するのでしょうね。

でも調和の意識や愛、慈悲は残っているのですね。

歳を重ねる、これは経験を積み、生活習慣や判断力、条件反射を再度積み上げるのです。
その過程で、私達は修行をして魂を鍛えるのです。

ですから、たとえ子供に正しい生活習慣や正しい条件反射、判断力がないからといって、
大人達より劣っていると考えるのは間違いなんでしょうね。
愛の大きさ、慈悲の大きさ、調和の程度、
それで人格は充分に判断できるのですね。


彼の言葉

「登って来なさい」
それが彼の言葉であり、意志でございました。
その謎に対する答えを、今日戴くことができました。

私達人の心の世界は地上から遥か上空までずっと続いているのですね。
仮にそこに巨大な霊界の富士山があると考えて下さい。
その富士山の頂上に立つためには家から出て登り始めなくてはいけません。
家に閉じ篭ったままでも、
地上の景色に執着しておりましても、
登ることを恐がっておりましても。
富士山の頂上に立つことはできません。

言い換えますと、
身をかばう欲、自己保身、
地位や名誉、金銭への執着、
労力を惜しみ、また自分のためだけに生きておりましたら、
富士山に登ることはできないのですね。

今は、殆どの人が地上付近の家に閉じ篭ったままの状態なんです。

ただ人のために執着を解き放ち、命を恐れず、全力を出しきること、
そうやって生きることこそが、富士山に登る、ということだったのですね。
そうして、頂上に立つことにより、視界が大きく開けるのだぞ、
ってね、それを教えて下さっていたんですね。