ブログより転載(2009年9月)

 



真っ直ぐな言葉



真っ直ぐな言葉、といいますものも大切ですね。

ほら、恋人にだって、

真心から生じた真っ直ぐな言葉で話さないと、直ぐに破綻してしまいますでしょう?

真っ直ぐな言葉と、

捻じ曲がった言葉、

愛を積み重ねるか、憎しみを積み重ねるか、

微妙なんです。

言葉一つなんです。


おっさんはね、根っこがどうも捻じ曲がっておりますようで、

油断しておりますと直ぐに捻じ曲がった言葉が飛び出して参りますけど、

忘れないようにせんとあかんなって、思います。


美輪さんがね、

お金は居心地の良いところに連れ立って来るよ、って仰っておられましたね。

このやろうとか、捻じ曲がった言葉の飛び交う喧嘩の多いご家庭はね、

やはりお金にも心があるのですからやはりそんなところは居心地は悪いものでございましょう。

優しいお気持ちで皆が仲良く思い遣り合いながら、

お金さんから見ましてもね、

当り散らすことなく気遣って下さるようなご家庭、

優雅にクラシックでも流れておりますようなご家庭にね、

集まりたいものではないかと思いますね。


真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな想念、

決して忘れず培って参りたいものだと思いますね。



誰のために生きるのか



人生、誰のために生きるのか、

それは他ならぬ自分のためでございます。

自分のため、私たち自身のために生まれてきて、今生きているのですね。

ですからね、

「私は、あなた方のために生まれて来たのです。」

んなおこがましいことを考えてはいけませんね。

そして、神霊や善霊、守護霊様方は、

私たち自身の成長のために心を砕いて下さっているのです。

正しい生き方をするように、

前向きに生きるように、

導いて下さっているのですね。


プラスの想念・行為・発言、生活習慣と、

マイナスの想念・行為・発言、生活習慣、

素直な真心と、

頑固で屈折した猜疑心、

愛と感謝の中に生きることと、

憎しみと不平不満や愚痴の中に生きること、

嬉しい、有り難い、素晴らしい、これもあれもやってみたい、

悲しい、つまらない、どうでもいい、嫌だ嫌だ、やりたくない、


前者の在り方は必ず人生にプラスに働き掛け、

後者の在り方は必ず人生にマイナスに働き掛けますね。

人は誰でもその両面を併せ持っているのです。

そのマイナス面はね、私たちは勇気を振り絞り自分の心に発破を掛けて、

修正してプラスの状態に戻さなくてはいけない。

私たちはその厳しい修行の中にあるのです。


そうして全ての状態をプラスに転じることができた時、

心は光り輝き、大いなる安らぎを得て、悟りを啓くことができるようになるのでしょう。

未だ解けない人生の難しい問題に正解を出すことができるのですね。



本日は晴天なり



良いお天気でござりますなあ。

昨日はハマチの短冊398円を半額の199円で買って参りまして、

昨夜、刺身に造りまして、

そうしますとたっぷり4人分程あるのですね。

で、昨夜は半分戴きまして、

残りはわさび醤油に漬け込みまして、

今日は今からご飯のパックを湯煎しまして、

ハマチの漬け丼を作るわけでございますが、

これがね、もう何とも云えないほどに美味しいのでございます。


例えばね、

ラム肉の塊を745円のところを半額の372円で購入して参りますとします。

そうしまして、ステーキ用に切断するわけです。

そうしますと6枚のラムステーキ用の肉が取れるのです。

一枚60円ちょっとですね。

毎日2枚ずつ戴きましても3日持つのです。

ステーキにして、焼肉にして、煮ラムを作って、

そうして日々安くて贅沢な食卓を一人で楽しんでおりますわけでございます。


弊店間際にスーパーに参りましてね、

今日はいいものないかな、

見切りされているものはないかな、

泣く子は・・・

いや、もう、いいって。(笑)

と、それがおっさんのささやかな楽しみになっておりますわけでございます。


これは、もうやめられまへんなぁ。



スキヤキ



人といいますものは歳を重ねて参りますと嗜好が変化しますね。

肉好きだったのが肉より魚の方が好きになり、

洋食ばかり食べていたのが和食の方が好きになって、

魚の煮つけとか筑前煮が美味しい美味しいといって食べるようになるのですね。

趣味も盆栽とか、踊りに謡、詩吟などに興味を惹かれるようになって来るのです。


スキヤキはね、おっさんは余り好きではないのですけど、

スキヤキという歌がありましてね、

坂本九さんの「上を向いて歩こう」という歌なのですけど、

あ、坂本九さんは、若い人は余りご存知ではないのかも知れませんけど、

ブラックマヨネーズの吉田さんとか、うっちゃんなんちゃんの南原さん、

蟹江敬三さんと同じグループの、

お顔のお肌が余りつるつるしていない人なのですけどね、


でも、私の文章って、「けど」が多いですね。

ケド戦記、ではないのですから。


で、その、坂本九さんの、上を向いて歩こう、ですけど、

長いので以降はスキヤキと表記させて戴きますね。

でね、そのスキヤキも食べる方のスキヤキと同じで、

余り好きではなかったのです。

良さが分からなかったと云いますか、


でもね、ある時に分かったのです。

素晴らしい歌だなあ、って、

感動したのです。

自分でふっと口ずさんでみて、

心を込めて歌ってみて、

それが実感として理解できたのです。


心が震える歌ってありますよね。

悲しくもないのに勝手に涙が出て来て、

力が溢れて、

それはね、歌う人の声が天高く届いているのですね。

如来様の所まで届くから、癒しの波動が返って来る。

そうして心がその波動に触れて感動するのですね。

純粋な気持ちで心を込めて歌いましたら誰だってできるのですね。

勿論、これは祝詞だって同じなんです。


でね、スキヤキは明るく心を込めて歌いますと高いところまで届きやすいのですね。

そうしますとね、分かるのです。

あぁ、ええ歌やなぁって。


ところでね、

日本には沢山心霊スポットと噂されておりますような場所がございます。

若い人などは何も分からずに落書きをしたり、いたずらをしたりしておりますようです。

で、そういった場所には根強い恨みの念やとんでもない邪悪な念、

その場所に執着した霊がいるのですから、

そういった霊を怒らせてしまったりするようですね。

勿論、そういった場所には近付くべきではないのですけど、

そういった場所で心を込めてスキヤキ等を心を込めて歌って差し上げますと、

彼らも癒されて下さいます。


だってね、その歌詞がね、


上を向いて歩こう 涙が零れないように
思い出す春の日 一人ぼっちの夜

上を向いて歩こう 滲んだ星を数えて
思い出す夏の日 一人ぼっちの夜

幸せは雲の上に 幸せは空の上に♪


って、彼らにとってはそのものずばりの歌詞なんですから、

彼らもきっと気付きを得ることができますでしょう。

と、おっさんはそう思うのですね。



韓流



以前、韓流ドラマで、宮廷に仕える男たちのことが取り上げられておりました。

韓国では、男たちが宮廷に仕えるためには、去勢しなくてはいけなかったのですね。

で、切り取りますでしょう。

そうしましたら3日3晩閉じ込められまして、

水を飲むことさえ許されないのです。

それは、切り取ったところが腫れて排尿ができず、膀胱が破裂してしまうからなのですね。

切り取ったタマタマはね、壷に入れて大切に大切にするのです。

そうして死後はお墓の中に一緒に埋葬するのですね。


彼らのことを、日本語で宦官(かんがん)と云いますね。

いえ、漢字のお勉強をしておりまして知りました。


人間とは、愚かなものでございます。

ぶら下がっているからといいまして、オプションではないのですから、

付けたり取ったりできるものではないのですから、

どうしてそのような風習が罷り通るのかは知りませんけど、

そのような愚かなことは今後ナシにして欲しいものでございます。

まあ、似たような愚かな風習は今もってアフリカの未開人種などにも残っておりますようですけど、


考えますと、人類は愚かな行為を繰り返して参りましたわけでございまして、

戦争もそうですね。

日本が敗戦したのはたかだか64年前のことでございます。

そして63年前に連邦軍?から日本国憲法を与えられました。

(この表現には少しばかり語弊があるかも知れませんけど、お赦し下さい。)

日本人はそこで基本的人権という考え方に初めて触れたわけでございまして、

でもね、今以て憲法で保障されておりますはずの基本的人権が守られていない法律が、

日本にはまだまだ沢山ございます。

で、57年前には、オキュパイドジャパンが沖縄を除いてジャパンに戻ったのです。

たかだか57年前です。

おっさんが生まれるたった10年前のことでございます。


そうやって考えますと、今の社会の状況はまあ仕方のないことで

及第点を付けても良いのかも知れませんけど、

今尚テロ行為や権力者が独裁支配支配しております国もありまして、

乱争やいがみ合いが世界のどこかで後を絶たずひっきりなしに起こっているのでありまして、

人類とは、まだまだ愚かなものよのう、と感じずにはいられないのでございます。


まあ、少しずつでも人類が良い方向に向かって行って下さるといいなってね、

おっさんはそう思います。

おっさんには何もできませんけどね。

残念ながらね。



気候



今日は汗ばむほどの陽気でございまして、

午後になりまして、空がどんよりとした厚い雲に覆われて参りまして、

先程から、しとしとと降り始めて参りました。


季節の移り変わりの時期によくありますような天候でございます。


これから急激に涼しくなって行くのでしょうね。

なんだか、そんな気がして参ります。


連休も今日で最後ですか。

まあ私には余り関係はなかったのですけど、

でもまあ、私も少し、ゆったりと過ごさせて戴きました。


サラリーマンの頃にはね、

連休が終わります度に、

次の連休はいつかな、と考えたものでございます。


さて、「秋の日はかかと落とし」と申します。

うっ、痛てっ!

これからは充実した夜の過ごし方が大切になって参ります。

心楽しく穏やかに、愛と光に包まれてお過ごし下さいますよう、

お願いします。


日本の明るい未来を祈りつつ。



地球



Youtubeで、「水曜どうでしょう」の闘痔(とうじ)の旅というのを眺めておりまして、

彼らは、北海道の温泉を、痔を治すために巡っているのですね。

いいなあ、北海道、

大自然が素晴らしいなあ、

って感じで眺めていたのですけど、

考えますとね、私たちは高い次元からこの物質界に下りて来ておりますわけでございまして、

この物質界の宇宙の中の地球という惑星に下りてきて、

大自然の中に一時的に暮らしているのですからね、

これはもう本当に素晴らしいことなのでありまして、

2千年に一度、ほんの数十年という短い時間を貴重な経験のために費やしておるのでございまして、

ですからね、

大地に寝っころがりましてね、

「生きてるぞー」

「うれしいぞー」

と叫んでみても良いものなのであるのですけど、

どうもそれが日常の細かなこと、些細なことに心煩わされてその感動を失ってしまっている、

それが私たち人間でありますわけでございます。

ですからね、

でっかいどうに住みたいとか、

住んでみたいとか思うのですけど、

その前にこの感動を失ったどうしようもないグダグダ心をどうにかしませんとね、

たとえラッキーな偶然が重なって北海道に移住できたとしましても、

その感動を直ぐに忘れてしまうのじゃないか、

感謝の気持ちさえ失ってしまうのではないかと、

そのように感じるのですね。


満足して感謝すること、

そして報恩の気持ちで生きること。

地球はどこにおりましても素晴らしいところなんですから、

まずその素晴らしさに満足しなきゃいけませんね。



うろこんを落とす



丁度、私が高校生の頃に関数電卓というようなものが登場しまして、

計算式を覚えさせられるのですね。

それで、その関数電卓に色んな関数式を記憶させまして、

ジャンプゲーム、とか、ゴルフゲームとか、作りました。

そのゲームをね、シャープさんに送ってみましたら、後日ボールペンが届いておりました。


ワープロやパソコンなんてものも、その頃登場しましてね、

よくデパートの家電売り場のパソコンを触って遊んでおりましたものでございます。


大学生になりまして、念願のポケットコンピューターを購入しまして、

ゲームを沢山作りましたね。

静電気か何かでよくエラーが出ましたけど、

メーカーに持っていって直して下さいとお願いしましても、

「壊れていません」と返答が返って来る。

そんな私にも就職活動の時期がやって参りまして、

最初に採用して下さいました会社でコンピューターの知識を徹底的に叩き込まれまして、

その知識を利用して、ポケットコンピューターで動くアセンブラのエミュレーターなんぞを作りました。

乗算するだけのプログラムが3分程も掛かってしまうというものでしたけど、

その頃はそんなことが本当に楽しかったのですね。


その頃に、まあ、最先端な分野では、人工知能、なんて言葉が登場致しまして、

どんなんかなー、と思いながらも今まで忘れておったのです。


私もまだまだ知らないことが沢山ございます。

そして様々な分野の最先端な人たちは時にはとんでもない異世界の発想を繰り広げます。

そういった異世界の発想をね、色んな人たちが本に凝縮して下さっている。

ですから、本を読むだけで新しい発想や異世界の知識を得ることができるのです。

そうして、そういった発想や知識はうろこんを落とし、視野を広げさせて下さるのです。


ですから、人工知能の本も買ってこようかなあと思うのです。

人工知能の考え方が何か今のおっさんに必要なような気がしているのです。

目からうろこん、落ちるかなあ。



らあめん



今日は、少しJAVAをお勉強しまして、

夕方からラーメンを作って、戴きました。

手作りのラーメンは、少し味が薄かったものの、

どんなインスタントのラーメンよりも、

どんな専門店のラーメンよりも、美味しかったです。


そりゃね、ラーメン専門店のラーメンはプロが作っているのですから美味しいですよ。

沢山の選びに選び抜いた具材を手間隙かけて煮込んでいるのですから、

それは勿論素晴らしい味でございましょう。

でもね、楽しみながら、智恵を働かせて工夫しながら、

愛情を込めて自分で作るラーメンの方が自分に合っていて美味しいのは、

当たり前ではありませんか。

間違いなく自分が一番食べたい、食べるべきラーメンが、

できるのではないかと思いますよ。

勿論料理の一つもしたことのない人ではダメでしょうけどね。


たとえばね、

専門店のラーメンで心は休まりますでしょうか?

心の奥底から満足できますでしょうか?

それが真に美味しいと言うことではないかと、

おっさんは思うのです。

たとえ味が薄くてもね、

間違いなく自分でごさえたラーメンの方が、

美味しくて幸せな気持ちにもなれるし、

さらにはそれが健康にも繋がると思うのですね。


忘れてしまいがちなことですけど、

大切なことだと思いますね。



張りつめた弓のー♪



弓はね、常に曲げられて緊張した状態を保っておりますね。

これはね、本当に苦しいことではないかと思います。

人生誰だって緊張した状態が続きますとどうにかなっちゃいますからね。

でもね、弓は常に緊張していて、

矢を射る時にはさらに極限まで歪められるのですね。

それでも決して折れたりはしないのです。

これを、「ねばり」と云いますね。


人生、ねばりを持って生きたいものだと思います。

そして苦しいときには、この弓を思い出して励みにしたいと思うのです。


ねばりはね、

当然の如く苦しみを覚悟して、

根性を据えて掛かって、

だからねばりが出るのですね。

そして、そのねばりがあるからこそ、

矢を射ることができるのです。


それとね、

大切なことは、

あせろうとする気持ちがあってはいけませんね。

全くあせろうとする気持ちが人生を台無しにするのです。


あせろうとする気持ちを抑えてねばりを持って生きる。

これは奥義に相応しいものですね。



長嶺さん



中学生の頃、剣道なるものを習っておりました。

その頃の私が余りに軟弱だったからかそうではないのかは分かりませんけど、

私の親は私に剣道なるものに通わせました。

小学校の体育館でね、

座長、っていうのでしょうか、なんと行って良いのかは分かりませんけど、

その時に筆頭を務めておりましたのが長嶺さんというおじいちゃんでございました。

その頃に70歳位のおじいちゃんですから、

今まだご健在でいらっしゃるのかどうかは定かではありませんけど、

もしご健在だとしますと100歳を軽く超えているのでありまして、

まあ、恐らくはもうこちらの世界にはいらっしゃらないのではないかなあ、

と思われるのでございます。

まあ、兎に角、元気なおじいちゃんでございました。


剣道はね、私は全く上達することはありませんでしたね。

型稽古から入りまして、胴着を付けてのぶつかり稽古、

私はね、おバカでしたからぶつかり稽古の意味がね、分からなかったのです。

隙があれば竹刀で相手を叩きのめしても良いのだと知らなかったのです。

その最も根本的なことを理解していないから、稽古にもなんにもならない。

それ故に、全く上達しなかったのですね。


ところで、その場所にはおじいちゃんから小学生まで沢山の人が剣道の技を磨きに来ておりました。

おじいちゃん方やある程度の力量のある人は先生を務め、

まあ、その筆頭が長嶺さん、であったわけですけどね、

長嶺さんはよく私のぶつかり稽古の相手をして下さいました。

長嶺さんはね、

面の下から、「よし、面、胴だ。」、「こて行け、ほら、こてだ。」、「こて、面だ。」、「声を出せ。」

とアドバイスして下さるのですけど、

その声が小さすぎてちっとも聞き取れない。(笑)

結局、私は剣道の練習ではなく、ただ竹刀を振り回すためだけにその体育館に通っていたわけなのですけど、


そこにね、お名前は忘れてしまいましたけど、

もうお一方、長嶺さんと同じくらいのご年齢のおじいちゃんがおられましてね、

長嶺さんとよく立ち回っておりました。

その時の気合いはもの凄くてね、

「おうりゃーこてえんーー」、

「どわりゃーおうりゃーえんどうーーー」、

「えんーいっぽーーんうちぃとおったーりーー」

てね、その戦国時代の合戦さながらの立ち回りはね、

皆、固唾を呑んで、目を真ん丸くして見守っておりましたね。


いえ、落ちはないのですけどね。

大阪の人間が必ず話しに落ちをつけるわけではないのです。

ただ、何となく思い出したので書かせて戴きましただけなのですけどね。



共産主義な人たち



最初、私はその人たちが何故そのような考え方をなされるのか、

理解に苦しみましたね。

だって、私から見ますと本当に理不尽なことばかり強要する人たちなのですから。


例えばね、会社組織内に有給休暇を沢山消費する人がいる、としましょう。

経営者や上司が、「進捗が遅れているから休暇を取るのはできるだけ差し控えて下さい。」

とお願いするのでしたら良いのです。

或いは、そのことで同じ課の人に負担が及んでいるのでしたら、

正式に上司を通して主張すれば良いのです。

ただね、迷惑が及んでいる訳でもないのに、

自分は休みも取らずにこれだけ頑張っているのだから、と考える。

こんにゃろ、と考える。

権利なんですから、

そこは会社の業務に支障を来たさない範囲でね、

前もって申告しておりましたら自由に取って良いはずなのですけど、

それに目くじらを立てる人がいらっしゃる。


また、例えばある組織ではお弁当が支給されるのですけど、

外食をしても良いのです。

外食をすれば800円の外食手当てがでるのですけどね、

そうしますと、必ず、

「チームの誰かが外食できずに弁当を選択する場合、チーム全員弁当にしなくては不公平です。

外食をしても構わないですけど、その場合は自腹で外食して下さい。」

てなローカルルールを強要する人が現れるのですね。


別に昼飯ごときで不公平も何もないだろうと思うのですけど、

それに日本は自由主義の国なのですから、誰が外食しようが構わないと思うのです。


で、分かったのです。

要はね、この人たちは人が良い思いをするのが嫌なんです。

だから、人の方が良い思いをしていたり、収入が多かったりしますと、

分け分けを強要するのです。


だから例えば、職場におしゃべりばかりで仕事が遅い人がおりますと、

自分が損をしていると考えるのです。

給料がその分低くて当然だと考えるのです。

勿論、経営者や上司がそのことで処遇を決めることは問題ありませんでしょう。

厳しく注意を受けることも仕方のないことかも知れません。

でもね、普通、職場の仲間は暖かい瞳でアドバイスして、

成長を見守ってあげるのではないかと思うのです。


また、例えば家族の中に収入の多い人がおりますとね、

その分、沢山家庭に入れることを強要する。

これは勿論、本人が自発的に多い目の額を家庭に入れることを申し出ることは構わないのです。

その場合、勿論、家族の愛と感謝の言葉を受け取るか、

或いは、この分はあなたのお金だから、と行ったり来たりの押し付け合いが展開されることが、

まあ、普通でありますように思うのですけどね。


恐らく、その御家庭以外の殆どの複数世帯のご家庭では、

家族の中にどんなに収入が多い人がおりましても、家庭に入れる額は同額で、

まあ、若い人は免除されることはあるかも知れませんけど、

日本は資本主義社会なのですから、当然、家庭内にも貧富の差があるはずなのですけど、

(勿論ご主人の稼ぎの半分は奥様の家事の報酬であるべきですね。)

そして多くの場合、助け合いの精神で、

余裕のありますものは自主的に家庭に沢山入れることになるのでしょうけど、

でもそれは、強制的分け分け主義とは違いますからね。


でね、考えてみて欲しいのですけど、

この人たちの考え方は、まさしく、

万人が平等な共産主義的管理社会なのでありましてね、

誰も損したり得したりしないように、

強制的に分け分けしたがるのですね。


別に自分は自分なわけでありまして、

人はどうでも構わないのではないかとおっさんは思うのですけどね。



誇りを持って生きる



誇りを持って生きる、

それは本当に難しいことでございます。

ただ、本当に誇りを持って生きることができるようになりますと、

深層心理は、心の奥底の神霊システムは必ずその人を幸せな境遇に導いて下さる。

それは間違いのないことなのです。

では、誇りを持って生きるために私たちはどうすればいいのでしょうか?

それはね、毎日毎日、悔いのない生き方を実践するしかないのです。


悔いのない生き方、

間違いのない生き方、

正しい生き方、

それを実践しておりましたら、

良い種には必ず良い実がなるのです。

良い行いには必ず良い結果があるのです。

七難八苦、七転八倒しましても、

最後には必ず良い方向に転ずるのです。

良い行いをしているのに良くならないはずはないのです。


例えば、祈り、

人のために祈って、それがどうして悪い目が出るなんてことがありますでしょうか。

願いが叶う、叶わない、だけではなくて、必ず良い目が出るのです。

例えば、愛、思い遣り、真心、救いの手、

無私の気持ちで行うことには必ず良い結果があるのですね。

その人だけではなくて、必ず自身にも見返りがあるのです。

徳を積むことだって、これはとても難しいことですけど、

無私の行為で徳を積むことができるのです。

深層心理はご自身に誇りさえ持たせて下さいますでしょう。


でね、私思うのです。

人生相談なんて良いのではないかなってね。

人生相談の窓口を開いて、人の人生を一緒に悩んで差し上げて、

それは必ず人を逞しくして下さる。

徳を積み、誇りを持って逞しく生きれるようにもして下さいますでしょう。


自分のために生きております人は弱く、

人のために生きております人は強くなれるのですから。



またまた夢日記、稲川淳二、もしくはBBゴロー風



何日か前に私、ある夢を見たんです。

目の前にスーッとバスがやって来ましてね、

来たぞ来たぞ来たぞー、

やだなー、なんか来たぞって思って、私そーっと覗いてたんです。

そしたらバスの扉がギーッと開きましてね、

そこから何人かの黒ずくめの連中が降りてきた。

うわー、怖いなー、

背筋がぞーっとしましてね、

やだなー、見たくないもの見ちゃったなーって、

そしたらその黒ずくめの連中が

「乗って下さい、乗って下さい」ってバスの中に人を押し込んでいるんです。

私のところにもその連中が来ましてね、

バスの中に押し込もうとするのです。

「違います、違います」って云ったのですけど、

「乗って下さい、乗って下さい」って、

とうとう私もそのバスに乗せられてしまいましてね。

変なバスに乗っちゃったなあって思いながらバスの中を見回してみますとね、

とても偉い先生方ばかりが乗せられていましてね、

どうも私一人間違って乗せられてしまったみたいで、

ガタガタガタガタ、私もう震えが止まんなくなっちゃいまして、

そこで目が覚めちゃったんです。


来てるぜー



親の愛



裁判員制度が始まりまして、もう既に何度か裁判員による裁判が行われましたようでございます。

一日5時間働いて、1万円程度の報酬。

これは本当に割に合わないと思いますね、

殆ど強制的に労働させられて、拘束されて、1万円。

んなおバカな話があるかと思うのです。

そこいらの公務員だってもっと貰っておりますでしょう。

それにね、私たちの判断はそんなには安くないのです。

そう思われませんか?

一日、5万円だってまだ少ない。

ったく、安く見られたものだと思います。

でも、何故か、だれもそのことでは憤慨しないのですね。

どうしてなんでしょう?

私には理解できないのですけど、


ところでね、

先日の裁判では加害者の父親が証言台に立って裁判員の質問を受けておりました。

私には、その父親の姿が、余りにも過保護な父親でありますように映りました。

それで少し本当の親の愛とは何か考えておったのですけど、


できることなら自分が犠牲になっても加害者である子を助けてやりたい。

我が命を犠牲にしてでも子の罪を軽くしてやりたい。

これは、本当の親の愛でしょうか?


加害者である子が罪をしっかりと償って、

罪を清算して、身も心も綺麗になってもう一度人生を一から遣り直して欲しい。

立派に立ち直って欲しい。

この、どちらが本当の親の愛でしょうか?


皆様にも考えてみて戴きたいのですけど、

前者の親御様が余りに多いように私は感じるのです。

それはたとえ慈悲の心から出たものでありましても、

子の人生を妨害してしまう考え方でありますように感じます。

慈悲ではあっても愛ではないのですね。

正しいものを与えるのが愛なのですから、これは愛ではない。

過保護という、行き過ぎた慈悲ですね。

良いですか?鳥だって子が空を悠々と飛べるように巣から小鳥を突き落とすのです。

子のために辛い思いを堪えて立派に社会で生きれるように訓練する。

人様に迷惑を掛けないように、

お天道様に恥じないように、


私には、前者の親の愛は、犯罪者を生み出すものでありますように感じるのですね。

ほんのちょっとしたことかも知れませんけど、

そのホンのちょっとしたことに危うさがあるのです。

おっさんは、そう思います。



寿命



今日は680円の焼肉セットが半額になっておりましたので購入して参りまして、一日掛けて戴いておりましたおっさんです。

んなことばかりしているから、寿命を縮めてしまう。

そうなのです。寿命を延ばすことは難しくても、寿命を縮めることは簡単なのですね。

不調和を続けておりますと、寿命は縮みます。

いえ、食生活だけではありませんね。

調和した家庭の中でね、

「じいちゃんも、ばあちゃんも、長生きしてや」

「おまえたちも健康でな」

と、このような会話が日常的に交わされ、互いに思い遣る生活習慣の中にありますと、

人は恐らくは本来の寿命まで生きることができるのです。

ところがね、皆自分が一番可愛い。

ですから自分中心の考え方を離れられず、周りの人に迷惑を掛けてしまうのですね。

こうして欲しい、ああして欲しい、とか、

どうしてこうしてくれないのか、とか、

どうしてあんたたちはこんなにお馬鹿なんだろうね、まったく、とか、

そういった想念が生じて、その想念を離れられず、その想念に振り回されてしまう。

そうして周りの人を思い遣るどころか無碍に扱い、何事も二の次三の次として遇してしまう。

勿論、自分が一番なのですね。

そのような人がね、周りの人に「長生きしてや」と祝福されるわけがないのです。

不調和な人間関係の例ですね。


キリスト様はこのように訓えて下さいました。

自分を愛するように隣人を愛しなさい。

まさに、そうなのですね。

誰に対しても客観的に見て自分と同じように考え、扱って差し上げる。

自分が可愛いのなら、周りの人の自分が可愛い気持ちも理解できますでしょう。

皆、同じなんです。

そしてね、自分が可愛ければ、是非そうして差し上げるべきなんです。

それがね、本当に幸せになるコツではないかと思いますね。

健康で幸せに長生きしたいのでしたら、

祝福されて天寿を全うしたいのでしたら、

絶対にそうするべきだと思いますね。



迦陵頻伽−かりょうびんが−



迦陵頻伽は、天に住む声の美しい霊鳥でございます。

頭が人間、身体が鳥の姿をしておりまして、

雅楽にも迦陵頻として存在しておりますようでございます。

どうもこれは、ベトナムの僧侶が日本に伝えたもののようで、

祇園精舎供養の折に飛来した迦陵頻伽が美しい声で鳴きながら舞ったのですね。

それを聞いておりました妙音天が曲にしたのです。


この曲に合わせまして、背中に羽を付けた子供たちが神楽を舞う。

おっさんも覚えて舞ってみたいものでございます。


大阪には、難波宮という宮殿跡がございます。

難波宮は孝徳天皇在位中に建立されたものでございまして、

645年の大化の改新直後に即位されました孝徳天皇が大阪に都を移して建立に取り掛かり、

652年にようやく完成した立派な宮殿でございます。

でもね、その宮殿はたった二年しか使われなかったのですね。


雅楽は、538年の仏教伝来の後に伝えられた大陸の音楽なんです。

恐らくは難波宮のその広い庭で優雅に奏され優雅に舞われたであろう雅楽、神楽、

ちょっくらその世界を覗いてみたいと思うのは、

おっさんだけではないと思うのですね。



魂を構成するもの



魂とは、個性を持った意識体であるよ、

と、先生は仰られます。

そしてその奥には、大神霊の意識に繋がり、

そこに魂として存在し、経験し、

積み上げ、重ね上げた条件反射が存在しているのです。

即ち、魂の過去がそこにあるのですね。

勿論、表面意識であります四次元体の中にはなくて、

もっともっと深いところに間違いなく存在し、

私たちの人格を構成する要素になっているのでございます。

でもね、今生の命としての条件反射や生活習慣はね、

殆どがその魂の経験から来るものではなくて、

幼少期から積み上げて来たものですから、

これは幾らでも修正する余地はあるのですね。

そして、客観的に正しい在り方を考え、修正しておりましたら、

魂の奥深くに積み上げた魂の記憶と重なり合い呼び起こされるようなこともありますでしょう。

ただ、修正する作業を嫌がっておりましたら、

人はいつまで経っても愚かなままでございます。


人類の意識が次第に浄化されて来ている。

そのようなことを仰られます方が最近増えておりますように思います。

ところがね、実際にはそうではない。

昨今のスピリチュアルブーム等で高い意識に到達なされます方も増えてきているようには感じますが、

殆どの人の意識はどんどん低下しているのです。

精神的格差社会、とでも云えば良いのでしょうか。

その二極化は、顕著ですよ。


そして、気付かない人や新興宗教などに現を抜かしている人などは、

間違いなく平均値を下げている部類に入ります。

何故なら、気付かなければ意識を高めることなんてできないのですから。

高い意識に到達された人もね、

気付かずにそうなったのではありませんよ。

苦しみの中から、

或いは悩みの中から、

一つずつ神理を見つけ出して来られたのです。


キリスト様のお言葉が心の中に蘇りますね。

良い種は撒かれ、悪い種は捨てられるのです。

審判の日には、必ずそうなるのです。

天に帰れるか、地獄に落ちるのか、

それは、他ならぬ大神霊の法によって、

ご自身が現世で積み重ねてきた想念と行為によって、

意識の高さによって、

光の量によって、

撒かれるか捨てられるかが決まるのですね。


悪いことは云いません。

でもね、無関心ではいけませんよ。

無関心では余程自覚して生きた人でなければ、

間違いなく捨てられることになってしまいますからね。